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30/05/2026

Văn minh Triều Tiên - kĩ thuật in chữ rời đúc kim loại đầu tiên trên thế giới vào thế kỉ XIII

Nhiều năm trước, trong các lần du lãng Hàn Quốc, tôi kiểu gì cũng phải ghé quán thịt chó - một đặc sản của tộc người Triều Tiên (ví dụ lãnh tụ Kim Chính Ân phát động nhân dân Bắc Triều Tiên nên tích cực ăn thịt chó, trên Giao Blog đọc lại ở đây). 

Hồi ngày xưa, lúc tôi du lãng các làng chài hay các làng nông nghiệp ở Fushan (Bushan), quán thịt chó ở đây chưa từng có mắm tôm. Nay thì tình hình có lẽ đã khác rồi ! Giao lưu quốc tế thì sẽ đưa đến việc "mix đồ" một cách tự nhiên mà thôi.

Thịt chó là món quốc hồn quốc túy của người Triều Tiên, bất kể là người miền Bắc hay người miền Nam.

Ngồi trong quán thịt chó ở Fushan (miền Nam), nhiều khi lại bất giác nghĩ về văn tự và kĩ thuật Triều Tiên ! 

0. Triều Tiên, với nghiên cứu của tôi (một số bài thì tôi đã cho đăng tải trên các tạp chí học thuật hay các sách), là một tộc người có trí tuệ siêu việt trong sáng tạo văn tự ở vùng Đông Á nói riêng và trên toàn thế giới nói chung. Họ đã tạo ra được bộ chữ cái Hanguel (ngạn văn) để ghi âm tiếng Triều Tiên từ rất sớm. Bộ chữ đó được sử dụng là văn tự quốc gia hiện nay (ở cả hai miền Nam Bắc Triều Tiên).

Người Triều Tiên tiếp thu văn minh Phật giáo và văn minh Trung Hoa, từ trên cơ sở đó mà có những phát minh kiệt xuất, mà đáng kể nhất là trong sáng tạo văn tự và sáng tạo kĩ thuật.

1. Từ thế kỉ 13, trên cơ sở tiếp thu kĩ thuật in ấn truyền đến từ Trung Quốc, người Triều Tiên đã phát minh ra kĩ thuật in chữ rời (hoạt tự) đúc bằng kim loại (đồng). So với châu Âu, kĩ thuật in hoạt tự bằng chữ đúc kim loại của Triều Tiên còn sớm hơn tới khoảng nửa thế kỉ.

2. Năm 1592 (năm Nhâm Thìn), tướng quân Toyotomi Hideyoshi (豊臣秀吉, Việt Nam quen gọi là Phong Thần Tú Cát) mang đại quân Nhật Bản đi đánh Triều Tiên, đã mang kĩ thuật in hoạt tự bằng chữ đúc kim loại về Nhật.

Bởi vậy, sau năm 1600, ở Nhật Bản, bùng lên kĩ thuật in hoạt tự.

3. Ngược lại, do bị mất mát rất nhiều công cụ hay tài nguyên của nghề bởi cuộc chiến năm Nhâm Thìn 1592, mà ở Triều Tiên nghề in hoạt tự suy thoái sau năm 1600. Mất khoảng mấy chục năm, vào đầu thế kỉ XVII thì nghề in hoạt tự ở Triều Tiên mới hồi phục được.

4. Trước khi có in hoạt tự, tại Triều Tiên nghề in mộc bản cũng rất phát triển. Nổi tiếng nhất là bộ kinh Phật Đại tạng kinh bản Cao Lệ (高麗版大蔵経) được in mộc bản, có khoảng 6500 quyển với khoảng 8 vạn tấm ván khắc.

Ghi nhanh. Các hồi cố và bổ sung sẽ được dán dần lên ở dưới đây.

