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Nắng thì cày ruộng, mưa thì đọc sách

01/11/2016

Chú ruột nhà vua từ trần, thần dân tới ghi sổ tang trên toàn quốc

Người chú ruột của nhà vua Nhật Bản vừa mới từ trần (1915-2016). Cụ hưởng thọ 100 tuổi.

Tên chính thức trong hoàng tộc của cụ là Điện hạ thân vương Mikasa-no-miya Takahito 三笠宮崇仁親王殿下(Mikasa-no-miya Takahito Shinno). Có thể gọi tên theo âm Hán Việt là Điện hạ thân vương Sùng Nhân cung Mikasa. Có thể gọi giản lược thành Điện hạ Sùng Nhân trong tiếng Việt.

Điện hạ Sùng Nhân là con trai út của nhà vua Đại Chính (1897-1926), em trai út của nhà vua Chiêu Hòa (1901-1989).

Như vậy, cụ là chú ruột của nhà vua Bình Thành hiện nay (nhà vua Bình Thành thì mới đây có bày tỏ trước quốc dân ý hướng muốn thoái vị vì lí do sức khỏe, đọc lại ở đây).

Điện hạ Sùng Nhân cũng là bố chồng của phi Cao Viên (Cao Viên cung phi điện hạ, người đã từng tới thăm vào năm ngoái, xem lại ở đây).

Bây giờ, nhiều nơi trên nước Nhật mở bàn ghi sổ tang. Sổ tang này sau sẽ được gửi đến văn phòng của hoàng gia.


Các bàn ghi sổ tang sẽ mở từ 8h30 đến 17h15 hàng ngày từ 28/10-3/11/2016

三笠宮崇仁親王殿下の御薨去を悼み、10月28日から弔問記帳所を設置していますのでお知らせします。
 
設置期間 11月3日 木曜日(御葬儀の前日)まで
受付時間 8時30分から17時15分まで
設置場所 糸島市役所 本館1階 正面玄関ロビー




Dưới là một ít tư liệu.

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http://ef81hokutosei.way-nifty.com/blog/cat22367913/index.html

2016年10月28日 (金)

三笠宮崇仁殿下ご薨去・4
昭和天皇の末弟で、天皇陛下の叔父にあたられる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)殿下が27日午前8時34分、心不全のため、入院先の東京都中央区の聖路加国際病院でご薨去(こうきょ)された。100歳だった。
笠宮崇仁殿下は皇位継承順位は第5位で、明治以降の皇族では最高齢。
本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は11月4日に文京区の豊島岡墓地で営まれる。喪主はた妻の百合子妃殿下が務められる。
謹んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈り申し上げます。
伝達するニュースの数が多くなりましたので分割します。
最初の記事はこちら
2番目の記事はこちら
3番目の記事はこちら
リンク:三笠宮さま薨去 葬儀費用2億8900万円 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま葬儀に2億8900万円 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>弔問記帳は11月3日まで - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さまの弔問記帳、11月3日午後4時まで - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さましのび九州・山口各地に弔問記帳所 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さまに最後のお別れ 御舟入 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さましのび記帳所に列 群馬 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま 弔問に列 「優しい方」お人柄しのび1000人 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:皇族方、三笠宮さまにお別れ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>「お舟入」悲しみ深く…一連の儀式開始 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮邸に入られる秋篠宮ご夫妻 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮邸を出られる両陛下 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮邸に入られる皇太子ご夫妻 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま「御舟入」=両陛下がお別れの弔問 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま、「生前退位」容認を主張…終戦直後 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 稲田朋美防衛相「大変悲しい」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま逝去、一般記帳始まる…弔問客が列 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 三笠宮さま弔問記帳始まる - 速報:Yahoo!ニュース.
以下、参考のために同記事を引用
三笠宮さま薨去 葬儀費用2億8900万円
産経新聞 11/1(火) 9:11配信

 10月27日に薨去(こうきょ)された三笠宮さまの葬儀や墓所の建設に必要な費用は2億8900万円との見込みを宮内庁がまとめ、うち2億900万円を平成28年度の国の予備費から支出することが1日の閣議で決まった。宮内庁によると、残りの費用は来年度の予算要求に盛り込むなどしてまかなうという。
 費用の内訳は本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」の葬場関係に約1億3400万円、墓所の建設に約1億2400万円などで、平成26年6月に薨去された次男、桂宮さまの時より計約2700万円増える見込み。宮内庁は主な要因として労務単価の上昇のほか、参列者に儀式が見えやすいようにするモニターの設置費用などを挙げた。
 葬儀は三笠宮妃百合子さまを喪主とし、私的行事として神道形式で営まれるが、「国家的な弔意の対象」(宮内庁)を理由に、国費が充てられる。

三笠宮さま葬儀に2億8900万円
時事通信 11/1(火) 8:48配信

 政府は1日の閣議で、先月27日に亡くなられた三笠宮さまの葬儀や墓所建設などに掛かる経費に、国の予備費から2億900万円を支出することを決定した。
 来年度予算で要求する分も含めた葬儀関連費用の総額は2億8900万円になる見通し。
 総額の内訳は、4日に豊島岡墓地(東京都文京区)で営まれる本葬「斂葬(れんそう)の儀」の関連費用が1億3400万円、墓所関連費用1億2400万円、葬儀執行費用600万円など。
 宮内庁によると、2年前に亡くなった三笠宮さまの次男桂宮さまの葬儀関連費用は総額2億6200万円で、今回は2700万円増えた。労務単価の上昇や、葬儀の様子が参列者に見えるようモニターを設置する費用などが主な理由という。

<三笠宮さまご逝去>弔問記帳は11月3日まで
毎日新聞 10/31(月) 19:24配信

 宮内庁は31日、100歳で亡くなられた三笠宮さまを悼む一般向けの弔問記帳を、11月3日に終了すると発表した。
 記帳は、10月28日から東京都港区の赤坂御用地にある三笠宮邸で午前9時~午後7時に行われている。11月2、3日は午後4時まで。希望者は徒歩で赤坂御用地南門から入る。本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は4日午前10時から、文京区の豊島岡墓地で営まれる。【高島博之】

三笠宮さまの弔問記帳、11月3日午後4時まで
読売新聞 10/31(月) 19:19配信

 宮内庁は31日、逝去された三笠宮さまの弔問記帳を11月3日午後4時で終了すると発表した。
 記帳は赤坂御用地(東京都港区)にある三笠宮邸の仮設テントで、午前9時から午後7時まで受け付けている。通夜などが予定されている2日も午後4時までの受け付けとなる。

三笠宮さましのび九州・山口各地に弔問記帳所
産経新聞 10/29(土) 7:55配信

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(写真:産経新聞)
 三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下の薨去(こうきょ)を受け、九州・山口各地で弔問記帳が始まった。福岡県庁にも多くの県民が訪れ、大正、昭和、平成の3つの時代を生きた三笠宮さまのお人柄をしのび、冥福を祈った=写真。
 県庁1階の総合案内前に28日、記帳所が設けられた。行橋市の会社員、吉武毅さん(67)は「昭和天皇の弟君で、面影があった。高齢でありながら、精力的に活動されていたことが、印象深い宮様だった」と語った。また、県幹部らも記帳した。小川洋知事は「全国の国民と親しく交流された。県民を代表し、ご冥福をお祈りする」と語った。
 記帳は、「斂葬(れんそう)の儀」の前日、11月3日まで受け付ける。午前9時から午後5時まで。土・日・祝日は、県庁正面玄関前に記帳所を設置する。

三笠宮さまに最後のお別れ 御舟入
産経新聞 10/29(土) 7:55配信

 27日に薨去(こうきょ)された三笠宮さまの納棺に当たる儀式「御舟入(おふないり)」が28日夕、東京都港区の赤坂御用地内にある三笠宮邸で営まれ、皇族方お立ち会いのもと、ご遺体がひつぎに納められた。天皇、皇后両陛下は慣例で参列せず、御舟入に先立って宮邸を訪れ、弔問された。
 両陛下は午後3時30分ごろ宮邸に入り、5分ほど滞在された。陛下は黒のスーツとネクタイ姿、皇后さまは喪服姿で、宮邸の前で静かに頭を下げられた。
 午後5時から行われた御舟入では、喪主の三笠宮妃百合子さまをはじめとする皇族方が宮邸に集まられた。納棺後には皇太子ご夫妻や秋篠宮ご夫妻も加わり、最後のお別れをする「拝訣(はいけつ)」が行われた。
 一連の儀式は宮家の私的行事として神道形式で営まれるが、墓の建設費用とともに国費でまかなわれるのが通例で、今回も28日の閣議で了解された。

三笠宮さましのび記帳所に列 群馬
産経新聞 10/29(土) 7:55配信

 三笠宮崇仁親王殿下が薨去(こうきょ)されて一夜明けた28日、県庁1階県民ホールに設けられた記帳所に県民らが訪れ、記帳した。
 渋川市の島田富士男さん(67)は10年ほど前、東京でレクリエーション大会に参加した際、三笠宮さまを見かけたという。「品の良い方という印象。亡くなられたのは寂しいけれど年齢的には大往生。楽しい人生を送られたのではないでしょうか」としのんだ。
 記帳所は来月4日まで。

三笠宮さま 弔問に列 「優しい方」お人柄しのび1000人
産経新聞 10/29(土) 7:55配信

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ご葬儀の主な流れ(写真:産経新聞)
 三笠宮さまの薨去(こうきょ)を受けた一般の弔問記帳が28日、ご遺体が安置されている赤坂御用地(東京都港区)の三笠宮邸で始まった。御用地の南門前には受け付け開始前から、ゆかりのある弔問客らが列をなすなど、この日は計1030人が訪問。飾らないお人柄で多彩な横顔をお持ちの三笠宮さまをしのんだ。
 「いつもお人柄の良さが出ていました。いいご生涯だったと思います」
 元文部科学相で日本・トルコ協会副会長の遠山敦子さん(77)は声を絞り出すように話した。
 アジアの広い地域の歴史を学ぶオリエント史を研究し、同協会名誉総裁を務められていた三笠宮さま。昨年、100歳の誕生日を祝った際、大きなケーキのろうそくの火をにこやかに消されていたという。「心から悲しいです」。沈痛な面持ちでそう語った。
 元駐仏大使だった木内昭胤(あきたね)さん(89)は約25年前、三笠宮さまと仏大使公邸で1週間ほど過ごした。三笠宮妃百合子さまと娘の近衛●子(やすこ)さん、千容子(まさこ)さんの4人で滞在されたといい「大変気さくで、オリエントの話をしてくださった。残念です」と振り返った。
 三笠宮さまが名誉総裁を務められていた日蘭協会の元事務局長、曽武川栄一さん(83)は「気どらなくて優しい方でした」。総会では百合子さまと仲むつまじいご様子が印象的で「百合子さまはお寂しいと思いますが、お元気でいてほしい」と思いを寄せた。
 ダンスもたしなまれた三笠宮さまや百合子さまと親しく交流を続けてきた松山バレエ団の森下洋子さん(67)は、宮邸に招かれてご遺体と対面。百合子さまは「最期は眠るようだった。もうすぐ誕生日(12月2日)だったのに」と話されていたという。
 静岡県裾野市の主婦、谷須美子さん(64)は赤坂御用地の近所で生まれ育ち、三笠宮さまのお姿を何度か見かけたことがあった。「昭和の大変な時代を知っている皇族の方が減ってしまうことは悲しいです」と声を震わせた。
 記帳は当面、午前9時から午後7時まで続けられ、希望者は徒歩で御用地の南門から入る。本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」は11月4日午前10時から、東京都文京区の「豊島岡(としまがおか)墓地」で営まれる。百合子さまが喪主を務められるが、93歳という年齢を考慮し、孫で三笠宮家の彬子さまが代行される場合もあるという。
●=ウかんむりの下に心、その下に用

皇族方、三笠宮さまにお別れ
読売新聞 10/28(金) 22:00配信

 三笠宮さまのご遺体をひつぎに納める「お舟入(ふないり)」が28日夕、赤坂御用地(東京都港区)の三笠宮邸で行われ、皇族方が別れを惜しまれた。
 宮内庁によると、午後5時からの「お舟入」は、喪主を務める妃殿下の百合子さまや三笠宮さまの孫にあたる彬子さま、瑶子さまをはじめ、ご家族らが見守られた。続いて、皇太子ご夫妻や秋篠宮ご夫妻らも加わられ、ご遺体に別れを告げる「拝訣(はいけつ)」が行われた。
 天皇、皇后両陛下は、それに先立つ午後3時半頃、お別れのため、前日に引き続き宮邸を弔問された。
 本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」は11月4日午前10時から、文京区大塚の豊島岡(としまがおか)墓地で営まれる。

<三笠宮さまご逝去>「お舟入」悲しみ深く…一連の儀式開始
毎日新聞 10/28(金) 21:42配信

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「拝訣」のため、三笠宮邸に入られる皇太子ご夫妻=東京都港区の赤坂御用地で2016年10月28日午後5時10分、代表撮影
 100歳で亡くなられた三笠宮さまの納棺に当たる儀式「お舟入(ふないり)」が28日、東京都港区の赤坂御用地内の宮邸で行われた。葬儀に関する一連の儀式が始まった。
 お舟入は同日午後5時に開始され、喪主の妻百合子さま(93)、孫の彬子さま(34)、瑶子さま(33)らが参列された。
 お舟入りの後、皇太子ご夫妻や秋篠宮ご夫妻、常陸宮ご夫妻らも加わり、ひつぎに納められたご遺体に別れを告げる「拝訣(はいけつ)」が行われた。参列者は1人ずつ、ひつぎの置かれた部屋に入り拝礼した。
 天皇、皇后両陛下は慣例により参列せず、お舟入に先立ち弔問のため宮邸を訪問された。
 三笠宮さまの本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は11月4日午前10時から東京都文京区の豊島岡墓地で執り行われる。一連の葬儀は神道形式により、三笠宮家の行事として行われる。
 政府は三笠宮さまの葬儀の費用を国費でまかなうことを28日の閣議で了解した。
 政府はこれまでも、皇族の葬儀については「国家的弔意の対象としての公的性格を持つ」と位置づけ、墓の建設費を含めて国費でまかなっている。【高島博之】

三笠宮邸に入られる秋篠宮ご夫妻
時事通信 10/28(金) 19:50配信
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「拝訣」のため、三笠宮邸に入られる秋篠宮ご夫妻=28日午後、東京・元赤坂の赤坂御用地(代表撮影)
(時事通信社)

三笠宮邸を出られる両陛下
時事通信 10/28(金) 19:50配信
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弔問を終え、三笠宮邸を出られる天皇、皇后両陛下=28日午後、東京・元赤坂の赤坂御用地(代表撮影)
(時事通信社)

三笠宮邸に入られる皇太子ご夫妻
時事通信 10/28(金) 19:50配信
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「拝訣」のため、三笠宮邸に入られる皇太子ご夫妻=28日午後、東京・元赤坂の赤坂御用地(代表撮影)
(時事通信社)

三笠宮さま「御舟入」=両陛下がお別れの弔問
時事通信 10/28(金) 19:50配信

 27日に100歳で亡くなられた三笠宮さまの一般の納棺に当たる「御舟入(おふないり)」の儀式が28日夕、赤坂御用地(東京都港区)にある三笠宮邸で営まれた。
 喪主の三笠宮妃百合子さま(93)ら皇族方や親族が見守る中、宮邸の食堂に安置されたご遺体はひつぎに移された。
 これに先立ち、天皇、皇后両陛下も弔問のため午後3時半ごろ三笠宮邸を訪問。5分ほど滞在し、ご遺体とお別れをした。
 午後5時ごろ営まれた御舟入の儀式に続いて、ご遺体にお別れの拝礼をする「拝訣(はいけつ)」が行われた。百合子さまがひつぎのそばで見守る中、皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻らも参列し、一人一人が三笠宮さまとお別れをした。
 三笠宮邸では28日以降、午前9時から午後7時まで一般の記帳を受け付けており、同日午後も雨が降る中、多くの人が記帳に訪れていた。宮内庁によると、同日の弔問者数は1030人に上った。本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は11月4日に豊島岡墓地(文京区)で営まれる。

三笠宮さま、「生前退位」容認を主張…終戦直後
読売新聞 10/28(金) 13:07配信

 27日に100歳で亡くなられた三笠宮さまは、終戦直後の1946年、制定をめぐる議論が続いていた現行の皇室典範で、天皇の譲位(生前退位)を認めるよう主張した文書を作成されていた。
 「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」と題した文書で「天皇は皇室会議に対し譲位を発議することが出来る」という規定を提案された。新憲法が公布された同年11月3日付で、翌月には、当時の帝国議会で皇室典範案の審議を控えていた。
 三笠宮さまは、旧皇室典範が皇位継承の原因を天皇の崩御に限った点について「色々の紛争を避けるためにはよい」とする一方、新憲法が「基本的人権」を掲げた点を挙げ、天皇は国政について自己の意志を強行できず、拒否権すらなく、更に「死」以外に譲位の道が開かれないことに疑問を呈された。

三笠宮さま薨去 稲田朋美防衛相「大変悲しい」
産経新聞 10/28(金) 12:35配信

 稲田朋美防衛相は28日午前の記者会見で、三笠宮崇仁(たかひと)殿下の薨去(こうきょ)について「昭和の激動の時代を生きてこられて、そのときどきにさまざま、大変深いお言葉も発しておられた三笠宮さまがお亡くなりになったことは大変悲しい。国民全体としても悲しくて残念なことだと思う。皇室をはじめ、ご近親の方々の深いお悲しみを拝察申し上げ、ともに謹んで哀悼の意を表したい」と述べた。

