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19/02/2018

Kỉ niệm Minh Trị Duy Tân 150 năm : Hiện đại hóa Nhật Bản, được và mất

Như đã điểm tin đợt trước, đang là dịp kỉ niệm 150 năm Minh Trị Duy Tân (xem lại ở đây, tháng 5/2017). Minh Trị Duy Tân, tức công cuộc hiện đại hóa Nhật Bản, trong liên quan với văn hóa quốc gia và văn hóa địa phương, là một mối quan tâm lớn của tôi. Ví dụ ở đây (năm Bình Thành 17, tức năm 2005).

Gần đây, nhân dịp kỉ niệm qui mô toàn quốc, xuất hiện nhiều cách nhìn mới về Minh Trị Duy Tân.

Ở đây, đưa một ít từ các nơi về. Dạng bài ngắn và dễ đọc.




Logo kỉ niệm do chính phủ đưa ra.





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TƯ LIỆU 




2.











明治新政府の屈辱外交─神戸事件の処理

 慶応四(一八六八)年一月十一日、岡山藩兵が神戸行軍中、英仏米の兵士と紛争を起こし発砲した。外国軍隊が一時神戸中心部を占領するまで発展したが、発砲責任者の岡山藩士・滝善三郎を切腹させて事件は解決された。
 内山正熊は『神戸事件―明治外交の出発点』において、次のように指摘している。
 「もしこの事件が幕末年間に起ったとしたならば、生麦事件のように外国人を殺傷したわけでもないこの事件は、単なる一渉外事件として片づけられたであろう。……
 しかし、神戸事件の場合には開国和親の新政府声明がだされる前に勃発したものである。そこで、仮に日本側が外国人を殺傷したとしても、維新政府は攘夷の国策をいまだ続けていたのであるから、備前藩兵を処罰する根拠がなかったわけであって、本件での責任者は切腹する必要はなかった。したがって、責任者瀧を新政府が処断したのは、いわば超法規的措置によったことになる。それは、維新政府が、理不尽な外国の要求の前に一も二もなく、ただ平身低頭して陳謝屈伏した屈辱的外交にほかならない。……
 明治維新は、対内的にこのような矛盾痛恨を包蔵した大変革であったが、対外的にもまたまさに鷲天動地の大改新であった。なぜならば、朝廷が倒幕の旗印であった尊王攘夷をすてて、開国和親へと百八十度の基本国策転換を行なったからである。その転拠の契機となったのが神戸事件であった。そして、その転換の過程で犠牲となったのが瀧だったのである」
http://tsubouchitakahiko.com/?p=5460




1.


著者プロフィール
 高野孟
1944年東京生まれ。1968年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。同時に内外政経ニュースレター『インサイダー』の創刊に参加。80年に(株)インサイダーを設立し、代表取締役兼編集長に就任。94年に故・島桂次=元NHK会長と共に(株)ウェブキャスターを設立、日本初のインターネットによる日英両文のオンライン週刊誌『東京万華鏡』を創刊。2002年に早稲田大学客員教授に就任。05年にインターネットニュースサイト《ざ・こもんず》を開設。08年に《THE JOURNAL》に改名し、論説主幹に就任。現在は千葉県鴨川市に在住しながら、半農半ジャーナリストとしてとして活動中。

明治から150年、「近代化」に2度も失敗したニッポンの反省





我が国近代の幕開けと言われる明治維新から今年で150年。各地でさまざまな式典や催しが行われる予定で、政府も「明治150年」ポータルサイトを開設するなど、関連施策の推進に余念がありません。しかしこれに待ったをかけるのは、ジャーナリストの高野孟さん。高野さんは自身のメルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』の中で、「安倍政権に明治150年の総括を委ねてしまうわけにはいかない」とし、その理由を維新から現在に至るまでの歴史を紐解きつつ明らかにしています。

「明治から150年」を誰が総括できるのか?──薩長藩閥の成れの果ての安倍政権

最近知ったのだが、内閣官房に『「明治150年」関連施策推進室』という組織ができていて、昨秋にポータルサイトも開設している(写真1)。それを見ると……
明治以降、近代国民国家への第一歩を踏み出した日本は、明治期において多岐にわたる近代化への取組を行い、国の基本的な形を築き上げていきました。

内閣制度の導入、大日本帝国憲法の制定、立憲政治・議会政治の導入、鉄道の開業や郵便制度の施行など技術革新と産業化の推進、義務教育の導入や女子師範学校の設立といった教育の充実を始めとして、多くの取組が進められました。