Tháng 5 năm 2026,

Giao Blog



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第3話: 世界で初めてつくられた金属製の朝鮮活字

世界で初めてつくられた金属製の朝鮮活字

木版印刷が盛んだった中国の影響を受けて、10世紀以降、お隣の朝鮮半島でも印刷技術が大いに発展し、13世紀にはきわめて本格的な仏教経典が製作されています。6,500巻に及ぶ「高麗版大蔵経」をつくったときの版木の枚数は、実に8万枚を超えていたほどです。

これより先、8世紀前半に印刷された経典に、当時、仏教文化が栄えていた韓国・慶州の仏国寺で発見された「無垢浄光陀羅尼経」があります。つくられた年代がはっきりせず、もしかすると中国から贈られたものであるのかも知れないのですが、日本の「百万塔陀羅尼経」より前に印刷されていたことは確かなようです。その印刷技法が日本に伝えられ、「百万塔陀羅尼経」製作の参考になったと考えられます。

木製や陶製の活字も当然のように中国から伝わってくるのですが、13世紀の初期に独自の技術による銅活字がいち早く開発されています。朝鮮は世界に先駆けて、金属活字の実用化に成功した国となりました。ヨーロッパにおける金属活字の登場より50年も早い、世界初の画期的な出来事だったのです。14世紀末には、本格的な活字鋳造所が設立されたくらいです。13世紀前半からすでに銅活字を使って印刷していたのですから、朝鮮における印刷技術の水準は非常に高いものがありました。

この金属活字は、李朝時代になってしばらく停滞してしまったのですが、15世紀を迎えるや、ソウル市の南山地区に大規模な活字鋳造所が設置され、新しい活字書体「癸未字」が数十万本も鋳造されました。15世紀を通して、鋳造と印刷の技術がどんどん改良されていき、新書体の開発や古い活字の改鋳も進みました。これらを使って印刷した歴史書や経典解説本などが今に残っています。そうした優れた印刷物の出現により、李朝時代の朝鮮が文化的にめざましい発展を遂げたことはよく知られています。

豊臣秀吉が朝鮮半島を攻めた壬辰の乱(1592年)で、朝鮮の金属活字が日本に持ち込まれました。これを機に、日本の活版印刷が大きく前進することになったのですが、活字や鋳造具、書物などを奪われた朝鮮側の打撃は大きく、一時期、衰退を余儀なくされたのです。完全に復活する17世紀中頃まで、実に70~80年ほどの期間を要したのです。立ち直ったこの印刷法は、その後19世紀まで続いていく基礎となりました。

https://www.jfpi.or.jp/printpia/topics_detail21/id=3524


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第2話: 世界最古の印刷物として有名な「百万塔陀羅尼経」

世界最古の印刷物として有名な「百万塔陀羅尼経」


日本の奈良時代(8世紀中葉)につくられた「百万塔陀羅尼経」は、開版年代が判明していて、しかも現存する印刷物としては世界最古のものです。当時は歌集や経典、さらには史実の記録などに関する書写が盛んになってくる時代でした。そんな社会環境を考えれば、この「百万塔陀羅尼経」が印刷技術によって大量に複製されたのには、必然性があったといってよいでしょう。

では、「百万塔陀羅尼経」は、どんな時代背景のもとでつくられたのでしょうか? 史実によると、称徳天皇が道鏡(僧侶)を重用したことを不満に思った大臣の藤原仲麻呂が、排斥を要求するクーデター(恵美押勝の乱)を引き起こしました。それを平定するための戦いで双方に大勢の死者が出たのですが、これを悼んだ称徳天皇が770年に、供養と平和祈願のために勅願し製作したのが百万塔でした。6年の歳月をかけて高さ20㎝ほどの小さな三重の塔を木材で百万基もつくり、地元・奈良のお寺を含む近畿地方の国分寺(10大寺)に、それぞれ10万基ずつ奉納したのです。

「百万塔陀羅尼経」は、その塔のなかに収められていました。残念なことに、現在残っている塔は法隆寺に安置された分だけです。それでも4万5千基以上あり、陀羅尼経(無垢浄光経)も約2千巻が確認されています。幅5.4㎝ほどの小さな巻紙の状態で収納されていました。

陀羅尼経の経文は自心印、根本、相輪、六度の各陀羅尼経があるのですが、そのうち最も長いのは根本陀羅尼経で長さ51.5㎝、最も短い六度陀羅尼経でも長さは27.2㎝あります。そこに1列5文字の経文が整然と印刷されているのですから、天皇が心から追悼の念を抱いていたことがよく分かります。