三笠宮さま逝去、一般記帳始まる…弔問客が列
読売新聞 10/28(金) 11:37配信

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逝去された三笠宮さまを悼み記帳する人たち(28日午前9時1分、東京・赤坂御用地で)=代表撮影
 27日に100歳で逝去された三笠宮さまを悼む一般の弔問記帳が28日、赤坂御用地(東京都港区)の三笠宮邸敷地内で始まった。
 ゆかりの人らが相次いで訪れ、三笠宮さまをしのんだ。
 宮邸前の仮設テントに設けられた記帳台には、開始時間の午前9時から弔問客が列を作った。
 元文部科学相で日本・トルコ協会副会長の遠山敦子さん(77)は、トルコ大使に就任した20年前から、オリエント史学者だった三笠宮さまと交流があった。宮邸に招かれ、トルコでの遺跡発掘調査の話を聞いたこともあり、じっと目を見て静かに語られる姿が印象的だったという。
 遠山さんは「戦中、戦後を毅然(きぜん)として生きられた立派な生涯だった。これまでのご指導に感謝したい」と冥福を祈った。
 赤坂御用地の近くに住んでいたことがある静岡県裾野市の主婦(64)は訃報を聞いて駆け付け、「激動の時代を生き抜き、戦争の記憶を伝えてくださる方を亡くしたのは悲しい」と悔やんだ。
 日本ラグビーフットボール協会の小西宏・事務局長(70)は、三笠宮さまが様々なスポーツの振興にも尽くされたことに触れ、「大変幅広くスポーツを愛していただき、親しみを感じていた。長寿を全うされ、心から『ありがとうございます』と言いたい」と話した。
 宮内庁によると、一般記帳の受け付けは午前9時から午後7時までで、当面の間行われる。28日夕には、ご遺体をひつぎに納める「お舟入(ふないり)」があり、皇族方が別れを告げられる。

三笠宮さま薨去 三笠宮さま弔問記帳始まる
産経新聞 10/28(金) 11:28配信

 三笠宮さまの薨去(こうきょ)を受けた一般の弔問記帳が28日、ご遺体が安置されている赤坂御用地(東京都港区)の三笠宮邸で始まった。午前9時の開門からゆかりのある人が三笠宮さまを悼み、別れを惜しんだ。
 元文部科学相で日本・トルコ協会副会長の遠山敦子さん(77)は「心から悲しいです」と沈痛な面持ちで語った。昨年11月、同協会名誉総裁を務めていた三笠宮さまの100歳の誕生日を祝った際には、にこやかでうれしそうな表情を浮かべられていたという。「いつもお人柄の良さが出ていました。いいご生涯だったと思います」と声を絞り出した。
 元駐仏大使だった木内昭胤さん(89)は平成2年ごろ、三笠宮さまと仏大使公邸で1週間ほど過ごしたという。三笠宮妃百合子さまと娘の近衛●(=ウかんむりの下に心、その下に用)(やす)子(こ)さん、千容(まさ)子(こ)さんの4人で滞在されたといい「大変気さくで、オリエントの話をしてくださった。残念です」と振り返った。
 静岡県裾野市の主婦、谷須美子さん(64)は赤坂御用地の近所で生まれ育ち、三笠宮さまのお姿を何度か見かけたことがあったという。「親近感を持っていました。昭和の大変な時代を知っている皇族の方が減ってしまうことは悲しいです」と声を震わせた。
 記帳は当面、午前9時から午後7時まで続けられ、希望者は徒歩で御用地の南門から入る。身分証明書の必要はなく、受付期間中は土日や祝日も記帳できる

2016年10月27日 (木)

三笠宮崇仁殿下ご薨去・3

昭和天皇の末弟で、天皇陛下の叔父にあたられる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)殿下が27日午前8時34分、心不全のため、入院先の東京都中央区の聖路加国際病院でご薨去(こうきょ)された。100歳だった。
笠宮崇仁殿下は皇位継承順位は第5位で、明治以降の皇族では最高齢。
本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は11月4日に文京区の豊島岡墓地で営まれる。喪主はた妻の百合子妃殿下が務められる。
謹んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈り申し上げます。
伝達するニュースの数が多くなりましたので分割します。
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リンク:三笠宮さまに弔詞奉呈=参院 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:逝去悼み、記帳=ゆかりの人ら次々と―三笠宮邸 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>一般向け弔問記帳始まる 赤坂御用地 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さまに弔詞奉呈=参院 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま悼み記帳する人たち - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま逝去で記帳する人たち - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮崇仁親王殿下が薨去 100歳、昭和天皇の弟 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:【三笠宮さま薨去】ゆかりの信州、悲しみ包む ご静養や遺跡視察で来県 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:【三笠宮さま薨去】飾らぬお人柄しのぶ 千葉県内、悲しみの声 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 「本当に尊敬できる方」 神奈川県内、悼む声相次ぐ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:「また昭和が遠くなった」 三笠宮さま薨去 在りし日しのび各地から哀悼 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 「雰囲気和やか」人柄しのぶ 秩父神社でご植樹…埼玉県と縁深く - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま 山梨県内にも悲しみ 2回の公式来県 知事「心からご冥福」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 宗像・沖ノ島ご視察「ここは日本の原点だ」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 黙祷…静岡県内深い悲しみ 知事「哀悼の誠」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 茨城県内から悲しみの声 「写真ご一緒に」「残念…」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 「細やかな気遣い印象」 東北、悲しみ広がる - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 気さくでご趣味多く ダンス・「童謡の宮さま」… - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 昭和天皇の弟 100歳、皇族最高齢 来月4日に「斂葬の儀」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さまのご発言 「皇族は外交官」「国民あっての皇室」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 「本当に寂しい」悼む声 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 朝食後、ご容体急変 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 学者殿下、平和ご希求 皇族方、悲しみ広がる - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 オリエント史研究、譲位ご提案も - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 ご子息3方を見送られる - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 激動の時代生き抜かれ 昭和天皇のご聖断にお立ち会い - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 夫唱婦随、辛苦ともに 百合子さまにみとられ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 継承資格4皇族に - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 伝統踏まえご葬儀 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま逝去、昭和天皇の末弟、100歳 皇族最長寿 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:「斂葬の儀」11月4日に豊島岡墓地で - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>皇室典範制定時 「生前退位」規定主張 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>護衛付けずに1人で外出 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>将校から史家に 11月4日に斂葬の儀 - 速報:Yahoo!ニュース.
以下、参考のために同記事を引用
三笠宮さまに弔詞奉呈=参院
時事通信 10/28(金) 11:17配信
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参院は28日午前の本会議で、逝去された三笠宮さまに弔詞を奉呈することを全会一致で決めた。伊達忠一参院議長は「誠に哀悼に堪えない。参院はここに恭しく弔意を表し奉る」との弔詞を朗読した。
(時事通信社)

逝去悼み、記帳=ゆかりの人ら次々と―三笠宮邸
時事通信 10/28(金) 11:16配信

 三笠宮さまの逝去から一夜明けた28日午前、赤坂御用地(東京都港区)にある三笠宮邸で一般記帳の受け付けが始まり、ゆかりのある人々らが次々と訪れて三笠宮さまの死を悼んだ。
 
 元トルコ大使で、三笠宮さまが名誉総裁を務めた日本・トルコ協会副会長の遠山敦子元文部科学相は「長年にわたり日本と中東諸国との関係を築いてこられ、現地でも非常に尊敬されていた」と振り返った。昨年、協会メンバーで100歳のお祝いをした際に会ったのが最後だったといい、「とてもにこやかないい顔で、人生の深みを感じた」と話した。
 かつて赤坂御用地の近くに住んでいたという静岡県裾野市の主婦谷須美子さん(64)は「お見掛けしたこともあり、とても身近に感じていたので親を亡くしたような気持ち。また一つ昭和が終わってしまった気がします」と残念そうな様子だった。

<三笠宮さまご逝去>一般向け弔問記帳始まる 赤坂御用地
毎日新聞 10/28(金) 11:05配信

 100歳で亡くなられた三笠宮さまを悼む一般向けの弔問記帳が28日、赤坂御用地(東京都港区)にある三笠宮邸で始まった。訪れた人は、三笠宮さまの気さくな人柄や、外国との友好などに尽力された活動をしのび、別れを惜しんだ。
 記帳は、宮邸前の仮設テントで午前9時に始まった。トルコ大使を務めたことを機に20年来の交流がある遠山敦子さん(77)は「トルコや考古学に深い知見をお持ちで、日本と中東諸国の絆を築かれた。三笠宮さまのおかげで日本とトルコの関係を深められた」と振り返る。「戦中戦後の難しい時代を毅然(きぜん)と生きられた立派なご生涯だった」と話した。
 三笠宮さまが名誉総裁を務めていたころの日蘭協会の活動に携わっていた曽武川栄一さん(83)は「気どらなくて優しい、行動力のある方だった」と話す。「百合子妃殿下との仲むつまじい姿が印象的だった」と百合子さまの悲しみを思いやっていた。
 一般記帳は当面の間、午前9時から午後7時まで行われる。希望者は徒歩で御用地の南門から入る。【山田奈緒】

三笠宮さまに弔詞奉呈=参院
時事通信 10/28(金) 10:51配信

 参院は28日午前の本会議で、逝去された三笠宮さまに弔詞を奉呈することを全会一致で決めた。
 伊達忠一参院議長は「誠に哀悼に堪えない。参院はここに恭しく弔意を表し奉る」との弔詞を朗読した。

三笠宮さま悼み記帳する人たち
時事通信 10/28(金) 10:41配信
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逝去された三笠宮さまを悼み記帳する人たち=28日午前、東京・元赤坂の赤坂御用地(代表撮影)
(時事通信社)

三笠宮さま逝去で記帳する人たち
時事通信 10/28(金) 10:41配信
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逝去された三笠宮さまを悼み記帳する人たち=28日午前、東京・元赤坂の赤坂御用地(代表撮影)
(時事通信社)

三笠宮崇仁親王殿下が薨去 100歳、昭和天皇の弟
SankeiBiz 10/28(金) 8:15配信

 大正天皇の第4皇男子で、天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が27日午前8時34分、心不全のため、東京都中央区の聖路加国際病院で薨去(こうきょ)された。100歳で、皇位継承順位は第5位であられた。戦時中は陸軍の軍人、戦後は古代オリエント史の研究者として活躍された。本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」は約1週間後に東京都文京区の豊島岡(としまがおか)墓地で執り行われるとみられる。薨去により、皇室は19方、皇位継承資格者は4方となった。
 宮内庁は27日午前10時半すぎから、加地隆治宮務主管と名川弘一皇室医務主管が記者会見し、三笠宮さまの薨去を発表した。
 昨年12月に明治以降の皇族では初めて100歳を迎え、ご存命の中で唯一の大正生まれの男性皇族でもあられた。
 昭和天皇、秩父宮、高松宮の弟にあたられ、幼少期の称号は澄宮(すみのみや)。学習院初・中等科、陸軍士官学校を卒業後、陸軍騎兵学校、陸軍大学校へと進み、先の大戦中の昭和18(1943)年、お印の「若杉」から「若杉参謀」と名乗り、支那派遣軍参謀として南京に赴かれた。19(1944)年には大本営参謀となり、終戦時は陸軍少佐であられた。
 16(1941)年10月に高木正得(まさなり)子爵の次女、百合子さまと結婚し、寛仁(ともひと)親王殿下、桂宮宜仁(よしひと)親王殿下、高円宮憲仁親王殿下、●子(やすこ)さん(近衛忠★(ただてる)夫人)、容子(まさこ)さん(千宗室夫人)の3男2女をもうけたが、平成14(2002)年に高円宮さま、24(2012)年に寛仁さま、26(2014)年に桂宮さまを相次いで亡くされた。
 戦後は東京大学文学部の研究生となり、歴史学者の道を歩まれた。メソポタミア地方(イラク)の学術探検、トルコの古代遺跡視察のほか、友好親善や葬儀参列のため、北欧や東南アジアなども訪問し、戦後の皇室による国際親善に大きな足跡を残された。
 90歳を過ぎると体調を崩しがちになり、20(2008)年6月に急性心不全との診断を受けてご入院。21(2009)年と23(2011)年にも軽い心不全で入院された。寛仁さまが薨去された直後の24(2012)年7月には、心臓の僧帽(そうぼう)弁が十分に機能しないために血液が逆流する鬱血(うっけつ)性心不全と診断されて96歳で手術を受けられた。
 手術後は公の場に出る機会が減ったが、27(2015)年12月2日に100歳となり、28(2016)年1月2日には、皇居で行われた新年一般参賀で元気な姿を見せられた。しかし、5月16日に急性肺炎で同病院に入院後、心機能の低下が確認され、ご入院は約5カ月に及んでいた。
 最近は容体が安定していたが、27日午前7時40分ごろに容体が急変して同8時ごろに心停止となり、百合子さまが付き添われる中で息を引き取られたという。
●=ウかんむりの下に心、その下に用
★=火へんに軍

【三笠宮さま薨去】ゆかりの信州、悲しみ包む ご静養や遺跡視察で来県
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 ■「気さくな方」「寂しい限り」
 天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が27日、薨去(こうきょ)された。生前、ご静養のために軽井沢町に幾度も足を運んだり、訪れた土地の人々と親しく交流されたりと、信州とのゆかりが深かった三笠宮さま。県内は大きな悲しみに包まれた。
 阿部守一知事(55)は同日、「県民とともに謹んで哀悼の意を表します。三笠宮崇仁親王殿下は、長野県にたびたびお越しくださっておりました。昨年には百寿をお迎えになり、殿下の一層のご長寿を願っておりましたが、薨去されたことは誠に哀惜に堪えません。ご冥福を心からお祈り申し上げます」とする謹話を発表した。
 三笠宮さまはわけても軽井沢町を愛されていた。夏には毎年のようにご静養に訪れ、昭和30年には三笠地区に別荘も所有された。
 旧軽銀座にある明治39年創業の「土屋写真店」は、大正12年ごろから皇族の写真を撮り続ける。昭和、平成と時を経ても天皇、皇后両陛下が軽井沢町に入られた際、駅で町民らがお迎え、お見送りする様子を欠かさず見守ってきた。三笠宮さまは「また来たよ。よろしくね」と言って店に立ち寄られたこともあったという。
 3代目店主の町田夏子さん(79)は「気さくな方で、いつもお元気な姿を見せていただいた。ご高齢になっても精力的に公務をこなされていた」と振り返り「惜しい方を亡くしました。ご冥福をお祈りします」と声を振り絞った。
 同町の藤巻進町長(65)は「長く軽井沢を愛していただいた三笠宮さまが薨去され寂しい限りです。謹んでご冥福をお祈り申し上げます」とコメントした。
 佐藤雅義前町長(79)にとっては、10年ほど前に軽井沢町に訪れた三笠宮さまと記念に撮影した写真が、かけがえのない宝物だ。
 「軽井沢を愛して頻繁に来ていただいた。写真の中の三笠宮さまも素敵な笑顔でいらっしゃる。残念でなりません」
 太古をしのび、縄文文化に精通した三笠宮さまは県内の遺跡発掘現場にも熱心に足を運ばれた。
 昭和39年9月、川上村の大深山(おおみやま)遺跡を視察された。発掘に携わった地元の人々の努力をたたえ、自らもスコップを手に住居址や石棒を掘り出された。
 当時、役場に入って2年目だった藤原忠彦村長(77)は軽井沢駅で三笠宮さまをお出迎えし、町会議長がハンドルを握る乗用車でお供した。藤原村長は、当時の光景が脳裏に焼き付いて離れないという。
 「村で住民全員が日の丸を手にお迎えしました。穏やかな方で、高齢者を激励されていました。考古学に詳しく、村民に溶け込んでおられた、お姿に大変感動しました。翌年、村民が感謝の気持ちで地元産イワナを宮家に届け、受け取っていだだきました。薨去されたのは本当に残念です。ご冥福をお祈りします」
 これに先立つ昭和29年7月には、茅野市の尖石(とがりいし)遺跡を視察し、地元の高校生たちとともに発掘調査に参加された。
 同市尖石縄文考古館の守矢昌文館長(59)は「貴重な遺跡の発掘に携わっていただいた。ご冥福をお祈りします」と語った。

【三笠宮さま薨去】飾らぬお人柄しのぶ 千葉県内、悲しみの声
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 「親しみやすく気さくな宮さまだった」-。27日の三笠宮祟仁(たかひと)親王殿下の薨去(こうきょ)の報に、県内でもその飾らないお人柄をしのぶ声が相次いだ。
 県レクリエーション協会や日本レクリエーション協会の会長も歴任した元沖縄開発事務次官の川村皓章氏(故人)は生前、日本協会総裁の三笠宮さまと親交があった。息子の川村博章・千葉市議(52)は、皓章氏から三笠宮さまとの親交を聞いていただけに「非常に残念です」と悼んだ。
 川村市議によれば、三笠宮さまは昭和36、40年に県のフォークダンス祭で来県されたという。「父がよくうれしそうに話していた。私も三笠宮さまの計らいで“ひげの殿下”(寛仁親王殿下)と一緒に馬跳びをして遊んだことがありました」と懐かしんだ。
 皓章氏は、三笠宮妃百合子さまの名前にあやかって娘を命名するなど、三笠宮さまを敬愛していたという。川村市議は「父が平成24年に亡くなった際は花を手向けてくださるなど、家族一同お心遣いに感じ入りました」と、身近に感じていただけに落胆の様子だった。
 東金市田間の千葉学芸高校(旧東金女子高)には昭和53年、同校で行われている特徴的な手芸の授業見学に三笠宮さまが訪問された。当時を知る学校関係者はいないが、高橋邦夫校長は、当時の校長で父の美光(よしみつ)氏(故人)が三笠宮さまのご訪問を受けて誇らしそうだった様子を覚えているという。「どの高校でもあることではない栄誉だ」と聞かされていた。
 三笠宮さまは同校に朝早く到着し、校長室で朝食を召し上がった。家政科の教諭が考案した、三笠の形をしたパンを用意したところ、三笠宮さまは感激されたご様子だったという。授業見学では、刺繍(ししゅう)を実習する生徒に「どんなところが大変ですか」などと話しかけられた。「1クラスだけでなく、いくつもの教室を回られ、話しやすく大変気さくな方だったようです」
 生徒からは三笠宮さまに、日本刺繍の額装をお贈りしたところ、大変お喜びになったという。あの日の光景は学校に関わる人々の励みとなった。高橋校長は「生徒にとっても素晴らしい経験だった。大変敬愛していたので悲しみは深いです」としのんだ。