また、若者や女性等が海外に留学して知識を吸収し、外国人から学んだ知識を活かしつつ、単なる西洋の真似ではない、日本の良さや伝統を活かした技術や文化も生み出されました。
──などと、とても明るい150年総括の視点が示されていて、ちょっと待って下さいよと言いたくなる。
50年前の1968年10月23日には、佐藤栄作政権主催の「明治百年記念式典」が日本武道館に1万人が集まって天皇・皇后両陛下ご臨席の下執り行われたが、今回はどういう次第になるのかは現在検討中とのことである。
ただ、その時の政府方針は、封建制から脱却して近代国家への方向を確立した先人の事績を称揚しつつも、「過去の過ちを謙虚に反省」し、「高度の物質文明が自然や人間性を荒廃させている現実を憂慮してその是正の必要性を痛感する」など、明治100年の負の側面に目を向けることを忘れていなかった。が、今のポータルサイトを見る限り、どうもそのような謙虚さは見当たらない
安倍政権に明治150年の総括を委ねてしまうわけにはいかない。

「近代化」に2度も失敗した日本

もちろん、この150年を暗くばかり描くのもどうかと思うけれども、佐伯啓思が今年1月12日付朝日新聞の「矛盾はらんだ日本の近代」で指摘したように、この一連なりの時代を貫く矛盾性において捉えなければならない。
佐伯に言わせれば、明治改元から73年を経て1941年の太平洋戦争4年間の戦争の悲惨を挟んで戦後がまた73年で今年である。前半は「手段であったはずの西欧化が模倣ばかりの奴隷根性になり下がって和魂を失ってあの大戦争へ」転がり込んだ73年間だったし、後半は「戦後の第2の近代化もアメリカ化で独立の気風を喪失したことは同じ」だった(写真2)。
結局、73年ずつかけて2回も近代化に挑んで、2回とも失敗したのがこの150年だったと言えるのではないか。
どうしてそんなことになるのかと言えば、日本人はどうも、1つの時代をキチンと総括して終わらせて次の時代に進むということが苦手で、そのために、何と150年も費やして同じ過ちを繰り返すという馬鹿げたサイクル(無間地獄)に陥っているのではないか。
原田伊織は『明治維新という過ち』(毎日ワンズ、15年刊)で、明治維新では「それまでの時代を全否定し、ひたすら欧化主義に没頭した挙句に、吉田松陰の主張した対外政策に忠実に従って大陸侵略に乗り出した」と指摘し、それと同じ過ちが第2次大戦後も繰り返されて「敗戦に至る過ちを総括することもせずに、ただ単純に、昨日までは軍国主義、今日からは民主主義などと囃し立て、大きく軸をぶらしただけ」だったと述べている。
とすると、この150年を振り返るには、まずその出発点としての明治維新とは何だったのかを再考しなければならない。我々が長く公教育を通じて叩き込まれてきた、薩長土肥の下級武士を中核とした「勤王の志士たちによる倒幕維新こそが近代日本の夜明けを切り開いたとする歴史観は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』や『竜馬が行く』などで著しく神話化され、それをまたNHKの大河ドラマが(今現在の「西郷どん」がまさにそうであるように)娯楽的に映像化することで、ほとんど抵抗のしようがないほどまでに国民の意識に浸透してきたけれども、本当にそうなのか。
原田に言わせれば、「日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」という上掲書の副題が示すように、松陰の下に集ったとされる桂小五郎、高杉晋作、山縣有朋、伊藤博文ら長州武士は、王政復古の皇道主義イデオロギーに毒されて何が何でも徳川幕府を滅亡に追い込もうとする過激な暗殺者=テロリスト集団であって、結局、彼らが陰謀と殺戮の限りを尽くして天皇を人質に取った軍事クーデターを決行したのが維新というものだった。
吉田松陰が維新の精神的指導者であるかに言われているのは噴飯もので、『吉田松陰著作選』(岩波文庫)などを見ても、内政上の政治指針としては、開国論者や公武合体論者などを暗殺せよという以外にはほとんど何も持ち合わせていない。
また対外政策としては、「北海道を開墾し、隙に乗じてカムチャツカ、オホーツクを奪い、琉球にもよく言い聞かせて幕府に参観させるさせるべき。また朝鮮を攻め、古い昔のように日本に従わせ、北は満州から南は台湾・ルソンの諸島まで一手に収め、次第次第に進取の勢を示すべきである」(幽囚記)という単純明快一本調子の対外拡張主義を述べていて、結局のところ弟子の伊藤博文率いる明治国家は、それをそのまま実行するのである。
これが150年の前半の73年が失敗に終わった根本原因である。