用紙の材料としては麻、黄麻、殻(かじ)の3種類を使っていたと考えられています。問題は版の材質です。当時の技術レベルから木版を使用していたと考えるのが自然なのでが、果たして100万部も摺る耐刷力があったのでしょうか? 途中で摩耗してしまうのではないかという疑問が付きまといます。銅版も考えられないわけではないのですが、技術的に製作可能であったのかどうか、大変疑問です。開版年代が判明している割には、よく分らない謎が未だに残っていることは、世界最古の印刷物に相応しいのかも知れません。

https://www.jfpi.or.jp/printpia/topics_detail21/id=3525


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第1話: 木版印刷の始まりは中国での“摺仏”から

木版印刷の始まりは中国での“摺仏”から


インドから仏教が伝来していた中国には、その後、7世紀に入って千体仏をつくる方法が伝えられました。仏像印を織布の上に押捺して、仏像を何枚も複製する印判の方法でしたが、中国ではこれを、墨を塗った仏像の方に紙を乗せて摺る擦仏という方法に変化させたのです。木版印刷の始まりでした。8~9世紀頃(唐代)に、仏の姿が生き生きと描かれている「金剛経」(868年)がつくられているのをはじめ、数多くの仏教経典の作成にこの印刷術が盛んに活用されていきました。

唐が滅亡した直後の10世紀には、孔子の経典や菩薩像を普及させる社会的事業のために、木版印刷が大いに貢献しているのですが、中国において木版印刷が隆盛期を迎えたのは、学術や芸術が著しく発展した宋代に入ってからでした。紙や墨の品質改良、字体の整備が後押ししてくれたのですが、木版をつくる彫師、印刷する摺師の技術向上には目を見張るものがありました。出版の観点からは高度な編集、厳密な校正、丁寧な装丁という要素が加わり、木版印刷による刊行物がたくさんつくられたのです。

元代、明代、清代と時代を経るにつれて、さすがに木、陶、銅でつくった活字が加わっていき、それ以前の13世紀末には早くも初の木活字本がつくられたほどでした。しかし、それでも中国では18世紀にヨーロッパ式の金属活字印刷が紹介されるまで、一貫して木版印刷が主流でした。アルファベットと違って文字数が極端に多く、絵柄も同時に複製したいという事情があって、長い間、木版印刷が中心だったのです。この点は、日本においても全く同様でした。

https://www.jfpi.or.jp/printpia/topics_detail21/id=3523


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活字印刷術

北宋の11世紀前半に、畢昇が土製の活字を考案、後に木製になり、13世紀には朝鮮の高麗で金属活字が生まれた。ヨーロッパでは15世紀のグーテンベルクが活版印刷を実用化した。

 版木に文章を彫る木版印刷に対し、文字を一個ずつ印形にして組み合わせる印刷術。11世紀の半ば、宋代(北宋)の慶暦年間、1034~1038年のあいだにに畢昇(ひっしょう)という工人が活字印刷を発明したといわれている。この活字は土を固めたもので、鉄板の上に蝋を流し、その上に活字を並べ、上から紙をあてて印刷した。やがて木活字がつくられ、1221年には木活字で科挙受験用の百科辞書が作られている。 → 宋代の文化 三大発明