三笠宮さま薨去 「本当に尊敬できる方」 神奈川県内、悼む声相次ぐ
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 27日に薨去(こうきょ)された三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下は、心血を注いだ古代オリエント史の研究などを通じ、県内の関係者とも長く交流されてきた。三笠宮さまの人柄に、身近に触れた人々からは「本当に尊敬できる方でした」と悼む声が聞かれた。
 横浜ユーラシア文化館(横浜市中区)に平成15年と17年に来館された際に案内した主任学芸員の福原庸子さんは「(三笠宮さまは)日本オリエント学会の会長で、世界レベルの研究者。1つの展示室を30分以上もじっくりとご覧になっていました。温かいお人柄で、研究者はみな尊敬しておりました」と語った。
 そのうえで福原さんは「われわれが、研究に対する熱いお気持ちを引き継いでいかなければならないと改めて感じています」と表情を引き締めた。
 俳句を通じて両親とご交流があり、その後も交流を続けた鎌倉ユネスコ協会会長で、鎌倉市の高徳院住職の母、佐藤美智子さん(81)は「鎌倉市に住んでいた俳人の高浜虚子と三笠宮さまが俳句の会を作っており、高徳院でも俳句を詠まれていた。とても気さくなお人柄で、(三笠宮さまが)東京女子大で教鞭(きょうべん)をとっていたときには、女子学生を連れて、ふらりと自宅を訪ねて来られたこともありました」と振り返る。
 シルクロードをテーマにした日本画家の平山郁夫さんが市内在住だったこともあり、「平山先生とは熱心にいろいろと歴史の話をされていたようです。平山先生をテーマにした講演会が高徳院でありますが、三笠宮さまと交流のある方々が集まる機会もあり、皆、悼む気持ちでしょうね」と肩を落とした。
 黒岩祐治知事は「914万県民とともに、ここに心からお悔やみ申し上げます」とするコメントを発表した。

「また昭和が遠くなった」 三笠宮さま薨去 在りし日しのび各地から哀悼
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 27日薨去(こうきょ)された三笠宮さまをしのび、都内のゆかりの地ではさまざまな形で、哀悼の意を表した。
 立川市の国営昭和記念公園内にある「昭和天皇記念館」(同市緑町)は、「崇仁(たかひと)親王殿下の薨去に接し謹んで哀悼の意を表します」と張り紙を入り口脇の掲示板に張り出した。
 同館では開館10周年特別展示「思い出の昭和天皇」を開催中。妻と訪れた中野区の土地家屋調査士、中村文康さん(68)は「残念です。今日は特別展示を見て感慨に浸りましたが、またひとつ昭和が遠くなった気がします」と寂しそうに語った。
 三笠宮さまのご発意で創設され、中近東の歴史・文化を研究、公開している三鷹市の「中近東文化センター」(同市大沢)は、ポールに半旗を掲げて哀悼の意を示した。職員によると、休館日だったが、薨去を知り半旗を掲げたという。
 三笠宮ご夫妻が昭和31(1956)年にスリランカを訪問したことを記念して日本に贈られたスリランカゾウ「アヌーラ」は、日野市の多摩動物公園(同市程久保)で国内のアジアゾウでは最高齢の63歳(推定)となった今も元気に過ごしている。
 平成19年5月に同園で開かれたアヌーラの「来日50年を祝う会」には、日本スリランカ協会名誉総裁の三笠宮さまがご夫妻で出席され、宮さまは再会を楽しまれたという。
 上野動物園の金子美香子課長は当時、多摩動物公園の係長として式典のとりまとめを担当。「三笠宮さまはゾウ舎にもおいでになり、柵越しにお祝いのバナナを投げ入れてくださいました。少し距離があるので心配しましたが、ちゃんと届いてアヌーラがおいしそうに食べたことが忘れられません」と振り返った。

三笠宮さま薨去 「雰囲気和やか」人柄しのぶ 秩父神社でご植樹…埼玉県と縁深く
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 現皇室最高齢の100歳で27日に薨去(こうきょ)された三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下。昭和63年のさいたま博覧会では名誉総裁を務め、秩父宮家ゆかりの秩父神社(秩父市)ではケヤキを植樹されるなど、埼玉と縁が深かった。県内は哀悼の意に包まれ、関係者らはその気さくなお人柄をしのんだ。
 県によると、三笠宮さまは昭和53年の県レクリエーション大会(上尾市)や、56年の全国レクリエーション大会(東松山市など)の式典にご夫妻で臨席されたほか、さいたま博覧会(熊谷市)をご視察。平成13年には彩の国さいたま芸術劇場(さいたま市)でベルギーのダンスカンパニー、ローザスの「ドラミング」を私的に鑑賞されている。
 4年5月には秩父神社をご参拝。案内した薗田稔宮司(80)は「兄の秩父宮さまと縁が深い秩父神社を、大事に考えてくださっていた」と話した。
 薗田氏は東京大の学生時代、教授だった大畠清氏の下で宗教学を学ばれた三笠宮さまと交流があったといい、「気さくで和やかな雰囲気は、当時とお変わりなかった」と振り返った。
 三笠宮さまは社殿西側に高さ約1・5メートルのケヤキをお手植えされ、同神社では秩父宮家、高松宮家のイチョウとともに3宮家のお手植えが実現。ケヤキは約5メートルに成長しているという。
 「お年がお年なので、来るべきときが来たという思いもあるが、残念だ」と薗田氏。天皇陛下が意向を示された譲位については「皇族であり、ご発言できなかったことは心残りだったのではないか」と推察した。
 「天寿を全うされたと思う。時代の区切りを迎えたと感じる」。三笠宮家由来の盆栽を預かる「九霞(きゅうか)園」(さいたま市北区)の3代目、村田行雄氏(45)はこうしのんだ。
 同園は初代園主の久造氏が昭和4年に開設し、三笠宮さまは33年に訪問された。皇居の盆栽を担当していたことが縁で、約30年前に三笠宮さまから黒松を預かり、管理を続けている。
 村田氏は「時代の変化とともに盆栽は皇族と縁遠くなりつつある。盆栽と皇族との本当の結びつきの時代が終わったのかもしれない」と話した。

三笠宮さま 山梨県内にも悲しみ 2回の公式来県 知事「心からご冥福」
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が薨去(こうきょ)された27日、県内にも悲しみが広がった。県によると、三笠宮さまは昭和61年に開催された「かいじ国体」と、昭和45年の「全国リクリエーション大会」の際に、ご視察などで計2回、公式に来県された。
 後藤斎知事は同日、「ご薨去の報に接し、深い悲しみの念を禁じ得ません。全国リクリエーション大会、かいじ国体の際にご来県され、県民と親しく接していただきました。県民とともに、心から安らかなるご冥福をお祈り申し上げます」と謹話を発表。薨去を悼んだ。
 後藤知事は謹話で「古代オリエント史の分野で、幾度となく現地での発掘作業に携われるなど、ご熱心にご研究をなさるお姿には、深い感銘を覚えたことを記憶しています」と三笠宮さまのお人柄にも触れた。
 三笠宮さまは、かいじ国体の際に大月、都留など県東部を中心に視察し、バスケットボールや高校野球を観戦された。
 県秘書課員として皇室を担当した山村武敏・出納局主幹(57)は、「三笠宮さまのご先導をさせていただいた。ご休憩でソファにお座りになったときの気品と優雅さに感動した」と振り返る。
 ご視察の皇族と言葉を交わすことができるのは、案内役などごく一部の人だが、三笠宮さまはご日程を終え、車のドアが閉められる際、若かった山村さんに「ありがとう」と優しくお声をかけられたという。
 山村さんは「100歳のご長寿を全うされたと思うが、もっと長生きしていただきたかった」と話した。

三笠宮さま薨去 宗像・沖ノ島ご視察「ここは日本の原点だ」
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 三笠宮さまは、九州・山口を複数回、訪問された。
 昭和44年10月に「海の正倉院」と呼ばれる玄界灘の孤島、沖ノ島(福岡県宗像市)の第3次学術調査を視察された。
 沖ノ島には、宗像大社の「沖津宮」があり、島全体が神域となっている。
 上陸する際には、全裸で海に入り、みそぎをするのがしきたりだ。
 三笠宮さまは船で島に到着すると、あっと言う間に服を脱ぎ、海に飛び込まれたという。
 沖ノ島からは銅鏡や武器、装身具、馬具、金属製品など約8万点が出土し、後に国宝に指定された。
 三笠宮さまは古代オリエント史の研究者だった。西域の影響を受けた陶器「唐三彩」の破片を見て、大変喜ばれたという。
 九州大の研究生として調査団に加わった松本肇氏(74)=宗像市在住=によると、夕食後、調査団員を前に30分ほど話をされた。
 「ここは日本の原点だ。絶えることのない文化が守られている。私も皆さん方と同じく、みそぎをさせていただけたことを、非常にうれしく思います」
 こう熱っぽく語られたという。
 松本氏は「熱心に出土品をご覧になっていた。お心の豊かな方だと感じました」と振り返った。
 三笠宮さまは、視察で抱かれた思いを昭和50年の宮中歌会始の儀で詠まれた。
 「沖ノ島 森のしげみの岩かげに 千歳ふりにし 神祭りのあと」
 宗像大社の境内には歌碑がたたずむ。
 41年9月には、熊本県の天草諸島と九州本土を結ぶ天草五橋の開通式に、ご夫妻で出席された。
 台風接近に伴う、悪天候の中だったが、当時の県知事らとテープにハサミを入れられた。「心からお喜びします。経済発展の契機をつかんだ島民が一致して、島の発展に尽くすよう要望します」とのお言葉を残された。
 熊本県の蒲島郁夫知事は「薨去の報に接し、深い悲しみでいっぱいです。改めて県民とともに謹んで哀悼の意を表します」との謹話を発表した。
 平成16年には、山口県岩国市を訪問し、錦帯橋の架け替え完成を祝う式典に出席された。
 元東京芸術大学学長で彫刻家、澄川喜一氏が式典に誘ったという。三笠宮さまは同大の客員教授でもあった。
 澄川氏は「私の東京での展覧会にもご出席いただくなど、長い付き合いをさせていただいた。庶民的なお人柄で毎年、忘年会でお目にかかるのを楽しみにしていた。残念でなりません」とコメントした。

三笠宮さま薨去 黙祷…静岡県内深い悲しみ 知事「哀悼の誠」
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が薨去(こうきょ)された27日、県内も深い悲しみに包まれた。
 川勝平太知事は、「この深い悲しみの中で、静岡県民とともに三笠宮殿下の御霊の安からんことを願い、深く哀悼の誠をささげます」とする談話を発表。静岡市の田辺信宏市長は同日の定例会見で、「静岡市を代表して謹んで哀悼の意を表します。大変悲しいことです」と述べた。
 三笠宮さまがご公務で本県を訪問されたのは、平成14年4月が最後。このときは静岡市駿河区の県立美術館で開催された「大トルコ展」をご覧になった。
 27日は、三笠宮家の彬子さまが同区で開かれた「世界お茶まつり2016」の開会式にご臨席の予定だったが、京都駅で新幹線に乗り込まれた後に三笠宮さまご薨去の一報を受け、急遽(きゅうきょ)ご訪問が中止になった。
 世界お茶まつりの会場では、彬子さまのお言葉を川勝知事が紹介し、その後、参加者全員が黙祷(もくとう)をささげた。

三笠宮さま薨去 茨城県内から悲しみの声 「写真ご一緒に」「残念…」
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が薨去(こうきょ)されたことを受け、県内からも27日、悲しみの声が上がった。
 三笠宮さまは昭和61年、ひたちなか市の笠松運動公園で行われた県レクリエーション協会の創立20周年記念式典に出席された。
 当時同協会の副理事長を務めていた、松吟寺(常陸大宮市下町)の松浦好道住職(78)は「気さくで、親しみやすい方だった。式典ではお祝いの言葉をいただき、みんなでフォークダンスを踊った。写真も一緒に撮らせていただいた」と振り返る。「とても残念。国民の中に溶け込んでこられるような方で、大好きでした」と話した。
 橋本昌知事は「東日本大震災の際には、殿下からお見舞金を賜り、その温かいお心遣いは、県の復旧、復興の大きな励みになった。突然お亡くなりになったことは、誠に残念であり、哀惜の念を禁じ得ない」とのコメントを発表した。
 県秘書課によると、三笠宮さまは昭和5年に神栖市の息栖神社に参拝されたほか、43年に水戸市内で開催された第1回茨城県レクリエーション大会にご出席。44年には鹿島港開港式典に出席するため来県された。

三笠宮さま薨去 「細やかな気遣い印象」 東北、悲しみ広がる
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が27日、心不全のため、薨去(こうきょ)された。東北でも三笠宮さまと親交のあった人々が薨去を悼み、各地に深い悲しみが広がった。
 「十数年前まで年2回、お住まいを訪ねてお話しなどをさせてもらっていた」と話すのは福島県西郷村の林愼平さん(71)。
 元衆院議員の祖父が、三笠宮さまと親交があったことが縁といい、「今朝、知らせがあり、突然のことでびっくりした」と声を詰まらせた。
 三笠宮さまと、愼平さんの祖父、平馬さん(故人)の親交は陸軍大学校時代にさかのぼるという。また、愼平さんの父が創業した養魚場の敷地内に、同県塩川町(現喜多方市)にあった平馬さんの居宅を移築した際、三笠宮さまが宿泊されたこともあった。約40年前のことという。
 さらに、昭和45年12月、愼平さんの挙式にあたって三笠宮さまは「御両人の平和国家にふさわしい新家庭の建設を期待いたします」との言葉を贈られた。
 愼平さんは「諸事に細やかな気遣いをなさる三笠宮さまがとても印象に残っている」と振り返った。その上で「大変なご苦労もあったと思うが、100歳まで、よく頑張られたと思います」と話した。
 ■「だまこ鍋」に舌鼓
 三笠宮さまは昭和34年8月、秋田県五城目町で開かれた全国高校レスリング大会をご視察。当時の加賀谷力司町長の自宅に宿泊した際に、召し上がった郷土料理「だまこ鍋」を「大変おいしい」と気に入られたという。
 だまこ鍋は、ご飯をつぶして丸めた「だまこもち」や鶏肉、野菜などを、鶏肉のだしで煮る農家の家庭料理で、客が来た際に鶏をつぶしてもてなしたのが由来という。
 三笠宮さまのご様子から加賀谷町長が地元の料亭「松竹」に商品化を勧め、今では郷土料理として有名になった。当時の様子を知る同店の女将(おかみ)、鐙満子さん(74)は「町長の自宅の庭で鍋が出されて、多くの人がいらしてにぎわったそうです」と話す。
 ■村井知事も弔意
 各県の知事も薨去を悼む謹話を発表するなど、弔意を示した。非公式行事も含め10度訪問された青森県の三村申吾知事は「本県スポーツ、レクリエーション活動の振興等に多大なご尽力をいただきました。県民とともに衷心より哀悼の意を表すものであります」との謹話を発表した。
 山形県には8回、岩手県は6回ご訪問。山形県の吉村美栄子知事は「皇室をはじめ、ご近親の方々の深いお悲しみを拝察申し上げ、県民とともに謹んで安らかなるご冥福をお祈り申し上げます」とコメントした。
 岩手県の達増拓也知事は記者会見で「大変悲しいことで、つらい思いをしております。謹んでご冥福をお祈りしたいと思います」と弔意を示した。宮城県の村井嘉浩知事も「ご来県の折には多くの県民と親しくふれあっていただきました。県民とともに、慎んで心から哀悼の意を表します」との謹話を出した。

三笠宮さま薨去 気さくでご趣味多く ダンス・「童謡の宮さま」…
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

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東京国際ブックフェアの会場を見学される三笠宮さま。トルコの出展者らと歓談された=平成14年4月(写真:産経新聞)
 三笠宮さまは、若者たちにまじってダンスのステップを踏まれるなど、庶民的でフランクな人柄で知られた。作詞や俳句、登山など趣味も幅広く、多彩な横顔をお持ちだった。
 「殿下は気取りのない気さくな方。ダンスのステップがとてもきれいだったのが印象的だった。正月にお会いしたときはお元気だったのに…」。「品川区フォークダンス協会」(東京)の高須みちよ理事長(78)は、そう残念がった。
 高須さんによると、同協会創立当時の昭和25年に三笠宮邸が同区にあった縁で会員があいさつに行った際、三笠宮さまから「(戦後の)廃虚の中ですけど頑張りなさい」と励ましがあり、創立大会にもご夫妻で出席された。毎年12月の定期大会に5年おきに出席し、フォークダンスを楽しまれたという。
 また、三笠宮さまが考案された「スケートフォークダンス」を通じて約50年間交流があった金子恵以子さん(74)=東京都文京区=は、「人間的な魅力にあふれた方。真摯(しんし)なお人柄とともに、ユーモアもおありだった」と振り返った。
 金子さんは「温厚で細やか。レディーファーストも心得ておられ、エレベーターで必ず女性を先に乗せていただいた。お付き合いの機会に恵まれ、感謝、感激しかない」。
 ダンス以外にもさまざまな顔をお持ちだった。幼少期についたニックネームは「童謡の宮さま」。
 〈月夜の空を雁飛びて 宮くん御殿でそれ見てる〉
 これは、6歳前後の頃に作詞された「月と雁」という童謡だ。ほかにもいくつもの作詞があるほか、多くの俳句を詠まれている。
 昭和30年には皇族として初の大学(東京女子大)講師となり、東京芸術大、青山学院大などでも教壇に立たれた。ラジオやテレビにもご出演。東京女子大への通勤はもっぱら国鉄(現JR)を利用された。学食では学生らと一緒にしばしば1杯20円のきつねうどんを食べられ、メニューは「宮さまうどん」などと呼ばれるようになったという。