国権主義に対する民権主義の「未発の可能性」

長州と薩摩を中核とするテロリスト集団の軍事クーデターによって、明治国家という国権主義の権化のような体制が生まれて、それは直ちに軍国化し、外に向かっては脱亜化し侵略化す帝国化するという「大日本主義への道を突き進む。
それが必然だったのかと言えばそんなことはなくて、幕末から明治初期の日本は別の可能性も秘めていた。例えば、江戸の民主思想の先駆者として最近注目されているのは、赤松小三郎という上田藩士で、英蘭兵学・砲術・航海術を学び、勝海舟を助け、1867年に「御改正口上書」と題した建白書を幕府に出している(写真3)。
  1. 天皇を長とする行政府「天朝」と上下両院からなる立法府「議政局」を設ける
  2. 下院は門閥貴賤に関わらず「入札(選挙)」で選ぶ
  3. 全国に教育機関を置き国民教育を徹底
──など、公武合体論に立った議論で、それ故に薩摩テロリスト=中村半次郎に67年暗殺された。同じ年に死んだ坂本龍馬より遥かにマトモな思想家だったのに惜しいことをした。
また田中彰『小国主義』(岩波新書、99年刊)によると、明治4年に世界視察のため派遣された岩倉使節団は、米英仏独などの大国ばかりでなく、ベルギー、オランダ、スイス、デンマーク、スウェーデンなどの「小国」のありようにもかなり強い関心を寄せ、『米欧回覧実記』と題した報告書でそれなりの頁数を割き、これらの国は小国ながら大国に侮りを受けず信義によって国威を発揚しているので日本としてもっと見倣いたいという趣旨のことを述べている。
しかし、結局のところ岩倉具視は憲法制定を伊藤博文に委ね、国権主義、大日本主義への暴走が始まったので、自由民権的な小国主義は未発の可能性に終わった。その思想は中江兆民や植木枝盛らから、やがて幸徳秋水、吉野作造などを経て、三浦銕太郎、石橋湛山ら大正期の「小日本主義」へ、さらには戦後の鈴木安蔵「憲法研究会」にまで地下水脈となって繋がっているのである。
安倍首相に言わせれば、現憲法はGHQが作った「みっともない憲法」だけれども、それは史実ではなくて、少なくとも鈴木らの憲法案は「GHQの司令とは別の地点からなされた自主的自律的な憲法改正作業」(田中前掲書)であり、そうであるが故にGHQ自身がそれに注目して英文に翻訳しそれを大いに参考にした。鈴木は吉野作造に師事して植木の自由民権憲法案や中江兆民の小国主義を研究した憲法学者であり、その意味では「自由民権期の植木や兆民にみられる小国主義が、日本の大国主義の破産した敗戦後の状況のなかで、憲法研究会案を通してGHQ草案に流れ込みそれが日本国憲法へと結実した」というのが本当なのである。

旧民主党から立憲民主党へ

1996年9月に結成された旧民主党の理念・政策論議に参加した時の私の問題意識も、「未だに死に切れない明治に終止符を打つにはリベラルな新党を作るしかない」というものだった。同年8月の討論合宿に提出したチャートがこれで、維新があって早速に国権と民権の抗争が始まって、やがて国権派が民権派を押しつぶして帝国憲法が成り薩長藩閥の大日本主義が始まっていく。大正デモクラシーという揺り戻しもあるけれども、すぐに昭和軍部政治、そして敗戦。GHQ占領下の過渡期の後は自民党一党支配で、そこまで全部が「発展途上国=追いつき追い越せの100年間」だったことが描かれている(写真4)。
この未だに死に切れないでいる発展途上国型の国権主義、大日本主義を終わらせることは、その一部であった自民党には出来るはずがなく、かと言ってその随伴者であった社会党にも無理で、そこにリベラル新党が誕生して途上国ぶりを終わらせ、日本的な成熟市民社会の扉を開くべき必然性があった。
このチャートをベースに書かれた結党の理念文書は、次のようにその基本使命を定義していた。
明治国家以来の、欧米に追いつき追いこせという単線的な目標に人々を駆り立ててきた、官僚主導による「強制と保護の上からの民主主義」と、そのための中央集権・垂直統合型の「国家中心社会」システムは、すでに歴史的役割を終えた。

それに代わって、市民主体による「自立と共生の下からの民主主義」と、そのために多極分散、水平協働型の「市民中心社会」システムを築き上げなければならない。

いままでの100年間が終わったにもかかわらず、次の100 年間はまだ始まっていない。そこに、政治、社会、経済、外交のすべてがゆきづまって出口を見いだせないかのような閉塞感の根源がある。
ところが旧民主党は、1年半ほどで新進党脱党者を続々と迎え入れて歴史観も理念・政策議論もないまま水ぶくれして再結成され、その時点で最初の熱い議論はどこかへ吹き飛んでしまった。それから11年を経てついに政権を獲ったけれども、水ぶくれの悲しさ、わずか3年で投げ出すことになった。それにはいろいろな理由があるけれども、私に言わせれば最大のものは、歴史観に裏付けられた理念・政策の欠如である。ところが同党はさらに混迷を続けて民進党になり、ついには完全に無理念無政策無節操の「希望との合流という挙に出、「ああこれで民権もリベラルも何も終わりだ」と諦めかけたその瞬間に、立憲民党が立ち現れて「右か左かではない。上からか下からかだ。我々は下からの民主主義をめざす」と宣言したので、辛うじて自由民権から繋がってきた細い糸が繋がったのである。
民権派、小日本主義の側からの150年を総括をする必要があって、そういう歴史観、文明論を作り上げ国民の間に広げなければ、安倍改憲を政権もろとも葬ることはできないのではないか。
早稲田大学文学部卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。現在は半農半ジャーナリストとしてとして活動中。メルマガを読めば日本の置かれている立場が一目瞭然、今なすべきことが見えてくる。

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