世界最古の朝鮮の金属活字

 13世紀はじめには朝鮮の高麗金属活字(銅)が使用されるようになったという記録があるが、その確実な遺品は見つかっておらず、その正確な時期はわからなかった。現在は、1377年に金属活字で出版された『直指心体要節』という書物の存在が確認されており、それが最古の金属活字の印刷例であるとされるようになった。とすれば、朝鮮における金属活字印刷の始まりは、1455年といわれるグーテンベルクの「42行聖書」の刊行よりも、78年前のこととなる。
『直指心体要節』 1972年に開催された「世界図書の年(International Book Year)の記念のための国際展示会」に、フランス国立図書館から出品された『直指心体要節』という書物の巻末に、“宣光七年丁巳七月日 清州牧外興徳寺鋳字印施”という部分があった。宣光七年とは高麗の時代で1377年のこと、鋳字印施とは鋳造された金属活字で印刷したという意味である。その印字を子細に検討した結果、金属活字で印刷したものであることが判明した。これはそれまで知られていなかった14世紀の活版本で、世界最古であることが確認された。興徳寺は廃寺となっていたが、1984年から清州市郊外で発掘調査が行われ、寺院跡が確認された。
 『直指心体要節』(略称を「直指」という)は禅宗の僧白雲和尚の著作で、正確には、「白雲和尚抄録佛祖直指心體要節」といい、白雲が中国で学んだ禅宗の修行方法を判りやすく説いた書物で、本来は上下2冊であった。フランス国立図書館にあるのはそのうちの下の、最初の頁を欠いたものであるが、他に例を見ない貴重なものであった。この書がフランスに渡った経緯は明らかではないが、1888年初代駐韓代理公使としてソウルに赴任したコラン=ド=プランシーが蒐集した韓国の文化財の中に含まれてフランスに運ばれ、その死後図書館に寄贈されたが他の資料にまぎれて長く忘れ去られていたらしい。
 この発見で注目を集め、同書は2001年、ユネスコ世界記憶文化遺産に登録された。また清州市には現在、清州古印刷博物館が建設され、韓国の金属活字印刷資料が展示されている。韓国政府は『直指心体要節』の実物の返還要求をしているが、フランス国立図書館は応じていない。 → jikjiworld ホームページ
※この項は、韓国のVANK (Voluntary Agency Network of Korea) という団体の会員 オ・ユジン さんから教えていただいて修正しました。

朝鮮王朝での金属活字

 高麗の伝統を受け継ぎ、朝鮮王朝では第三代太宗の時の1403年、鋳字所が設けられ、いっそう発展した。全盛期の世宗の時には甲寅字が鋳造され、盛んに刊行事業が行われた。世宗時代に出版された書物には、建国の過程を描いた『飛龍御天歌』、歴史書『東国通鑑』、農書『農事直説』、医学書『郷薬集成方』、暦法書『七政算内編』、『七政算外編』など、(仏教経典ではなく)実用的な書物が多く出版されていることが注目できる。これは、世宗の訓民正音の制定と共に、重要な文化事業であった。
 15~16世紀は朝鮮の印刷史上、ひじょうな活況を呈した。銅活字が国家の手で何度も大量に鋳造され、活字本が多数出版され、また、金属活字の美しい文字は木版作成の模範となり、地方の役所、寺院、書院で盛んに木版印刷が行われた。このような印刷文化が両班の文化を支えていた。
 このように朝鮮は世界ではじめて金属活字を造り、実用化した。その歴史的意義は高く評価できる。しかし、朝鮮の金属活字は漢字を一字ずつ鋳造しなければならない困難さがあった。その点が、遅れて始まったグーテンベルクのアルファベット金属活字、活版印刷と言った新技術が書物の大量生産を可能にして印刷革命を起こした、ようにはならなかった理由と考えられる。<岸本美緒・宮嶋博史『明清と李朝の時代』1998 世界の歴史22 中央公論新社 p.37,135-136>

西方への活字印刷術の伝播が遅れた理由

 印刷術は製紙法の伝播と違い、すぐには西方に伝わらなかった。それは中国に来ていたイスラーム教徒には、コーランを印刷することは神を冒涜することと思われていたためである。ようやく、モンゴルが中国を支配した13世紀になって、直接に元時代の中国にやってくるようになったヨーロッパの商人や宣教師によって、中国では紙幣を印刷していることが知られ、14世紀の末にイタリアで印刷業が起こった。中国では漢字の性格上、木版印刷が盛んであったが、文字数の少ないアルファベットを使用するヨーロッパでは活字印刷が急速に普及した。<藪内清『中国の科学文明』岩波新書p.114-118>  → ヨーロッパの活版印刷術


https://www.y-history.net/appendix/wh0303-085_1.html

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2014年4月26日(土)~2014年7月4日(金)
10:00~18:00(入場は17:30まで)