三笠宮さま薨去 昭和天皇の弟 100歳、皇族最高齢 来月4日に「斂葬の儀」
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

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薨去された三笠宮崇仁親王殿下=平成15年2月(写真:産経新聞)
 大正天皇の第4皇男子で、天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が27日午前8時34分、心不全のため、東京都中央区の聖路加国際病院で薨去(こうきょ)された。100歳で、皇位継承順位は第5位であられた。戦時中は陸軍の軍人、戦後は古代オリエント史の研究者として活躍された。本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」は11月4日に東京都文京区の豊島岡(としまがおか)墓地で執り行われ、三笠宮妃百合子さまが喪主を務められる。薨去により、皇室は19方、皇位継承資格者は4方となった。
 大正4年12月2日のご誕生で、昨年12月に明治以降の皇族では初めて100歳を迎え、ご存命の中で唯一の大正生まれの男性皇族でもあられた。昭和天皇、秩父宮、高松宮の弟にあたられ、幼少期の称号は澄宮(すみのみや)。学習院初・中等科、陸軍士官学校を卒業後、陸軍騎兵学校、陸軍大学校へと進み、先の大戦中の昭和18年、支那派遣軍参謀として南京に赴かれた。19年には大本営参謀となり、終戦時は陸軍少佐であられた。
 16年10月に高木正得(まさなり)子爵の次女、百合子さまと結婚し、寛仁親王殿下、桂宮宜仁(よしひと)親王殿下、高円宮憲仁親王殿下、●子(やすこ)さん(近衛忠★(ただてる)夫人)、容子(まさこ)さん(千宗室夫人)の3男2女をもうけたが、平成14年に高円宮さま、24年に寛仁さま、26年に桂宮さまを相次いで亡くされた。
 戦後は東京大学文学部の研究生となり、歴史学者の道を歩まれた。イラク・メソポタミア地方の学術探検、トルコの古代遺跡視察など皇室による国際親善に大きな足跡を残された。
 90歳を過ぎると体調を崩しがちになり、寛仁さまが薨去された直後の24年7月には、鬱血性心不全と診断されて96歳で手術を受けられた。5月16日に急性肺炎で同病院に入院後は心機能の低下が確認され、ご入院は約5カ月に及んでいた。
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★=火へんに軍

三笠宮さまのご発言 「皇族は外交官」「国民あっての皇室」
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 「だれでも音楽がはじまればじっとしておれず、踊り出すなにものかがほしい。(中略)世界がひとつにならねばならない現代においては、世界のすべての人たちが喜んで飛び出して踊れるもの、言葉が通じなくても、踊りで心と心とが通じ合ったら…」(昭和27年、『文芸春秋』秋の増刊号、フォークダンスにひかれた理由を聞かれて)
 「スポーツを通じてこの緊張した国際関係を緩和したいという念願こそ大会にかける私の期待だ。もちろんソ連の入国を拒否すればこの大会の意義もなくなるし、第一、世界選手権大会ではなくなってしまうから私が総裁をひきうけた意図も失われてしまったろう」(29年5月、東京での世界レスリング選手権大会で記者の質問に対して)
 「外国王皇族は外国語もペラペラで、政治、経済、スポーツなどについて広い意見を述べられる。それに対して日本の皇族が口の中でモガモガしゃべっているんじゃ対等の話ができない。皇族はその生活の半分以上を外国のお客さまの接待に過ごしているのだからある意味での外交官だ」(40年8月、渡米を前にした記者会見で)
 「国民あっての皇室だから、国民が皇室に何を期待するかが前提だ。皇室のあり方も、歴史の発展に沿って変わってきたのだし、これからも社会の変遷に即応していかなくてはいけない」(平成元年6月、平成皇室についての質問に対して)

三笠宮さま薨去 「本当に寂しい」悼む声
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 三笠宮さまが27日に薨去された聖路加国際病院(東京都中央区)では、午前11時5分ごろ、ご遺体を乗せたとみられる車両が病院を出た。
 同病院に入院中の友人を見舞いに来た神奈川県海老名市の無職、今井祐賢(ゆうけん)さん(69)は「激動の時代を生きられ、大変な思いもなさったことでしょう。『お疲れさまでした』とお伝えしたい」と話した。同病院に通院している中央区の無職女性(81)は「ご病気でお苦しかったことでしょう」と悼み、「奥さまはお寂しいと思います」と三笠宮妃百合子さまを気遣った。
 お住まいの宮邸のある赤坂御用地周辺でも、悲しみが広がった。岐阜県山県市から旅行に来ていた主婦、山田香代子さん(63)は「季節の変わり目が、お体に響いたのでしょうか。言葉になりません。本当に寂しい。何とも言えない悲しい気持ちです」とショックを受けた様子で話した。練馬区の大学研究員の男性(64)は「この気持ちを、どのように表現したらいいのか」と言葉を詰まらせ、「皇室の大切な方が亡くなられたことを、大変悲しく思います。長い期間ありがとうございました」と感謝の気持ちを述べた。

三笠宮さま薨去 朝食後、ご容体急変
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 三笠宮さまが薨去されたことを受け、宮内庁は27日午前10時半すぎから記者会見を開いた。容体の変化を説明した名川弘一皇室医務主管によると、この日も朝食を取るなど前日と変わらぬ姿で、三笠宮妃百合子さまにみとられ、静かに最期を迎えられた。
 三笠宮さまは5月16日に急性肺炎で入院された後、症状が快方に向かったものの、6月中旬ごろからは慢性的な心不全の症状がみられるようになり、治療が続けられた。名川氏は「ご年齢からくる心機能の低下の進行はいかんともしがたかった」と説明した。
 一方で、「最近まで血圧は安定し、手足を動かされることもあった」(名川氏)といい、26日にも、同病院に検査入院してきた百合子さまと会話を交わされていたという。
 27日は朝食を取ったが午前7時40分ごろから心臓の拍動が徐々に遅くなり、同8時ごろに心停止するなど、ご容体が急変。百合子さまが病室に駆けつけられるのを待つようにして、静かに息を引き取られたという。100歳という長寿を全うされた背景について、名川氏は「健康を保てるだけの体力が若い頃からおありだった」と述べ、「宮邸では、運動を欠かされなかった」と振り返った。

三笠宮さま薨去 学者殿下、平和ご希求 皇族方、悲しみ広がる
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 大正天皇の第4皇男子で、27日に現皇室最高齢の100歳で薨去(こうきょ)した三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下は、戦前、戦中、戦後の混乱期と激動の時代を生き抜き、高度経済成長やバブルの崩壊など大きく移り変わるわが国の姿をつぶさに目撃してきた、まさに「歴史の生き証人」であられた。戦後は平和を願いながら長年公務に励み、気さくなお人柄で国民と皇室との懸け橋になられた。突然の薨去を多くの国民が悼み、ご失意の百合子妃殿下を気遣う天皇、皇后両陛下も深く悲しまれている。
                   ◇
 天皇、皇后両陛下は27日午後5時前、弔問のため、三笠宮邸がある赤坂御用地に車で入られた。薨去された聖路加国際病院(東京都中央区)から宮邸にご遺体が移された三笠宮さまとの別れを惜しまれた。
 宮内庁の山本信一郎長官らによると、両陛下にこの日、三笠宮さまの容体が伝えられたのは午前8時ごろ。
 名川弘一皇室医務主管から側近の侍従を通じ、心停止の危篤状態となられたことが報告された。朝食を取り終え、新聞に目を通されていたという。
 「すぐに見舞いに行けるだろうか」。両陛下はそう尋ねられたが、間もなく薨去の連絡が届いた。両陛下はすぐに「家族の別れの時間があるだろう」との気遣いを見せ、ご遺体が三笠宮邸に戻った後に弔問することにされたという。
 三笠宮さまが5月に入院された後、両陛下は「高齢である三笠宮さまのご容体を、常に気にかけられていた」(宮内庁関係者)。急性肺炎の症状が快方に向かった6月30日には、入院先の聖路加国際病院を見舞われていた。
 三笠宮さまのご遺体を乗せた車は午前11時5分ごろ、白バイの先導で病院を出発。
 スーツ姿の病院関係者10人以上が頭を下げて見送り、来訪者らも静かに手を合わせた。車は同11時15分ごろ、宮邸がある赤坂御用地に入った。
 その後、国旗を掲げた各国大使館の車などが頻繁に出入りした。昼過ぎには、弔問を終えたとみられる寛仁親王妃信子さま、常陸宮ご夫妻が御用地を車で出て、沈痛な面持ちで立ち去られた。
 両陛下のご弔問に続き、夕方には皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻と長女の眞子さま、次女の佳子さまも相次いで弔問に駆けつけ、三笠宮さまに悲しみの別れを告げられたという。

三笠宮さま薨去 オリエント史研究、譲位ご提案も
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 三笠宮さまは、オリエント史の研究では皇族として初めて大学の教壇に立ち、テレビでも講義するなど「学者肌」の一面を持たれていた。今年、天皇陛下がお気持ちとして示された「譲位」についても、以前から言及されていた。
 三笠宮さまが「学者皇族」の道を歩まれたのは戦後から。昭和22年に東京大学文学部の研究生となって歴史学の分野に進み、アジアの広い地域の歴史を学ぶオリエント史を研究され、「オリエントの宮さま」と親しまれた。
 29年の日本オリエント学会創立を提唱し、会長にご就任。中近東文化センターと日本・トルコ協会では、ともに名誉総裁を務められてきた。同センターは54年、三笠宮さまのご発意により、古代中近東の研究機関として東京都三鷹市に創設され、トルコのカマン・カレホユック遺跡で発掘調査を進めてきた。
 日本で開催される複数のトルコ関連の展覧会で総裁を務め、同国の奥の深い歴史を紹介するなど、両国の懸け橋となられてきた。日本・トルコ間の国際親善に貢献した人物にトルコ政府から贈られる「アタチュルク国際平和賞」を平成元年にご受賞。受賞の際には「日本のトルコ関係者が一生懸命やっており、その代表者として賞をいただいたと解釈している」と喜びの気持ちを語られた。
 一方、三笠宮さまは昭和21年、現行の皇室典範を審議するにあたり、天皇が自らの意思で「退位」できるよう求める「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」という私案をまとめられている。
 崩御のみを譲位の条件とするのではなく、天皇陛下が意向を示されている「譲位」を認める内容だ。
 皇室典範は天皇や皇太子の成年を18歳とする一方で、結婚には「皇室会議の議を経ること」などの制限を課している。
 当時の政府は典範改正案が昭和天皇の裁可をすでに得ていたことを根拠に、三笠宮さまの私案を改正典範に反映させることを見送ったが、三笠宮さまが戦後間もない段階で、問題意識を持たれていたことがよく分かる。

三笠宮さま薨去 ご子息3方を見送られる
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 気さくで穏やかな人柄から「大殿下(おおでんか)」と呼ばれた三笠宮さまは、5人のお子さまに恵まれた。軍隊経験に基づく厳格な姿勢を貫く中で温かい家庭を築かれ、3人の親王方はいずれも独立してそれぞれの道を歩み、精力的に公務に取り組まれた。しかしその後は不幸にも、親王方全員に先立たれていた。
 平成14年11月には三男の高円宮さまが室内球技のスカッシュ中に突然倒れ、心室細動のため47歳の若さで薨去。約10年後の24年6月には、度重なるがんの手術を乗り越えてきた長男の寛仁(ともひと)親王殿下も亡くなられた。葬儀が営まれた同月には、翌日から入院された。
 三笠宮さまは、寛仁さまの本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」に車いすで参列したが、非常に悲しみ、涙を流されていたという。住まいから葬場へ向かう寛仁さまを見送る際には、体調不良を訴えて座り込まれる場面もあった。
 次男の桂宮さまは昭和63年5月に宮邸の寝室で倒れ、右半身まひなどの障害が残り、長年、車いすでご生活。平成20年9月に敗血症を発症してからは懸命に闘病生活を送っていたが、26年6月に薨去された。

三笠宮さま薨去 激動の時代生き抜かれ 昭和天皇のご聖断にお立ち会い
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 27日に薨去(こうきょ)した三笠宮さまは昭和天皇の末弟として長兄を支え、大正、昭和、平成の3つの時代を生き、歴史的な局面に数多く立ち会われてきた。
 昭和7年に陸軍士官学校予科にご入学。11年の二・二六事件で反乱部隊が襲撃した東京・赤坂の高橋是清邸は三笠宮邸のすぐ向かいにあった。
 三笠宮さまは市谷にあった士官学校の皇族用宿舎に滞在していたが、著書で当時を回想し「市街戦が始まると機関銃の弾丸がちょうど飛んでくる方向だな、と緊張した」と記されている。
 大戦中の18年には、お印の「若杉」をとって「若杉参謀」と名乗り、支那派遣軍参謀として中国・南京に赴かれている。
 19年1月からの大本営陸軍参謀時代には、陸軍内で東条英機首相を排除しようとする動きが浮上した。若手参謀から話を聞かれた三笠宮さまが「黙認した」と誤解され、首相暗殺計画に発展。三笠宮さまは「軍人として許せない行為」として憲兵隊に通報され、未遂に終わったとされる。
 終戦を3日後に控えた20年8月12日には、皇居の御文庫附属(ふぞく)室に高松宮はじめ皇族方とともに参集し、昭和天皇からポツダム宣言受諾の決心を下した「聖断」や、理由の説明を受けられている。
 同じころ、阿南惟幾陸軍相が空襲で全焼した三笠宮邸を訪問した際、昭和天皇にポツダム宣言受諾の翻意を促すよう訴えると、三笠宮さまは「陸軍は満州事変以来、大御心(昭和天皇の考え)に沿わない行動ばかりしてきた」と叱責されたと伝えられる。
 一方、戦後には自らが体験した軍の「実態」について皇族の立場から批判をされ、波紋が広がった。南京に赴任した18~19年の経験について、著書『帝王と墓と民衆』で、「かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾(てきがい)心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった」と述懐し、「求めるものはただ和平のみとなった」と述べられている。紀元節復活に学術的な視点から反対の立場を取られたこともあった。
 戦後間もなく歴史研究の道に進み、古代オリエント史の研究を続ける一方で、昭和天皇の代理として台風などで被害を受けた被災地にも多く足を運ばれた。
 28年に秩父宮、62年に高松宮が亡くなり、唯一残った弟宮として64年1月7日には、皇居・吹上御所で昭和天皇の崩御に立ち会い、「激動の時代」の終わりを見とどけられた。
 平成になってからは皇室の重鎮として天皇陛下のご即位をはじめ、皇室のご活動の移り変わりを見守られた。

三笠宮さま薨去 夫唱婦随、辛苦ともに 百合子さまにみとられ
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 次男の桂宮さまを、平成26年6月にご夫妻でみとられてから2年余り。三笠宮さまは長寿を全うし、常に寄り添ってきた最愛の妻、93歳の百合子さまが見守られる中で、静かに薨去(こうきょ)されたという。
 「やはり家内が一番大変です。私なんかはどうしていいかわかりませんので、ただ、アレヨアレヨとみているのみですが。結婚していってしまったら、寂しくなるでしょうね」
 三笠宮さまは昭和41年秋、長女の●子(やすこ)さん(近衛忠★(ただてる)夫人)の結婚を前にこう述べ、●子さんへの愛情とともに、百合子さまを頼りに思う気持ちをにじませられた。
 結婚60周年を迎えた平成13年10月22日夜には、東京・丸の内の東京銀行協会ビルでダイヤモンド婚式のパーティーをご開催。結婚70周年の23年10月22日に先立っては、ご夫妻それぞれが感想を文書で発表し、お互いへの感謝をつづられた。
 ご夫妻が文書をそろって公表されたのは、三笠宮さまが95歳、百合子さまが88歳だったこのときが初めてのことだった。
 三笠宮さまからのメッセージは「顧みれば、70年間、陰になり日なたになり私を助けてくれたのは、何といっても妻百合子であった」とする、おねぎらいから始まっていた。
 ご夫妻は開戦前夜の昭和16年に結婚。戦況が厳しくなる中で、新婚生活を送られた。結婚から1年余りがたつと、三笠宮さまは陸軍参謀として中国・南京へ赴任。百合子さまは三笠宮さまの活動を宮邸を守ることで支え、終戦前年の19年に生まれた●子さんを抱きながら、空襲に耐える日々を過ごされた。
 「妻は華族の出身であるが、皇族の生活は一段と厳しく、忙しいから、留守を守っていた妻の労苦は並々ならぬものであったに違いない」。三笠宮さまはご感想をこうつづり、激動の時代を過ごされた百合子さまへの思いを込められた。
 空襲で宮邸が焼失したため、三笠宮さまの帰国後は一時期、防空壕(ごう)で生活された。苦しい生活を強いられたが、「それを支えてくれたのも妻であった」。
 戦後、三笠宮さまが東京大学で歴史学を学んでいたころには、公務で参加できなかった授業の分のノートを友人からお借りになると、百合子さまが夜のうちに写されていたという。
 三笠宮さまは「過去の70年を振り返ってみるとき、百合子に対して感謝の言葉も見付からないほどである」と感想を結ばれ、百合子さまも「余(あま)り頑健(がんけん)でない私を、いつもいたわってくださった宮様のおかげで今日まで長生きできましたこと感謝の言葉もございません」と最上級の感謝をつづられていた。
●=ウかんむりの下に心、その下に用
★=火へんに軍

三笠宮さま薨去 継承資格4皇族に
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

 三笠宮さまの薨去により、天皇陛下と皇族方は19方となり、皇位継承資格を持つ男性皇族は4方となられた。
 寛仁親王殿下が平成24年6月に、桂宮さまが26年6月に薨去され、同年10月には高円宮妃久子さまの次女、典子さんが結婚により皇籍を離れたことで、皇族方の減少が一気に進んだ。
 菅義偉官房長官は27日午前の記者会見で、三笠宮さまの薨去にともない、安倍晋三首相の私的諮問機関「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」で皇位の安定継承の問題を扱うかを問われ、議論の対象としない考えを重ねて示した。菅氏は「天皇陛下が82歳とご高齢であることも踏まえ、公務の負担軽減に絞って議論をいただく」と強調。その上で、皇族の減少への対応に関しては「内閣官房皇室典範改正準備室でこれまでの議論の経緯を検証するなど、検討を行っている」と説明した。

三笠宮さま薨去 伝統踏まえご葬儀
産経新聞 10/28(金) 7:55配信

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ご葬儀の主な流れ(写真:産経新聞)
 三笠宮さまのご葬儀は今後、皇室の伝統を踏まえて執り行われる。一連の儀式の始まりで、一般の納棺にあたる「御舟入(おふないり)」は28日。本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」は、東京都文京区にある「豊島岡(としまがおか)墓地」で11月4日に営まれることが決まった。斂葬の儀では参列者が玉串(たまぐし)をささげて拝礼する「葬場(そうじょう)の儀」の後、ご遺体を火葬場に運んで火葬。再び同墓地に戻る。続く「墓所(ぼしょ)の儀」で同墓地に、ご遺骨が埋葬されることになる。
 天皇、皇后両陛下は、皇室の慣例により一連の儀式に参列せず、勅使を差し向けられる。

三笠宮さま逝去、昭和天皇の末弟、100歳 皇族最長寿
スポニチアネックス 10/28(金) 7:01配信

 昭和天皇の末弟で、天皇陛下の叔父に当たる三笠宮さまが27日午前8時34分、入院先の東京都中央区の聖路加国際病院で心不全のため亡くなられた。名前は崇仁。宮内庁によると、信頼できる記録上、皇族では最長寿の100歳だった。皇位継承資格がある皇族は皇太子さま、秋篠宮さま、悠仁さま、常陸宮さまの4人に減った。本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は11月4日午前10時から東京都文京区の豊島岡墓地で営まれる。妻の百合子さまが喪主を務める。
 三笠宮さまは5月16日、急性肺炎で入院。宮内庁によると、27日午前7時40分ごろまでは安定した状態だったが、その後心機能が低下した。皇位継承順位は5位。三笠宮さまの死去で、天皇と皇族からなる皇室は19人になった。
 現在の皇族で唯一、軍務経験があり、太平洋戦争中は大本営陸軍参謀などを歴任した。満州事変での現地軍の独走など軍の在り方を批判。平和を希求する姿勢を鮮明にした。普段は気さくで穏やかな人柄から「大殿下」と呼ばれて慕われていた。古代オリエント史の研究者としても知られ、ダンスも得意だった。
 宮内庁の山本信一郎長官は会見で、皇族の減少が進んだ現状に触れ「大きな課題」との危機感を示した。皇室制度を巡り、政府は天皇陛下の生前退位の制度化へ向けた議論を優先。「女性宮家」創設など過去の政権が検討してきた皇族減少への対応の議論は後回しにする「二段構え」で臨んでいる。
 宮内庁は、天皇陛下と皇后さまら皇族が27日から7~90日、喪に服すと発表。両陛下や皇太子ご夫妻ら皇族は27日夕、相次いで宮邸を弔問に訪れた。また、11月1日に元赤坂の赤坂御苑で予定していた秋の園遊会の取りやめを決定した。27日に皇居・御所で予定していたフィリピンのドゥテルテ大統領との会見も中止となった。

「斂葬の儀」11月4日に豊島岡墓地で
読売新聞 10/27(木) 23:29配信

 宮内庁は27日、三笠宮さまの葬儀日程を決定した。
 喪主は妻の百合子さまが務められる。納棺に当たる「お舟入(ふないり)」が28日夕に、お墓の予定地の地鎮祭は29日午前に行われる。本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は11月4日午前10時から、東京都文京区の豊島岡(としまがおか)墓地で営まれる。

<三笠宮さまご逝去>皇室典範制定時 「生前退位」規定主張
毎日新聞 10/27(木) 23:10配信

 ◇終戦直後 当時の政府認めず
 三笠宮さまは1946年、「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」と題する意見書を作成し、新憲法のもとで制定される新しい皇室典範に天皇の「譲位(生前退位)」を認める規定を盛り込むよう主張されていた。
 吉田茂内閣は46年7月、諮問機関「臨時法制調査会」を設置。調査会は皇室典範について、明治期に制定された旧皇室典範を踏襲し、天皇の生前退位を規定しない要綱を答申した。三笠宮さまの意見書はこの答申に異論を唱えたものとされる。
 三笠宮さまは意見書で、天皇が亡くなった場合のみ皇位継承が行われることについて「『死』以外に譲位の道を開かないことは新憲法の『何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない』といふ精神に反しはしないか?」と疑問を呈した。内閣と天皇で「重大問題」について意見が異なった場合、「譲位といふ最後の道」は天皇に残しておく必要があると述べ、譲位が認められないならば「天皇は鉄鎖(てっさ)につながれた内閣の奴隷と化す」と指摘した。
 だが当時の政府はこうした立場をとらなかった。退位を認めない理由について政府は、天皇の地位を安定させるためと説明したが、戦争責任を問う声も上がっていた昭和天皇の退位を回避しようとした事情もあったとされる。国会審議で金森徳次郎国務大臣(当時)は「天皇一人の考えによって、その位を動くことは、国民の信念と結びつけると調和せざる点があるのではないか」と答弁している。
 皇室典範は衆議院と貴族院(当時)で可決され、新憲法と同じ47年5月3日に施行された。【高島博之、山田奈緒】

<三笠宮さまご逝去>護衛付けずに1人で外出
毎日新聞 10/27(木) 22:50配信

 三笠宮さまが、周囲の人たちに気付かれないまま、ビルの地下商店街を1人で歩かれている場面に遭遇したことがある。8年前の東京駅前だった。スーツ姿で紙袋を手にして、左右の店に視線を向けながらゆったりと歩を進められていた。あいさつすると、「おお、ご苦労様です」とおうようとした様子で応えてくれた。護衛もつけず1人で外出されることは知っていたが、不特定多数が行き交う場で出会ったのには驚き、かつ新鮮に感じた。
 「終戦後わたくしの生活環境は激変した。が、わたくしは楽しかった。三十になってたった一人で町をあるく楽しみをはじめて知ったわたくしは、運命のふしぎさをかみしめながら、だれにも気づかれずにコツコツと町をあるいてみたものである」。三笠宮さまが1956年に書いた「帝王と墓と民衆」に記されている「楽しみ」は92歳になっていても続いていた。「格子なき牢獄(ろうごく)」と表現した戦前とは違う環境を積極的に受け入れた。
 戦前の皇族身位令は、男性皇族は軍務につくと定めていた。中国戦線で見聞きした事実を基に、侵略主義に反省を求める文書を記したのは、戦時中の44年。戦時下の中国で、宣教師が1人で「愛」を説く姿に関心を持ち、キリスト教が誕生した古代オリエントへの興味につながった。
 戦後は東京女子大などで長く講師を務めたが、一般人とバス通勤するなど、皇族と市民の垣根を低くする役割も果たした。
 洒脱(しゃだつ)さも持ち合わせていた。旅先の宴席では、宿の浴衣姿で登場。やおら脱ぐとTシャツ、細身ズボンの全身黒ずくめの衣装で、マイケル・ジャクソンの「ビート・イット」のテープに合わせてラインダンスのように足を上げて踊った。「チントンシャン」のはやしに合わせてすり足で登場、日舞を披露したこともあったという。
 時には皇族という枠を越えながら自らの役割を考え続け、そして信念を貫き通した100年の生涯だった。【大久保和夫】

<三笠宮さまご逝去>将校から史家に 11月4日に斂葬の儀
毎日新聞 10/27(木) 22:47配信

 昭和天皇の末弟で天皇陛下の叔父に当たる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)さまが27日午前8時34分、入院先の聖路加国際病院(東京都中央区)で心不全のため亡くなられた。明治以降の皇族としては最も長寿の100歳だった。天皇陛下は同日から7日間の喪に服される。皇位継承順位が5位の三笠宮さまの逝去により継承資格を持つ男性皇族は4人となり、天皇陛下と皇族からなる皇室は19人となった。宮内庁は、本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」を11月4日に豊島岡墓地(東京都文京区)で執り行うと発表した。
 三笠宮さまは5月16日に急性肺炎で同病院に入院した後、肺炎の症状は治まったが、心機能の低下がみられたため入院を続けていた。容体の安定した状態が続いたが、27日朝に急変した。宮内庁によると、同日午前7時40分ごろから徐々に心臓の拍動が遅くなり、8時ごろ心停止の状態になった。同病院に検査入院していた妻百合子さま(93)がみとられた。
 三笠宮さまは、心臓の僧帽弁閉鎖不全を患い、96歳だった2012年7月に手術を受けた。車いすを使い、お住まいのある東京都港区の赤坂御用地で百合子さまと静かに暮らしていた。
 1915(大正4)年12月2日、大正天皇の四男として誕生した。幼名は澄宮(すみのみや)。終戦時は陸軍少佐だった。41年10月に子爵・高木正得(まさなり)氏の次女百合子さまと結婚。3男2女をもうけた。長男の寛仁さまは12年、次男の桂宮さまは14年、三男の高円宮さまは02年にそれぞれ亡くなられている。古代オリエント史の研究者としても知られ、東京女子大などで講師として教壇に立った。
 天皇、皇后両陛下や皇太子ご夫妻らは27日夕、弔問のため三笠宮邸を訪れた。同日予定されていた天皇陛下と来日中のドゥテルテ・フィリピン大統領との会見は中止された。11月1日に予定されていた秋の園遊会などの行事も中止となった。宮内庁は天皇陛下が27日から7日間、喪に服すと発表した。皇后さまや皇太子ご夫妻ら皇族方も7~90日の喪に服す。【高島博之、山田奈緒、古関俊樹】

三笠宮崇仁殿下ご薨去・2

昭和天皇の末弟で、天皇陛下の叔父にあたられる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)殿下が27日午前8時34分、心不全のため、入院先の東京都中央区の聖路加国際病院でご薨去(こうきょ)された。100歳だった。
笠宮崇仁殿下は皇位継承順位は第5位で、明治以降の皇族では最高齢。
本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は文京区の豊島岡墓地で営まれる。宮内庁は現在、日取りなどの検討を行なっている。
謹んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈り申し上げます。
伝達するニュースの数が多くなりましたので分割します。
最初の記事はこちら
リンク:<三笠宮さまご逝去>学者として議論楽しむ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>市民との垣根低く 俳句に家庭多く詠み - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>スキー発展に尽力 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま、本葬は来月4日=喪主は妃の百合子さま―宮内庁 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>皇族減少、宮内庁「大きな課題」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>首相が哀悼の意 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:100歳、平和願い…三笠宮さまがご逝去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:一般弔問記帳、28日から=三笠宮邸内で―宮内庁 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>一般向け記帳所 28日から設置 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:皇族や首相ら次々弔問=涙浮かべる記帳者も―三笠 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 両陛下、7日間ご服喪 秋の園遊会は中止、比大統領とのご会見も - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:天皇陛下、比大統領にメッセージ=三笠宮さま逝去で会見中止 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:両陛下、三笠宮邸を弔問 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 衆参議長が謹話発表 「誠に痛惜の限り」「深い悲しみ」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま 歴史ご探求 オリエントの宮さま 教壇に - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 気さくなお人柄悼む 関西ゆかりの地 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま ご子息3方に先立たれ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:「生前退位」ご提案 皇室典範 三笠宮さま私案 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま逝去で謹話=衆参議長 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 安倍晋三首相「哀惜の意を表します」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 宮内庁会見(下)両陛下に「心停止」「薨去」をご報告 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:秋の園遊会中止、宮内庁発表…三笠宮さま逝去で - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 両陛下は7日間ご服喪 秋の園遊会はお取りやめ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:秋の園遊会取りやめ=両陛下ら服喪―三笠宮さま逝去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>秋の園遊会を中止 宮内庁発表 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>九州・山口に足跡 宮崎神宮でお手植え - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>冗談とユーモアで周囲なごませ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 宮内庁会見(上)午前7時40分ごろにご容体急変 百合子さまが病室で看取られ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 激動の時代を生き抜かれ 歴史ご探求「学者肌」の一面も - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:「穏やかな方、残念」=青い車で自宅へ―入院先病院・三笠宮さま逝去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>ダンススポーツ発展に尽力 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>飾らぬ素顔 カラオケやドラマ楽しむ - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 自民・小此木八郎国対委員長代理「ご冥福をお祈りする」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>平和願い歴史探究 最後の皇族将校 - 速報:Yahoo!ニュース.
以下、参考のために同記事を引用
<三笠宮さまご逝去>学者として議論楽しむ
毎日新聞 10/27(木) 22:42配信

 昭和天皇の末弟で天皇陛下の叔父の三笠宮崇仁(たかひと)さまが27日、亡くなられた。多くの人々と分け隔てなく交流し、学問や趣味に真摯(しんし)に取り組む三笠宮さまの姿は、周囲の人たちの胸に深く刻まれている。親しく接した人からは、自由で気さくな人柄を懐かしむ声も聞かれた。
 三笠宮さまの提唱で1954年に設立した「日本オリエント学会」の前会長、鎌田繁・東大名誉教授(イスラム思想)は「体調がすぐれないと聞いてはいたが、とても残念に思う」と惜しんだ。
 三笠宮さまは、皇族としてではなく学者として学会に出席されているように見えたという。約30年前、学会の忘年会に出席した際、他の学者から「(三笠宮さまの)論文はおかしい点がある」と議論をふっかけられても、にこにこ笑いながら応じていたことをよく覚えている。鎌田さんは「みんなと同じ立場で議論するのを楽しんでいるようだった」と懐かしむ。
 設立60周年を迎えた2014年、三笠宮さまから学会にファクスでメッセージが届いた。後になって宮家の職員から「学会のことを気にされていて、いろいろな資料を読んでメッセージを書かれた」と聞き、鎌田さんは「高齢になられても学会のことを心配されている」と感じたと振り返る。
 三笠宮さまは戦争の経験から歴史学を学ぶことの重要性を感じ、東大文学部の研究生となった。学生として知り合った中根千枝・東大名誉教授(社会人類学)は「研究姿勢などとても真面目な方だった。入院されていたので心配していた」と声を落とした。
 中根さんは「初めは普通の人だと思ったが、三笠宮さまが教室に入ると講師が最敬礼しており、皇族だと後になって知った」と振り返る。講義の内容について話し合ったり、ノートを貸し借りしたりする仲だった。
 宮邸や別荘に呼ばれることもあり、交際は長く続いた。「体を鍛えていたからか、健康的な方だった」と話した。【伊澤拓也、町田徳丈】

<三笠宮さまご逝去>市民との垣根低く 俳句に家庭多く詠み
毎日新聞 10/27(木) 22:37配信

838
結婚から70年を迎えられた三笠宮さま、百合子さま=東京・元赤坂の三笠宮邸で2011年10月、宮内庁提供
 昭和天皇の末弟で天皇陛下の叔父の三笠宮崇仁(たかひと)さまが27日、亡くなられた。多くの人々と分け隔てなく交流し、学問や趣味に真摯(しんし)に取り組む三笠宮さまの姿は、周囲の人たちの胸に深く刻まれている。親しく接した人からは、自由で気さくな人柄を懐かしむ声も聞かれた。
 三笠宮さまは長年にわたり俳句を趣味とされ、妻の百合子さま(93)との合同句集を2冊出版した。2006年から約6年にわたって指導した毎日俳壇選者で俳人協会会長の鷹羽狩行(たかはしゅぎょう)さん(86)は三笠宮さまの俳句を「格調高く、観察眼も素晴らしい。また新しく作られた俳句を拝見したかった。残念でならない」と惜しんだ。
 ご夫妻で俳句を始めたのは1948年。俳人の星野立子らの指導を受け、57年に初めての合同句集「初雪」を出版した。
 06年10月からほぼ毎月、鷹羽さんの指導を宮邸で受けた。句について鷹羽さんが意味などを尋ねると、三笠宮さまは資料を持ち出して説明することもあった。鷹羽さんは「学者らしい方だ」との印象を受けたという。
 鷹羽さんは秀作の句には朱で丸をつけた。ある日、鷹羽さんが「何かご質問などございますか」と尋ねると、三笠宮さまが「もっと丸がほしい」と冗談まじりに話したことがほほ笑ましい思い出だという。
 ご夫妻が結婚70年を迎えた11年10月、鷹羽さんは記念に句集を出版することを勧め、150句ずつを収録した「夕虹」が12年に出版された。「夕虹」に収められた三笠宮さまの句には家庭や家族を詠んだものが多い。「短日や戻れば我が家灯の点り」「女子高の卒業証書見せに孫」など温かみを感じさせる句が数多く収録されている。戦争体験を詠んだ句には「枯野ゆく匍匐(ほふく)前進せしむかし」や「残雪の中の演習忘れ得ず」などがある。
 鷹羽さんの指導は、12年に三笠宮さまが入院するまで続いた。時には、三笠宮ご夫妻の案内で赤坂御苑内を俳句を作るため、散策を楽しんだこともあったという。鷹羽さんは約6年の交流を振り返り「温かな雰囲気でもてなしを受け、貴重な思い出になった。『夕虹』を読み返して、殿下のお人柄を振り返りたい」と話していた。【高島博之】