韓国清州古印刷博物館姉妹提携10周年を記念し、本展示場の一角の特別コーナーにて「朝鮮金属活字文化の誕生」展を開催します。

本展は、大きく三つのコーナーによって構成されています。第一部「韓国清州と清州古印刷博物館」では、清州古印刷博物館について、設立された経緯、施設・活動概要ならびに所在地である清州市について紹介します。

第二部「現存最古の金属活字本『白雲和尚抄録仏祖直指心体要節(はくうんおしょうしょうろくぶっそじきししんたいようせつ)』の印刷と活字の鋳造方法」では、1377年に清州の興徳寺において銅活字で印刷・出版された『白雲和尚抄録仏祖直指心体要節』について、その歴史的意義や、印刷に用いられた銅活字の鋳造方法を紹介します。

第三部「朝鮮の金属活字文化」では、ドイツのグーテンベルクが発明した鉛鋳造活字と木製手引き印刷機を組み合わせた西洋式活版印刷術に先んじて、朝鮮半島において金属活字を用いた印刷が行われていた事実を紹介します。ここでは、1403年に刊行された『十七史纂古今通要』(複製)や、ハングルの活字を組み合わせて印刷された『月印千江之曲』(影印本)などの書物や、活字組版(復元)を展示します。

https://www.printing-museum.org/collection/exhibition/p20140426.php


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朝鮮の記録文化を覗く「活字の国、朝鮮」展

2016.06.22

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1461年に刊行された仏経の解説書『楞厳経諺解』に使われたハングルの金属活字



第1代国王の太祖(テジョ)から第25代の哲宗(チョルジョン)まで425年間にわたる歴史を記録した『朝鮮王朝実録』、王命の出納を司っていた承政院(スンジョンウォン)で毎日取り扱った文書と事件を記録した『承政院日記』、そして1792年から1910年までの国王の動静と国政を記録した『日省録』。
朝鮮は数多くの記録を残した「活字の国」だった。

第3代国王の太宗(テジョン)が1403年に朝鮮初の金属活字「癸未字」を作って以来、朝鮮の王は代々数百万に上る活字を製作した。

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1772年に鋳造された銅活字「壬辰字」

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第22代国王正祖が1796年に鋳造した銅活字「整理字」



「活字の国、朝鮮」展が21日、国立中央博物館で幕を開けた。同展示では、博物館が収蔵する15世紀に鋳造されたハングルの金属活字30点余りを含め、中国から輸入された木活字32万点余り、17~20世紀に製作された金属活字50万点余りなど合計で約82万点に上る朝鮮時代の活字が公開されている。

朝鮮第22代国王の正祖(チョンジョ)が1796年に全部で30万点に達する活字「整理字」を作る際に参考用に輸入した清の木活字32万点は1790年、1791年に韓国に渡ったもので、中国で製作された漢字の活字のなかでも最も古いものとして知られている。

展示場は大きく2つのエリアに分かれており、朝鮮時代の政治と文化の歴史において活字の製作と使用がどのような意味を持つのかにスポットライトを当てている。中央部には朝鮮活字が置かれており、それを囲むように活字を保管していた活字棚が展示されている。

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正祖が1796年に活字「整理字」を作る際に参考用に中国から輸入した木活字

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17世紀の朝鮮時代に活字を分類・保管するために作られた活字棚「衛夫人字欌」

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正祖が1796年に作った「整理字」を保管していた活字棚の引き出し



展示場の中央には縦8m・横1.5mの古い引き出しに5万5千点余りの金属活字がぎっしりと詰まっている。この他にも博物館が所蔵する活字の意味と復元過程に関する映像をはじめ、活字を使った四文字熟語ゲーム、3Dプリンターで印刷した活字の複製品など様々な資料が展示されており、朝鮮時代の活字文化に対する理解を深めることができる。

国立中央博物館のイ・ジェジョン学芸研究官は「統治者らが金属活字の製作を主導したのは朝鮮だけに見られるユニークな現象だった。当時どれだけ多くの活字が製作されたのか実感し、活字は朝鮮の優れた金属品製作技術と書体の美が垣間見える芸術品だということを感じてほしい」と語る。