<三笠宮さまご逝去>スキー発展に尽力
毎日新聞 10/27(木) 22:25配信

 27日に亡くなられた三笠宮さまはスポーツ界との関わりも深かった。スキーでは、毎年3月に札幌市で行われる宮様スキー国際競技会のうち、ノルディック複合の大会が「三笠宮杯」として行われている。
 1994年リレハンメル五輪の複合団体金メダリストで、北海道名寄市の阿部雅司特別参与・スポーツ振興アドバイザーは「高校3年の宮様大会で少年組ながら成年組を抑えて初優勝し、賜杯をいただいた。僕の人生できっかけの大会で思い入れが強い。スキー界に宮様が力を注いでいただいたので残念」と話した。98年長野五輪スキージャンプ団体金メダリストで、雪印メグミルクスキー部の原田雅彦監督は「スキーの発展に尽力いただいた。大変残念です」と語った。【江連能弘】

三笠宮さま、本葬は来月4日=喪主は妃の百合子さま―宮内庁
時事通信 10/27(木) 22:21配信

 宮内庁は27日夜、100歳で亡くなられた三笠宮さまの葬儀関連行事の日程を発表した。
 本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は来月4日、東京都文京区の豊島岡墓地で執り行う。
 同庁によると、斂葬の儀は三笠宮家の行事として執り行われる。喪主は三笠宮妃百合子さま(93)が務める。

<三笠宮さまご逝去>皇族減少、宮内庁「大きな課題」
毎日新聞 10/27(木) 22:17配信

837
皇室の構成
 ◇政府内の議論は進まず
 三笠宮崇仁さまが逝去されたことに関し、宮内庁の山本信一郎長官は27日の定例記者会見で、皇族の減少が進んでいることについて「大きな課題。内閣でも検討いただいている状況だ」と述べた。政府は天皇陛下の生前退位などについての検討を優先し、皇族減少によって皇室が縮小しつつある問題への対応は先送りとなる見通しだ。
 皇位継承順位が5位だった三笠宮さまが亡くなったことにより、継承資格者は(1)皇太子さま(2)秋篠宮さま(3)秋篠宮ご夫妻の長男悠仁さま(4)常陸宮さま--となった。天皇陛下と皇族からなる皇室は19人になった。
 憲法は皇位を世襲と規定し、皇室典範は継承資格者について「皇統に属する男系の男子」としている。女性の皇族は「天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」と規定している。
 山本長官は会見で皇族が減っていることへの見解を問われ、「そういった皇統の問題がある。女性皇族が結婚されれば皇籍を離脱する。皇族が減少する問題が現在の皇室に存在しているとの認識は持っている。政治、内閣、国会の場で検討いただく問題」とした。
 一方、菅義偉官房長官は27日の記者会見で皇族減少問題に取り組む時期について「いたずらに検討を先延ばしするような問題ではない。それ以上のことを今の段階で申し上げることは控えたい」と述べるにとどめた。皇族減少問題を陛下の生前退位と同時に検討しない理由については「皇室制度についてはさまざまな議論がある。一緒にやると方向性を出すのに時間がかかり過ぎる」と説明した。
 皇室制度の改正を巡っては、2005年に小泉純一郎首相(当時)の有識者会議が女性・女系天皇を容認する報告書をまとめたが、翌年に秋篠宮ご夫妻に悠仁さまが誕生したことで棚上げになった。
 11年には民主党(当時)の野田佳彦首相(同)が女性皇族が結婚後も皇室にとどまる「女性宮家」創設の検討を始めたが、反対も根強く立ち消えになった。民進党内には「女性宮家の問題は女性皇族の年齢を考えるとゆっくりしていられない」(岡田克也前代表)と早急な検討を求める声がある。【山田奈緒、田中裕之】

<三笠宮さまご逝去>首相が哀悼の意
毎日新聞 10/27(木) 22:13配信

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衆院TPP特別委員会の冒頭、三笠宮崇仁さまのご逝去について、弔意を述べる安倍晋三首相=国会内で2016年10月27日午後1時5分、川田雅浩撮影
 安倍晋三首相は27日の衆院環太平洋パートナーシップ協定(TPP)特別委員会で、三笠宮崇仁さまの逝去について「誠に哀惜に堪えません」と述べ、弔意を表した。また、「国際親善やスポーツ、医療福祉等の分野にわたり、皇族として重要な役割を果たされ、行事にご臨席の際には関係者を励まされるなど国民と親しく接せられました」と語り、人柄をしのんだ。
 首相はまた、「昭和時代からの長きにわたり、昭和天皇及び天皇陛下を助けられ、国の平和と国民の福祉のために貢献してこられました。国民と共に謹んで心から哀悼の意を表します」との謹話を発表した。【梅田啓祐】

100歳、平和願い…三笠宮さまがご逝去
読売新聞 10/27(木) 22:11配信

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新年の一般参賀で、訪れた人たちに手を振られる三笠宮さま(2013年1月2日)
 昭和天皇の末の弟宮で天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)親王殿下は、27日午前8時34分、心不全のため、東京都中央区の聖路加国際病院で逝去された。
 明治以降の皇族では最高齢の100歳だった。天皇、皇后両陛下や皇太子ご夫妻を始め、皇族方は同日、港区の三笠宮邸を相次いで弔問。大正、昭和、平成と生き抜き、平和と自由を重んじられた三笠宮さまとの別れを惜しまれた。
 宮内庁は27日午前10時半から加地隆治・宮務主管が記者会見し、三笠宮さまの逝去を発表した。
 同席した同庁の名川弘一・皇室医務主管によると、三笠宮さまは5月16日に急性肺炎で同病院に入院した際、心臓機能に低下が見られたため、退院せずに経過観察を続けていた。最近の容体は安定していたが、27日午前7時40分頃、徐々に心臓の拍動が遅くなるなど急変。同8時頃には心停止状態となり、同34分、妃殿下の百合子さまにみとられ、逝去が確認された。
 三笠宮さまは2006年頃、心臓の僧帽弁(そうぼうべん)閉鎖不全症と診断された。12年7月に急激に心臓機能が低下し、弁を修復する手術を受けられた。当時96歳の高齢者には異例の手術だったが回復し、15年12月2日に100歳の誕生日を迎えられた。
 三笠宮さまは1915年(大正4年)12月2日、昭和天皇、秩父宮、高松宮に続き、大正天皇と貞明皇后の第4皇子として誕生された。幼時の称号は澄宮(すみのみや)。32年(昭和7年)、学習院中等科4年を修了して陸軍士官学校、陸軍大学校に学び、先の大戦中は陸軍参謀などを務めた。
 戦後は大戦の反省に立ち、世の中を見つめ直すとの思いで中東などオリエント学者の道に進まれた。平和や自由を重んじ、大戦を「聖戦」と呼んだ軍部を批判。建国記念の日の制定に絡んだ「紀元節」復活の動きに学者の立場から反対されたこともあった。
 百合子さまとの間に寛仁さま、桂宮さま、高円宮さま、近衛寧子(やすこ)さん、千容子(まさこ)さんの3男2女をもうけられた。2002年11月に高円宮さま、12年6月に寛仁さま、14年6月には桂宮さまが亡くなり、3人の男子ともに先立たれた。
 三笠宮さまの逝去により、皇位継承権を持つ男性皇族は4人、皇族の方々は19人となった。昭和天皇の弟は3人とも亡くなられたことになる。
 天皇陛下は27日に予定していたフィリピンのドゥテルテ大統領との会見を取りやめたほか、11月1日に予定していた園遊会も中止された。三笠宮妃殿下の百合子さまは27日から90日間、三笠宮、高円宮両家の他の皇族方は30日間、喪に服される。天皇陛下と、両家以外の皇族方も、同日から7日間喪に服されるという。
 宮内庁は28日午前9時から一般の記帳を受け付けると発表した。赤坂御用地内の三笠宮邸敷地内の仮設テントで午後7時まで。入退門は徒歩で南門から。

一般弔問記帳、28日から=三笠宮邸内で―宮内庁
時事通信 10/27(木) 19:59配信

 宮内庁は27日、亡くなられた三笠宮さまの一般からの弔問記帳を、28日以降、東京・元赤坂の三笠宮邸内仮設テントで受け付けると発表した。
 時間は28日から当分の間、午前9時から午後7時まで。徒歩で赤坂御用地の南門から入退場する。

<三笠宮さまご逝去>一般向け記帳所 28日から設置
毎日新聞 10/27(木) 19:45配信

 宮内庁は、28日から当面の間、赤坂御用地にある三笠宮邸内の仮設テントに一般向けの弔問記帳所を設けると発表した。希望者は午前9時から午後7時までの間に徒歩で御用地の南門から入る。

皇族や首相ら次々弔問=涙浮かべる記帳者も―三笠宮邸
時事通信 10/27(木) 19:09配信

 三笠宮さまが亡くなられた27日、住居のある赤坂御用地には、皇族や安倍晋三首相、閣僚らが次々と弔問に訪れ、慌ただしく人が出入りした。
 ゆかりの人なども記帳に駆け付け、周囲は悲しみに包まれた。
 天皇、皇后両陛下を乗せた車列は午後5時すぎに赤坂御用地に到着した。両陛下はともに喪服姿。天皇陛下はややうつむき加減で、口を真一文字に結び硬い表情だった。5時半ごろには、皇太子ご夫妻や秋篠宮ご一家も、車で御用地を後にした。
 その後、安倍首相や黒田東彦日銀総裁らも弔問に訪れた。
 逝去されたことを知り、タクシーなどで記帳に訪れる人も多かった。千葉県船橋市から記帳に来た女性(69)は「長らく入院されていて気掛かりでした。寂しいです」と話し、目に涙を浮かべた。「陸軍士官学校にいた父が約40年前に亡くなった時に、三笠宮さまから花とメッセージを頂いた。それが思い出です」とハンカチを握りしめ、悲しげに語った。

三笠宮さま薨去 両陛下、7日間ご服喪 秋の園遊会は中止、比大統領とのご会見も
産経新聞 10/27(木) 18:37配信

 宮内庁は27日、三笠宮さまが薨去(こうきょ)されたことを受け、天皇、皇后両陛下が同日から7日間、三笠宮妃百合子さまは90日間の喪に服されたと発表した。これに伴い、両陛下のご主催で11月1日に催される予定だった秋の園遊会を中止とした。
 また、天皇陛下が27日に予定していたフィリピンのドゥテルテ大統領との会見は取りやめられた。秋元義孝式部官長を通じ、大統領に伝えられたという。

天皇陛下、比大統領にメッセージ=三笠宮さま逝去で会見中止
時事通信 10/27(木) 18:28配信

 天皇陛下は27日午後、予定されていたフィリピンのドゥテルテ大統領との会見が三笠宮さま逝去のため中止になったことを受け、宮内庁の秋元義孝式部官長を通じて、大統領に「お会いすることがかなわず残念に思います」などとするメッセージを伝えられた。
 陛下は27日午後5時から、皇居・御所で大統領と会見する予定だった。秋元式部官長によると、メッセージは英文で、「大統領の日本での滞在が実り多いものであったことを希望します」などとする内容。今年1月に皇后さまとフィリピンを訪問した際の対応への感謝にも触れられていた。
 式部官長が午後4時ごろ、滞在先のホテルで直接メッセージを伝えると、大統領は真摯(しんし)な態度で聞き入り、「陛下の深い悲しみを共有するとともに、心から哀悼の意を表します。いつか陛下とお会いする機会があると確信しています」と応じたという。

両陛下、三笠宮邸を弔問
時事通信 10/27(木) 18:20配信

 天皇、皇后両陛下は27日午後、三笠宮さまの逝去を受け、弔問のため東京・元赤坂の赤坂御用地にある三笠宮邸を訪問された。
 皇太子ご夫妻ら皇族方も弔問に訪れた。
 三笠宮さまのご遺体は午前11時すぎ、聖路加国際病院を出て宮邸に戻った。両陛下を乗せた車は午後5時ごろ赤坂御用地に到着。両陛下は喪服姿で、硬い表情を浮かべたまま宮邸へ向かった。宮内庁によると、8分ほど滞在し、再び皇居に戻ったという。
 27日午後に定例記者会見を開いた宮内庁の山本信一郎長官によると、天皇陛下は同日朝、朝食を終えて皇后さまと新聞を読んでいた際に、名川弘一皇室医務主管から三笠宮さまの容体急変の報告を受けた。陛下はお見舞いができるかどうか尋ねたが、すぐに訃報が伝えられ、皇室の服喪期間や行事日程の変更を決めるなどの対応を取ったという。
 山本長官は「戦前から戦後の長きにわたって皇室活動やオリエント学の研究活動などにいそしまれ、大きな業績を挙げられて、長寿をされた殿下だった」と述べ、哀悼の意を表明した。

三笠宮さま薨去 衆参議長が謹話発表 「誠に痛惜の限り」「深い悲しみ」
産経新聞 10/27(木) 16:31配信

 大島理森衆院議長と伊達忠一参院議長は27日、三笠宮崇仁親王殿下が薨去(こうきょ)されたことを受け、それぞれ哀悼の意を表す謹話を発表した。
 大島氏は「学術の分野で大きな足跡を残されました。誠に痛惜の限りであります」とした上で「戦前戦後の苦難の時代を国民とともに歩まれた殿下の御意志を受け継ぎ、歴史の教訓を学び平和を希求する努力を続けていかなければならないと思います」とした。
 伊達氏は「言いようのない深い悲しみを覚えております」とした。

三笠宮さま 歴史ご探求 オリエントの宮さま 教壇に
産経新聞 10/27(木) 15:17配信

 大正天皇の第4皇男子で、27日に現皇室最高齢の100歳で薨去(こうきょ)された三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下。百合子妃殿下にみとられ、その生涯を閉じられた。戦前、戦中、戦後の混乱期と、激動の時代を生き抜き、高度経済成長やバブルの崩壊など、大きく移り変わるわが国の姿をつぶさに目撃してきた、まさに「歴史の生き証人」であられた。常に国民とともに歩む皇室であろうと願って公務に励まれた三笠宮さまの薨去を多くの国民が悼み、ご失意の百合子さまを気遣う天皇、皇后両陛下も深く悲しまれているという。
 三笠宮さまは、成人式の会場で若者たちにまじってダンスのステップを踏まれるなど、庶民的でフランクな人柄で知られた。旅行や登山、スケートなど趣味も幅広く、話題豊富な宮さまであられた。オリエント史の研究では皇族として初めて大学の教壇に立ち、テレビでも講義するなど「学者肌」の一面もあり、多彩な横顔をお持ちだった。
 幼少期についたニックネームは「童謡の宮さま」。
 〈月夜の空を雁飛びて 宮くん御殿でそれ見てる〉
 これは、6歳前後の頃に作詞した「月と雁」という童謡で、ほかにもいくつも作詞をされている。
 戦後は「学者皇族」の道を歩まれた。昭和22年に東京大学文学部の研究生となって歴史学の分野に進み、アジアの広い地域の歴史を学ぶオリエント史を研究され、「オリエントの宮さま」の名でも親しまれた。
 29年の日本オリエント学会創立を提唱し、会長にご就任。30年には皇族として初めて大学(東京女子大)の講師となり、東京芸術大、青山学院大などでも教壇に立ったほか、ラジオやテレビにもご出演。NHKの番組で古代史を講義するなど、学問を通じて若者を中心に多くの国民と交流を深められた。
 東京女子大への通勤はもっぱら国鉄(現JR)を利用された。学食では女子学生らと一緒に、しばしば1杯20円のきつねうどんを食べられ、メニューは「宮さまうどん」などと呼ばれるようになったという。
 公道で車の運転もされた。40年10月には東京・青山で、ブレーキを踏み外されてハイヤーに追突。3台の玉突き事故となり、警視庁赤坂署から道路交通法違反容疑などで書類送検されたこともある。これも皇族としては初のことだった。
 中近東文化センターと日本・トルコ協会では、ともに名誉総裁を務められてきた。同センターは54年、三笠宮さまのご発意により、古代中近東の研究機関として東京都三鷹市に創設され、トルコのカマン・カレホユック遺跡で発掘調査を進めてきた。
 三笠宮さまは、日本で開催される複数のトルコ関連の展覧会で総裁を務め、同国の奥の深い歴史を紹介するなど、両国の懸け橋となられてきた。数年前までは日本・トルコ協会の年次総会にも毎年のように姿を見せ、平成23年6月には懇親会での乾杯の発声で、「トルコと日本は、古くからたいへん友好関係を保持しておりまして、それは世界に誇っていいところじゃないかと思います」とあいさつされている。
 さまざまな学術団体や催しに関わるなどしてきた活動が評価され、国際平和と日本・トルコ間の国際親善に貢献した人物にトルコ政府から贈られる「アタチュルク国際平和賞」を元年にご受賞。受賞の際には「日本のトルコ関係者が一生懸命やっており、その代表者として賞をいただいたと解釈している」と喜びの気持ちを語られた。
 16年3月には、東京都豊島区の学習院創立百周年記念会館で「古代アナトリア文明について」と題した特別講演を行い、青銅器の生産によってアナトリア(現在のトルコ)の文化が発展した歴史を語られた。翌月にも、NHKのラジオ番組に出演し、歴史を語られている。
 イラクやトルコの古代遺跡をはじめ、エジプト、メキシコなど文明発祥の地を訪ね、研究資料も精力的に収集された。研究成果は本や論文にまとめ、発表をされている。

三笠宮さま薨去 気さくなお人柄悼む 関西ゆかりの地
産経新聞 10/27(木) 15:16配信

 高い教養と、気さくなお人柄で、誰からも愛されていた三笠宮さまを多くが悼んだ。
 古代オリエント史に詳しい三笠宮さまは昭和35年から平成2年まで天理大(奈良県天理市)で教壇に立ち学生らに宗教史などを教えられた。飯田照明名誉教授(87)は「講義が終わると学生に『よく聞いてくれてありがとう』と必ず声をかけられていたのが印象に残っています」と語る。
 三笠宮さまが平成16年に名誉顧問に就任された岡山市立オリエント美術館(岡山市北区)。元館長の植田心壮さん(87)は美術館の開館直後に三笠宮さまからお手紙を受け取った。《ますますの発展を願う》。そう記されていたという。「手が震えたのと同時に活動の励みになりました」と振り返る。
 学習院初等科で天皇陛下のご学友だった臨済宗相国寺派の有馬頼底(らいてい)管長も、三笠宮さまのご提唱により設立された日本オリエント学会などでお会いしたことがあるという。「立派な方で偉ぶるということがありませんでした」
 三笠宮さまは平成14年3月、兵庫県芦屋市で開かれたトルコでの発掘品収納・展示施設建設を支援する講演会に出席された。実行委員長を務めた森房子さん(70)は歴史的資料の保存の重要性を熱く語られていたのを覚えている。「当時はすでに80歳を超えておられたが、元気に話されていたのを思いだします」と語る。
 日本スクエアダンス協会の総裁も務められていた三笠宮さま。大津市で昭和55年に開催された「全日本スクエアダンスコンベンション」では、会員らとのダンスにも参加されたという。
 当時小学校5年生だった水野千尋さん(47)は「笑顔で『今日はよろしく』と話しかけられたのを覚えています。母や姉が一緒に踊らせていただき楽しそうでした」と話した。
 香淳皇后の実弟・故東伏見慈洽(じごう)師の息子で、三笠宮さまの遠縁にあたる青蓮院(しょうれんいん)門跡(京都市東山区)の東伏見慈晃(じこう)門主は「親しみを感じる方だった。戦後の皇室の未来を一番に考えられた方だったように思う。気さくで高い教養のある方だった」と語る。
 皇室とのゆかりが深い泉涌寺(同区)では、昭和41年に寺の維持のために「御寺泉涌寺を護(まも)る会」が結成された際、三笠宮さまが初代総裁に就任された。平成8年に退任するまで毎年必ず、京都で開かれる総会に出席されていたという。藤田浩哉寺務長は「護持にご尽力賜り感謝の念に堪えません」とコメントした。

三笠宮さま ご子息3方に先立たれ
産経新聞 10/27(木) 15:15配信

 三笠宮さまは5人のお子さまにお恵まれになった。3人の親王方はいずれも独立してそれぞれの道を歩み、精力的に公務に取り組まれた。しかし、平成14年11月に三男の高円宮さまが室内球技のスカッシュ中に突然倒れ、心室細動のため47歳の若さで薨去(こうきょ)された。約10年後の24年6月には、度重なるがんの手術を乗り越えてきた長男の寛仁(ともひと)親王殿下も薨去された。
 三笠宮さまは、寛仁さまの本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」に車いすでご参列。非常に悲しみ、涙を流されていたという。
 次男の桂宮さまは昭和63年5月に宮邸の寝室で倒れ、右半身まひなどの障害が残り、長年、車いすでご生活。平成20年9月に敗血症を発症してからは懸命の闘病生活を送っていたが、26年6月に薨去されている。三笠宮さまは不幸にも、ご子息3方全員に先立たれる結果となられた。

「生前退位」ご提案 皇室典範 三笠宮さま私案
産経新聞 10/27(木) 15:14配信

 三笠宮さまは昭和21年、現行の皇室典範の審議にあたって、天皇が自らの意思で「退位」できるよう求める「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」という私案をまとめられている。
 崩御のみを譲位の条件とするのではなく、まさに天皇陛下が意向を示されている「生前退位」を提案された内容だ。
 皇室典範は天皇や皇太子の成年を18歳とするなどとする一方で、結婚には「皇室会議の議を経ること」などの制限を課している。結局、当時の政府は典範改正案が昭和天皇の裁可をすでに得ていたことを根拠に、三笠宮さまの私案を改正典範に反映させることを見送ったが、三笠宮さまが戦後間もない段階で、問題意識をお持ちだったことがよく分かる。

三笠宮さま逝去で謹話=衆参議長
時事通信 10/27(木) 14:59配信

 大島理森衆院議長は27日、三笠宮さまの逝去について「誠に痛惜の限りであります。戦前戦後の苦難の時代を国民とともに歩まれた殿下のご意志を受け継ぎ、歴史の教訓を学び、平和を希求する努力を続けていかなければならないと思います」との謹話を発表した。
 伊達忠一参院議長は謹話で「この訃音に接し、言いようのない深い悲しみを覚えております。殿下のみ霊の安らけく静まりますことを心より祈念するものでございます」と述べた。

三笠宮さま薨去 安倍晋三首相「哀惜の意を表します」
産経新聞 10/27(木) 14:22配信

 安倍晋三首相は27日の衆院環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)特別委員会で、三笠宮崇仁親王殿下が薨去(こうきょ)されたことについて「国民は殿下の一層のご長寿を願っておりましたところ、思いもむなしく薨去されましたことは、誠に哀惜に堪えません。国民とともに謹んで心から哀悼の意を表します」と述べた。
 自民党の宮川典子氏への答弁。

三笠宮さま薨去 宮内庁会見(下)両陛下に「心停止」「薨去」をご報告
産経新聞 10/27(木) 13:50配信

 --息を引き取られたときは、百合子さまとお二方ということか。その後に駆け付けられた皇族方は
 加地氏「承知してないのでお話しできない状況です」
 --亡くなるまでは百合子さましか間に合われていない
 加地氏「百合子妃殿下が付き添われて薨去されたということでございます」
 --宮内庁関係者は
 加地氏「それはちょっと今は…。薨去あそばされたときに宮内庁関係者が誰がいたか正確に申し上げられないので控えたいと思います」
 --斂葬の儀などの今後の流れは
 加地氏「具体的なご日程を詰めています。そういったことが固まりましたら改めて皆さまにお知らせします。できるだけ早く決めなければいけないので、決まり次第ということに」
 --両陛下のお耳にはもう届いている
 加地氏「それはそうです」
 --何時ぐらいに報告された
 名川氏「8時の心停止が起こってすぐに第一報を入れまして、8時34分に薨去された後もすぐに連絡をいれてございます」
 --そのときのご様子は
 名川氏「侍従を通じて伝えたので、どういうご様子だったかは承知していません」
 --2回とも侍従を通じて
 名川氏「はいそうです」
 --最近は容体が安定してたということだが、お過ごしようを教えてほしい
 名川氏「そのときどきによって、お眠りになっていたり、お声かけにうなずかれたりというような状況がございました。血圧についても安定していて、そのときの状況が許すようであれば、少し手足を動かしていただいたりとか。そういったお過ごしようでした」
 --最後の会話の相手はどなた。内容は
 名川氏「7時40分ごろということですか?」
 --それ以前でも意味のあるやり取りは
 名川氏「多分、前日には百合子さまとお話されているんではないかなと。意思の疎通ができていました」
 --最後は、安らかに静かに亡くなられたのか
 名川氏「苦しまれたという話は担当医から入っていません」
 --8時前後に心停止ということだが、それをもって死亡確認とせず、8時34分に確認というのは34分までの間の時間は生命反応があるのか
 名川氏「死亡確認を行ったのが34分」
 --実質的に亡くなったのは8時?
 名川氏「実質とか形式ということではなく、死亡の定義は医師が三兆候を確認したときをもって死亡なので、心臓が停止したから死というわけではありません」
 --その30分間はどんな時間だったのか
 名川氏「百合子さまが病室にいらっしゃるようなお時間が主でした」
 --百合子さまが、三笠宮さまのお部屋に入られたのは何時
 名川氏「推測ですが8時30分前ではないでしょうか。死亡確認が行われたのが34分ですから」
 --急変の連絡を受けて病室に
 名川氏「そうですね」
 --百合子さまのご入院は
 名川氏「百合子さまの件はずれるので、お許しいただければ」
 --百合子さまのご様子は
 「それは存じ上げておりません」
 --殿下は100歳。これだけの長寿を保たれていた理由は
 名川氏「肉体的に、通常の方という言い方は失礼だが、通常の健康な方より上回って、ご健康な状況を保てるだけの体力がもともと若い頃からおありだったのだろうと思います」
 --日常生活で気を配られていたことは
 名川氏「毎日ご運動を欠かしませんでした。宮邸にいるときは毎日されていました」
 --散歩とか、筋力トレーニングとか
 名川氏「両方ですね」
 --6月ごろ、リハビリをされているという説明があった。足腰のリハビリはいつまでやられていたのか
 名川氏「リハビリにも幅がございます。手足を動かされるということなら、つい最近までおやりになっていました」
 --昨日も?
 名川氏「それは分かりません。三笠宮さまがどういうご状況かというイメージでいうと、ベッド上で絶対安静で、少し動いたらまずい、ということではありませんでした」
 --7時40分ごろまでは、いつも通りに過ごされていたのか
 名川氏「通常通り」
 --朝食も召し上がったのか
 名川氏「通常通りでございます」
 --時間は
 名川氏「そこは承知していません」
 --起床された時間は
 名川氏「承知しておりません」

秋の園遊会中止、宮内庁発表…三笠宮さま逝去で
読売新聞 10/27(木) 13:37配信

 宮内庁は27日、三笠宮さまの逝去に伴い、11月1日に予定されていた秋の園遊会を中止すると発表した。
 また、妃殿下の百合子さまは27日から90日間、三笠宮、高円宮両家の他の皇族方は30日間、喪に服される。天皇陛下と、両家以外の皇族方も、同日から7日間、喪に服されるという。

三笠宮さま薨去 両陛下は7日間ご服喪 秋の園遊会はお取りやめ
産経新聞 10/27(木) 13:31配信

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宮内庁外に掲げられた弔旗=27日、宮内庁(伴龍二撮影)(写真:産経新聞)
 宮内庁は27日、三笠宮崇仁親王殿下の薨去を受け、天皇、皇后両陛下が同日から7日間の喪に服されたと発表した。これに伴い、両陛下が主催されて11月1日に催される予定だった秋の園遊会も取りやめる。
 皇太子ご一家、秋篠宮ご一家、常陸宮ご夫妻も7日間の喪に服される。三笠宮妃百合子さまは90日間、寛仁親王妃信子さま、三笠宮家の彬子さま、瑶子さま、高円宮ご一家は30日間それぞれ服喪される。

秋の園遊会取りやめ=両陛下ら服喪―三笠宮さま逝去
時事通信 10/27(木) 13:12配信

 宮内庁は27日、三笠宮さまの逝去を受け、11月1日に東京・元赤坂の赤坂御苑で開かれる予定だった天皇、皇后両陛下主催の秋の園遊会を取りやめると発表した。
 両陛下と皇族方はいずれも27日から喪に服されるという。同日午後予定されていた天皇陛下とフィリピンのドゥテルテ大統領との会見は中止になった。
 同庁によると、服喪の期間は両陛下と皇太子ご一家、秋篠宮ご一家、常陸宮ご夫妻が7日間、三笠宮妃百合子さまが90日間、寛仁親王妃信子さまと三笠宮家の彬子さま、瑶子さま、高円宮妃久子さま、長女承子さま、三女絢子さまがそれぞれ30日間。
 秋の園遊会には、各界の功績者や自治体関係者ら約2200人が招かれていた。招待者にはレスリング女子で五輪4連覇を達成し、国民栄誉賞を受賞した伊調馨選手をはじめとするリオデジャネイロ五輪の金メダリストや、俳優の北大路欣也さんらが含まれていた。

<三笠宮さまご逝去>秋の園遊会を中止 宮内庁発表
毎日新聞 10/27(木) 13:11配信

 宮内庁は27日、三笠宮崇仁さまの逝去を受け、11月1日に東京都港区の赤坂御苑で予定していた秋の園遊会を中止すると発表した。

<三笠宮さまご逝去>九州・山口に足跡 宮崎神宮でお手植え
毎日新聞 10/27(木) 13:04配信

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市制100周年記念事業で訪れた山口県下関市の火の山を散策する三笠宮ご夫妻=山口県下関市で1989年4月17日
 三笠宮崇仁さまは、九州・山口でも各地に足跡を残され、1945年3月と55年11月に宮崎市の宮崎神宮を参拝。55年には境内に杉の木を「お手植え」した。
 69年には、現在、世界遺産登録を目指している福岡県宗像市の沖ノ島(宗像大社沖津宮)の第3次学術調査を視察。宗像大社によると、その時に島の本殿横に槙(まき)の木を植えた。
 75年の歌会始では、「沖ノ島 森のしげみの 岩かげに 千歳ふりにし 神祭りのあと」と詠み、同年10月、百合子さまと共に宗像大社辺津宮(へつみや)を参拝。歌の直筆の石碑が、今も境内の神宝館付近に建てられており、宗像大社は毎年、宮中に献上するワカメを三笠宮家にも届けるなどした。
 74年11月に佐賀県唐津市で開かれた全国レクリエーション大会には、日本レクリエーション協会総裁として出席。その際、市内の唐津神社を参拝し、同神社の秋季例大祭「唐津くんち」も見学した。その時の情景を百合子さまは翌年の歌会始で詠み、77年には神社近くに歌碑も建立された。
 中近東文化センター総裁を務めていた89年4月には山口県下関市の美術館で市制100周年を記念して開催中のトルコ展を鑑賞。市内の景勝地、火の山も散策した。92年5月には長崎県佐世保市の「ハウステンボス」開業式典に出席し、テープカットした。【青木絵美、山下俊輔】

<三笠宮さまご逝去>冗談とユーモアで周囲なごませ
毎日新聞 10/27(木) 12:58配信

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天理大付属天理参考館を訪れた際の三笠宮さま(手前左)=奈良県天理市で2001年10月29日、最上聡撮影
 歴史の講義や公務で関西を訪れていた三笠宮崇仁さま。冗談とユーモアで周囲をなごませていたという。温かな人柄に接した関係者は思い出を振り返り、悼んだ。
 三笠宮さまは1960~90年、奈良県天理市の天理大で、集中講義「世界宗教史」の非常勤講師として十数回教壇に立った。2001年10月には、考古資料などを集めた天理大付属天理参考館の移築披露式典にも出席された。三笠宮さまが設立に尽力した日本オリエント学会理事の巽善信・同館学芸員(57)は「講演で三笠宮さまは『日本が敗戦した時、なぜこんな国になったのか、見つめ直したいと思った。中国について学ぶうち、オリエントにたどり着いた』と話していた。学会後の懇親会で自己紹介すると、若い私に『おお』と親しげに話しかけてくれた。威張った感じのない気さくな人だった」と振り返った。
 関西オリエント協会会長の打間(だま)奈津子さん(71)=神戸市中央区=は30年来、三笠宮さまと親交を結んできた。打間さんは「『動物園を見たことがない』と言うので、今はない阪神パークにお連れした。園内で非常に喜ばれていたことを覚えている」と振り返る。冗談が好きで、会う人の緊張をほぐそうと気を使われていた三笠宮さま。打間さんは「神戸を愛する三笠宮さまと、イスラム教やユダヤ教の寺院や教会を巡り、生田神社にも行った。思い出は尽きず、とてもつらい」としのんだ。
 三笠宮さまは2012年、96歳で心臓手術を受けられたが、執刀医を務めた関西医科大総合医療センター(大阪府守口市)の川副浩平特命教授は手術の翌年、13年に東京都内の宮邸で食事会に招かれた。その際、三笠宮さまが戦争中の話をされていたのが印象に残っているという。川副さんは「中国で上官に叱られた話や『フォークダンスを広めたのは自分だ』という話をされていた。食事後に宮邸を散歩したり、最後も立って見送ってくださったりしたので、術後の経過も問題ないと思っていた。100歳を超え、もっと長生きしてほしかった」と悼んだ。【矢追健介、栗田亨、米山淳】
 ◇「日本の行く末を見てほしかった」
 福井地震から50年の1998年6月28日、福井市で開かれた世界震災都市会議に合わせ、開催された犠牲者追悼式に、三笠宮さまも臨席され、福井市長だった酒井哲夫さん(82)が応対した。復興した震災当時の姿を残す市中心部の三井住友信託銀行福井支店を案内したが、震災直後に被災地を訪れ、市民を激励していた三笠宮さまは「よく復興した。立派な都市になった。よく頑張ってこられました」と当時を懐かしんだという。酒井さんは「いつも国民を思いやり、激動の時代だった日本を案じる方だった。もっと長生きされて、日本の行く末を見てほしかった。ご冥福をお祈りしたい」と話した。