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「活字の国、朝鮮」展は国立中央博物館の常設展示館1階にある高麗3室で9月11日まで続く



コリアネット ソン・ジエ記者
写真:国立中央博物館
翻訳:イ・ジンヒョン
jiae5853@korea.kr


https://japanese.korea.net/NewsFocus/Culture/view?articleId=137883

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CẬP NHẬT


1Ngày 29/5/2026

Trình độ ghi chép thư tịch và in ấn của Bán đảo Triều Tiên thời kỳ quân chủ (đặc biệt là dưới thời Cao Ly - Goryeo và Triều Tiên - Joseon) phát triển ở mức đỉnh cao của thế giới đương thời. Sự đồ sộ này không chỉ nằm ở khối lượng dữ liệu khổng lồ, kỹ thuật in ấn vượt bậc.
  1. Kỹ thuật in ấn
Bản in mộc bản cổ nhất thế giới từng được tìm thấy:
Tác phẩm Vô Cấu Tịnh Quang Đại Đà La Ni Kinh (Mugujeonggwang Daedaranigyeong), được tìm thấy trong tháp Seokgatap (Thích Ca Tháp), ra đời vào đầu thế kỷ thứ 8 (thời Tân La Thống nhất). Đây được xem là bản in mộc bản cổ nhất thế giới từng được tìm thấy. Kinh được in bằng 12 ván in gỗ trên một cuộn giấy rộng 8 cm và dài 6,2 m.
Kỹ thuật in tháo rời lâu đời nhất thế giới còn tồn tại:
Tác phẩm Jikji - Trực Chỉ tâm thể thiết yếu, được in vào năm 1377 dưới thời Cao Ly, Jikji là cuốn sách in bằng chữ kim loại có thể tháo rời lâu đời nhất thế giới còn tồn tại. Nó ra đời trước Kinh thánh Gutenberg của châu Âu tới 78 năm. Việc phát minh ra chữ kim loại di động cho phép Triều Tiên in ấn nhiều loại sách khác nhau một cách nhanh chóng.
Mộc bản Đại tạng kinh đầy đủ nhất thế giới, không có lỗi hay đính chính nào:
Bát vạn Đại tạng kinh hay Cao Ly Đại tạng kinh, được khắc vào thế kỷ 13 (thời Cao Ly) để cầu Phật bảo vệ đất nước khỏi quân Mông Cổ xâm lược. Đây là tập hợp các mộc bản khắc kinh Phật bằng chữ Hán trên 81.000 khối gỗ in với 52.382.960 chữ được sắp xếp thành hơn 1496 đề mục và 6568 tập. Mỗi miếng gỗ có kích thước 70x24cm. Chiều dày của miếng gỗ khoảng 2,6–4 cm và mỗi tấm nặng khoảng 3–4 kg. Xét về tổng thể, Bát vạn Đại tạng kinh (Cao Ly Đại Tạng Kinh) lớn hơn rất nhiều so với Mộc bản triều Nguyễn. Cụ thể, số lượng chữ của Bát vạn Đại tạng kinh gấp khoảng 1.500 lần và số lượng mộc bản gấp hơn 2 lần so với di sản Mộc bản của Việt Nam. Để dễ hình dung về quy mô, nếu xếp chồng toàn bộ hơn 81.000 tấm gỗ của Bát vạn Đại tạng kinh lên nhau, cột gỗ này sẽ cao tới 3.200m, nặng khoảng 280 tấn. Nếu muốn đọc hết toàn bộ bộ kinh này, một người đọc liên tục với tốc độ 5000 chữ/ ngày thì sẽ mất tới 30 năm.
Bộ biên niên sử của một vương triều đơn lẻ đồ sộ nhất thế giới:
Triều Tiên Vương triều Thực lục do các sử quan nhà Triều Tiên biên soạn liên tục từ thế kỷ 15 đến đầu thế kỷ 20. Tác phẩm gồm 1.893 quyển, đóng thành 888 sách. Khối lượng từ vựng khoảng 49,6 triệu chữ Hán. Để cho dễ hình dung thì Thanh thực lục là vào khoảng 42 - 43 triệu chữ Hán, Minh thực lục là vào khoảng 11,5 triệu chữ Hán. Ghi chép chi tiết từng ngày trong suốt 472 năm (từ 1392 đến 1863,). Đây là biên niên sử của một vương triều đơn lẻ đồ sộ nhất thế giới.
Thừa chính viện nhật ký:
Thừa Chính viện Nhật ký cũng do các sử gia nhà Triều Tiên ghi chép. Quy mô của nó là vào khoảng 3.243 quyển còn tồn tại. Khối lượng chữ khổng lồ, ước tính khoảng 242,5 triệu chữ Hán. Ghi chép lịch trình hàng ngày của nhà vua từ 1623 đến 1910 (các phần trước 1623 đã bị cháy trong chiến tranh). Đây là một dạng nhật ký hoàng gia, chi tiết gấp nhiều lần Thực lục.
Nghi Quỹ:
Nghi quỹ là tên gọi chung cho hàng ngàn cuốn sổ tay ghi chép lại toàn bộ quá trình chuẩn bị và thực hiện các nghi lễ quan trọng của hoàng gia Triều Tiên (từ quốc tang, lễ đăng quang, tiệc cung đình, cho đến việc xây dựng cung điện, pháo đài). Hiện nay còn khoảng 3.895 quyển được lưu giữ (một phần lớn từng bị thiêu rụi trong Chiến tranh Nhâm Thìn 1592, số còn lại chủ yếu thuộc giai đoạn thế kỷ 17 – 20). Có đến hàng trăm loại Nghi quỹ khác nhau. Bất kỳ một dự án cấp quốc gia nào cũng phải lập một ban chỉ đạo lâm thời (gọi là Đô giám), và nhiệm vụ cuối cùng của ban này trước khi giải tán là phải biên soạn xong Nghi quỹ của dự án đó. Sách liệt kê chính xác từng vật liệu được sử dụng: bao nhiêu tấm gỗ, bao nhiêu cân đinh, bao nhiêu cuộn lụa đỏ, nguồn gốc xuất xứ từ tỉnh nào, và giá thành quy đổi ra tiền đồng hay gạo ở thời điểm đó là bao nhiêu. Nghi quỹ không chỉ ghi tên các quan lại chỉ đạo mà còn liệt kê đích danh danh sách hàng ngàn thợ thủ công (thợ mộc, thợ nề, thợ thêu) cùng số ngày công và mức lương họ được trả. Điều này phá vỡ truyền thống chỉ ghi chép về tầng lớp tinh hoa của sử học phong kiến. Điều làm nên tính độc bản của Nghi quỹ chính là các bức tranh vẽ tay màu sắc rực rỡ trải dài qua nhiều trang giấy, gọi là Bán thứ đồ. Những bức tranh này mô tả đội hình diễu hành với hàng ngàn người. Mọi chi tiết về trang phục, màu sắc cờ quạt, binh khí, xe ngựa đều được vẽ theo đúng quy định giai cấp và vị trí đứng. Trong cuốn Nghi quỹ về chuyến đi của Vua Jeongjo (Chính Tổ) đến thành Hwaseong năm 1795, bức tranh diễu hành có độ dài lên tới 15 mét, vẽ chi tiết nét mặt và hành động của 6.311 người và 779 con ngựa. Nhờ di sản này, Hàn Quốc ngày nay có thể phục dựng chính xác các cung điện bị Nhật Bản tàn phá, cũng như tái hiện lại các nghi thức cung đình nguyên bản mà không phải phỏng đoán.
Nhật Tỉnh lục:
Khởi xướng biên soạn bởi Vua Chính Tổ (Jeongjo) từ khi còn là thế tử. Tác phẩm gồm 2.329 quyển. Đây là nhật ký hoạt động của nhà vua và triều đình từ năm 1760 đến 1910. Ghi chép dưới góc nhìn thứ nhất của nhà vua ("Ta...").

https://www.facebook.com/groups/263487271131890/?multi_permalinks=2205459200268011&hoisted_section_header_type=recently_seen

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