三笠宮さま薨去 宮内庁会見(上)午前7時40分ごろにご容体急変 百合子さまが病室で看取られ
産経新聞 10/27(木) 12:44配信

 宮内庁は27日午前10時半すぎ、加地隆治宮務主管と名川弘一皇室医務主管が記者会見し、三笠宮さまが薨去されたことを正式に発表した。主なやり取りは以下の通り。
 加地氏「崇仁親王殿下には本日、午前8時34分、聖路加国際病院において薨去されました。謹んで哀悼の意を表する次第であります」
 名川氏「崇仁親王殿下におかれましては、急性肺炎のために5月16日に、ご入院となったわけでございますが、急性肺炎が一つの契機となりまして、ご年齢による心機能の低下が進行した状況になった状況であります」
 「聖路加国際病院の循環器内科、感染症科の医師を中心に懸命の治療が行われた結果、ここしばらくは安定されたご状況でしたけども、やはりご年齢からくる心機能の低下の進行に対してはいかんともしがたく、崇仁親王殿下におかれましては、本日午前8時34分に薨去されました」
 --三笠宮さまはいつごろまで会話ができ、意識はいつまでおありだったのか。容体急変までの経緯を教えてほしい
 名川氏「親王殿下におかれましては今朝の午前7時40分ごろまでは安定されたご状況にありました。7時40分すぎから心臓の拍動が徐々に遅くなるという、医学用語では『徐脈』という状況になり、8時前後ごろに心停止のご状況となられた。7時40分から徐々にということですが、これまでの経緯を見ますと急変と言えるかと存じます」
 --7時40分すぎに何かきっかけはあったのか
 名川氏「聞いていません」
 --意識はいつごろまでおありに
 名川氏「7時40分まで」
 --死因は
 名川氏「心不全でございます」
 --立ち会われていた方は
 名川氏「百合子妃殿下が薨去あそばされたときにおられたということでございます」
 --ご夫婦での最後の時間は
 名川氏「詳細なことは承知していません」
 --百合子さまは検査入院されていたと思うが、どういう形で伝わったのか
 名川氏「病院にいらっしゃったと認識しています。たまたまですけど、ご検査のためにご入院されていたという状況のときに、今回のことが起きて、百合子妃殿下にはすぐに状況が伝えられて、崇仁親王殿下がいらっしゃる病室にいらしたという風に認識しています」
 --最近は集中治療室にいらっしゃったのか
 「部屋の詳細は申し上げられないが、基本的にはどういうことでも対応できるようなお部屋に入院されていました」
 --百合子さまは昨日検査入院され、知らせがあったときはお休みになっていたのか
 名川氏「お休みかは存じ上げません」
 --心停止の後に蘇生措置は取られたのか
 名川氏「蘇生措置が取られたとは聞いておりません」
 --ご遺体はどれぐらいのお時間で宮邸に
 加地氏「その点についても詰めているというか、正式には決定に至っておりません」
 --薨去まで時間があったが、皇族方が駆けつけられたのか
 加地氏「それは承知していません」
 --5月に入院されてからのおおまかな流れを
 名川氏「5月16日から4週間ほどは、呼吸器の感染症ですので、急性肺炎に対して抗生物質を中心に治療が行われました。急性肺炎が徐々に軽快するに従って、ご年齢からくる心臓の働きの低下が明らかになり、治療の主体が呼吸器感染症から心機能の低下をいかにしたら元に戻せるかという心臓の治療に。その後、6月中旬から今日まで心機能低下に対しての治療が中心でした」
 --心機能の低下は病名とかがあったのか
 名川氏「基本的には慢性的な心不全ですから、病名を付けるとしたら慢性心不全ということになるのでしょうけど、今回発表になっているのは担当医が話している言葉としては『心不全』ということです。慢性的な心不全の状況ではおありになりました」
 --死亡診断書では慢性心不全
 名川氏「心不全」
 --ペースメーカーの治療もされていたと思うが、時期はいつから
 名川氏「一つ一つの処置、点滴はいつとか、ペースメーカーを入れたのはいつかとか、呼吸器のサポートはいつかとか、一つ一つの処置についてはたくさんございますし、医学的な詳細な事項になることもあるので…」
=(下)に続く

三笠宮さま薨去 激動の時代を生き抜かれ 歴史ご探求「学者肌」の一面も
産経新聞 10/27(木) 12:39配信

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三笠宮殿下(写真:産経新聞)
 大正天皇の第4皇男子で、27日に現皇室最高齢の100歳で薨去(こうきょ)された三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下。百合子妃殿下にみとられ、その生涯を閉じられた。戦前、戦中、戦後の混乱期と、激動の時代を生き抜き、高度経済成長やバブルの崩壊など、大きく移り変わるわが国の姿をつぶさに目撃してきた、まさに「歴史の生き証人」であられた。常に国民とともに歩む皇室であろうと願って公務に励まれた三笠宮さまの薨去を多くの国民が悼み、ご失意の百合子さまを気遣われる天皇、皇后両陛下も深く悲しまれている。
 三笠宮さまは、成人式の会場で若者たちにまじってダンスのステップを踏まれるなど、庶民的でフランクな人柄で知られた。旅行や登山、スケートなど趣味も幅広く、話題豊富な宮さまであられた。オリエント史の研究では皇族として初めて大学の教壇に立ち、テレビでも講義するなど「学者肌」の一面もあり、多彩な横顔をお持ちだった。
 幼少期についたニックネームは「童謡の宮さま」。
 〈月夜の空を雁飛びて 宮くん御殿でそれ見てる〉
 これは、6歳前後の頃に作詞した「月と雁」という童謡で、ほかにもいくつも作詞をされている。
 戦後は「学者皇族」の道を歩まれた。昭和22年に東京大学文学部の研究生となって歴史学の分野に進み、アジアの広い地域の歴史を学ぶオリエント史を研究され、「オリエントの宮さま」の名でも親しまれた。
 29年の日本オリエント学会創立を提唱し、会長にご就任。30年には皇族として初めて大学(東京女子大)の講師となり、東京芸術大、青山学院大などでも教壇に立ったほか、ラジオやテレビにもご出演。NHKの番組で古代史を講義するなど、学問を通じて若者を中心に多くの国民と交流を深められた。
 東京女子大への通勤はもっぱら国鉄(現JR)を利用された。学食では女子学生らと一緒に、しばしば1杯20円のきつねうどんを食べられ、メニューは「宮さまうどん」などと呼ばれるようになったという。
 公道で車の運転もされた。40年10月には東京・青山で、ブレーキを踏み外されてハイヤーに追突。3台の玉突き事故となり、警視庁赤坂署から道路交通法違反容疑などで書類送検されたこともある。これも皇族としては初のことだった。
 中近東文化センターと日本・トルコ協会では、ともに名誉総裁を務められてきた。同センターは54年、三笠宮さまのご発意により、古代中近東の研究機関として東京都三鷹市に創設され、トルコのカマン・カレホユック遺跡で発掘調査を進めてきた。
 三笠宮さまは、日本で開催される複数のトルコ関連の展覧会で総裁を務め、同国の奥の深い歴史を紹介するなど、両国の架け橋となられてきた。数年前までは日本・トルコ協会の年次総会にも毎年のように姿を見せ、平成23年6月には懇親会での乾杯の発声で、「トルコと日本は、古くからたいへん友好関係を保持しておりまして、それは世界に誇っていいところじゃないかと思います」とあいさつされている。
 さまざまな学術団体や催しに関わるなどしてきた活動が評価され、国際平和と日本・トルコ間の国際親善に貢献した人物にトルコ政府から贈られる「アタチュルク国際平和賞」を元年にご受賞。授賞の際には「日本のトルコ関係者が一生懸命やっており、その代表者として賞をいただいたと解釈している」と喜びの気持ちを語られた。
 16年3月には、東京都豊島区の学習院創立百周年記念会館で「古代アナトリア文明について」と題した特別講演を行い、青銅器の生産によってアナトリア(現在のトルコ)の文化が発展した歴史を語られた。翌月にも、NHKのラジオ番組に出演し、歴史を語られている。
 イラクやトルコの古代遺跡をはじめ、エジプト、メキシコなど文明発祥の地を訪ね、研究資料も精力的に収集された。研究成果は本や論文にまとめ、発表をされている。

「穏やかな方、残念」=青い車で自宅へ―入院先病院・三笠宮さま逝去
時事通信 10/27(木) 12:38配信

 三笠宮さまが亡くなられた27日、入院先の東京都中央区の聖路加国際病院には多くの報道陣が詰め掛け、通院患者らも「とても穏やかな方。残念です」などと、その死を悼んだ。
 三笠宮さまのご遺体を乗せた青い霊きゅう車は午前11時すぎ、同病院を出発。白バイに先導され、前後を黒塗りの車に挟まれて自宅のある赤坂御用地に向かった。病院で最期をみとった同妃百合子さまも、その約30分前に、硬い表情で車に乗り、病院を離れた。
 病院近くに住む上利子さん(61)は「ここに入院されているとは聞いていたが、亡くなられたのは残念です。テレビでお姿を拝見し、とても穏やかな方と感じていました」と悲しげ。同病院に通院する蛭川悦子さん(85)は「長生きされたとは思いますが、寂しいです。戦争を語れる方がだんだん少なくなってきて、昭和が歴史になってしまう気がします」と、しみじみと語った。
 赤坂御用地には弔問に訪れる人や車が次々と出入りし、慌ただしい雰囲気に包まれた。弔問を済ませたとみられる寛仁親王妃信子さまは、午後0時半ごろ、車で御用地を後に。窓を開け報道陣に黙礼したが、硬い表情は崩さなかった。

<三笠宮さまご逝去>ダンススポーツ発展に尽力
毎日新聞 10/27(木) 12:14配信

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スクエアダンス・パーティーに参加された三笠宮さま=1950年ごろ撮影
 三笠宮崇仁さまはダンスに明るく、1980年から日本アマチュアダンス協会(現・日本ダンススポーツ連盟)の総裁を務めた。81年に三笠宮杯10カップダンス選手権として創設された三笠宮杯全日本ダンススポーツ選手権(毎日新聞社特別後援)は国内最高峰の競技会として知られ、現在も大会名誉総裁を務めていた。
 日本ダンススポーツ連盟の内山雅允(まさみつ)事務局長は「三笠宮さまはフォークダンスなどダンス全般に造詣が深く、ダンスがお好きだった」といい、数年前まで大会の途中に会場を訪れて競技の様子に見入る姿があった。今月9日に開かれた第36回全日本選手権のセレモニーでは、三笠宮さまが妻の百合子さま(93)とともに散歩する最近の映像や、かつて大会に出席された際の写真などを会場に映し出したという。
 内山事務局長は「長年にわたり、ダンススポーツの発展にお力添えをいただいたことに感謝申し上げたい」と語った。【大谷津統一】

<三笠宮さまご逝去>飾らぬ素顔 カラオケやドラマ楽しむ
毎日新聞 10/27(木) 12:09配信

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3人のお孫さまに囲まれる三笠宮さま=長野県軽井沢町で2014年8月(宮内庁提供)
 三笠宮崇仁さまと40年以上の交流のある歴史学者の小林登志子さん(67)は「迎合せず、ご自身で確かめ、判断する方だった」と声を震わせていた。
 三笠宮さまは戦後、歴史学を研究し、紀元節を「建国記念日」として復活させようとする動きに反対の立場を取った。「皇族らしくない」と批判を受けたこともあるが、小林さんは「客観的に歴史的事実ではないという立場で反対されていたのであって、批判は的外れ」と話す。小林さんは三笠宮さまが神社の前を通りかかる時、鳥居の前で拝礼していた姿を思い出す。「皇室の祭祀(さいし)を大切にされていた」と話す。
 小林さんは三笠宮さまが会長を務めた日本オリエント学会の事務局に勤め、三笠宮さまの著書の校正を担当した。たびたび宮邸を訪れるなど「素顔」を知る一人だ。小林さんによると、三笠宮さまは演歌が好きで、石川さゆりさんのファンだったという。親しい仲間が集まった時のカラオケで、村田英雄さんの「王将」を歌ったこともあったという。
 百合子さまとの仲むつまじい姿もよく見かけた。2015年春に宮邸を訪ねた際、好きなテレビ番組を尋ねると、ご夫妻が刑事ドラマの「相棒」と答えたという。
 小林さんは、今年3月にも宮邸を訪れた。兄である昭和天皇から戦時中に贈られた馬のことが話題になると、三笠宮さまは「陛下からいただいた馬だから大切に乗っていた」と話していたという。【高島博之】

三笠宮さま薨去 自民・小此木八郎国対委員長代理「ご冥福をお祈りする」
産経新聞 10/27(木) 12:06配信

 自民党の小此木八郎国対委員長代理は27日午前の記者会見で、三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が薨去(こうきょ)されたことに関し「急な知らせだった。ご冥福をお祈りする」と述べた。
 同日朝の党国対幹部会議では出席者全員で黙祷(もくとう)をささげ、弔意を表した。

<三笠宮さまご逝去>平和願い歴史探究 最後の皇族将校
毎日新聞 10/27(木) 12:05配信

 昭和天皇の末弟、三笠宮崇仁(たかひと)さまが27日、100歳の生涯を閉じられた。日本軍将校として太平洋戦争に関わったことのある最後の皇族だった。その体験をもとに、戦後は折に触れて平和の存続を願う思いを表現した。学問を通じて若者と交流したり、テレビやラジオに出演したりして親しまれた。【高島博之】
 「若杉参謀」。1943(昭和18)年1月から1年間、中国・南京の派遣軍総司令部に勤務した頃の三笠宮さまの呼び名だ。皇族であることを隠すために「お印」の若杉から付けられた偽名だった。当時、軍内部で聞いた話として、捕虜を銃剣で突くことや、毒ガスを使った生体実験を日本軍がしていたことを著書に記している。「『聖戦』のかげに、じつはこんなことがあった」とショックを覚えたことをつづっていた。
 また、終戦を迎えた時の気持ちを、著書の中で「わたくしは、それまでの不自然きわまる皇室制度--もしも率直に言わしていただけるなら、『格子なき牢獄(ろうごく)』--から解放されたのである」と記した。
 戦後、歴史研究の道に進んだ理由については「過去のあらゆるものに失望し、信頼をなくしていたわたくしは、すべてを新しいもののなかから探しもとめねばならなかった」「わたくしは、当時心に抱いていた疑問を、歴史の研究によって解こうといちずに思いつめたのである」と明かしていた。
 天皇の神格化に関係する祝日として48年に廃止された2月11日の祝日「紀元節」を復活させることに反対した。57年に建国記念日として復活させる法案が議員立法で国会に提出されたが、同年11月13日付の毎日新聞は、三笠宮さまが紀元節復活について「この問題は純粋科学に属することであり、右翼、左翼のイデオロギーとは別である」と歴史学者の立場で発言したことを伝えている。「建国記念の日」を設ける改正祝日法は66年に国会で成立し、67年から適用された。
 飾らない人柄が人々から親しまれた。東京女子大で講師を務めた際には、食堂で学生らと一緒に食事をしたり、フォークダンスを楽しんだりした。テレビやラジオの番組で、専門の古代オリエント史について語ったこともあった。
 歴史研究や公務を支え続けたのは41年に結婚した百合子さま(93)だった。東大の研究生となった三笠宮さまが公務で授業に出られなかった際には、友人のノートを百合子さまが写したという。
 2015年12月2日に100歳となられた感想を「これまでと何ら変わることはありません。世界中の人々の幸せを願い、また、70年以上にもわたり私を支えてくれている妻百合子に感謝しつつ、楽しく穏やかな日々を過ごしていきたいと思います」と公表した。

三笠宮崇仁殿下ご薨去

昭和天皇の末弟で、天皇陛下の叔父にあたられる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)殿下が27日午前8時34分、心不全のため、入院先の東京都中央区の聖路加国際病院でご薨去(こうきょ)された。100歳だった。
笠宮崇仁殿下は皇位継承順位は第5位で、明治以降の皇族では最高齢。
本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は文京区の豊島岡墓地で営まれる。宮内庁は現在、日取りなどの検討を行なっている。
謹んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈り申し上げます。
リンク:ご遺体を乗せた車を見送る人たち - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ご遺体を乗せたとみられる車 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:「心から哀悼の意」…安倍首相が謹話 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<訃報>三笠宮さま逝去100歳=天皇陛下の叔父 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 宮内庁が午前10時半すぎに発表 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>皇位継承資格者、4人に減少 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 安倍首相が謹話「哀惜に堪えない」 官房長官、有識者会議は「公務の負担軽減に絞って議論」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去 安倍晋三首相の謹話「一層の御長寿を願っておりました」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:フォークダンスを踊られる三笠宮さま - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:ご家族で記念撮影される三笠宮さま - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:展覧会を鑑賞される三笠宮さま - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:孫に囲まれる三笠宮さま - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:散策される三笠宮ご夫妻 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:退院される三笠宮さま - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<訃報>三笠宮さま逝去100歳=天皇陛下の叔父 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:手を振られる三笠宮ご夫妻 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:葬儀に向かわれる三笠宮ご夫妻 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:晩さん会でお礼を述べられる三笠宮さま - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<三笠宮さまご逝去>安倍首相「悲しみの念に堪えません」 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<訃報>三笠宮さま逝去100歳=天皇陛下の叔父 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さまとお兄さま方 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:講義される三笠宮さま - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま逝去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:「悲しみの念に堪えぬ」=三笠宮さま逝去で首相謹話―与党幹部も哀悼 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま ご逝去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:生前退位容認の意見=皇室典範制定時に―三笠宮さま - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま逝去 戦後は古代オリエント史を研究 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:余暇活動の普及にも尽力=スケートフォークダンス発案―ゆかりの人、三笠宮さま悼む - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:オリエント史研究に情熱=戦争、皇室批判も―激動の一世紀歩む・三笠宮さま - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:皇位継承者は4人に=三笠宮さま逝去 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さまがご逝去…100歳、昭和天皇の末弟 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:<訃報>三笠宮さまご逝去100歳=天皇陛下の叔父 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま薨去される 天皇陛下の叔父、100歳 - 速報:Yahoo!ニュース.
リンク:三笠宮さま逝去=100歳、昭和天皇末弟―歴史学者として活躍 - 速報:Yahoo!ニュース.
以下、参考のために同記事を引用
ご遺体を乗せた車を見送る人たち
時事通信 10/27(木) 12:03配信
829
三笠宮さまのご遺体を乗せたとみられる車を見送る人たち(写真の一部を画像処理しています)=27日午前11時5分、東京都中央区の聖路加国際病院
(時事通信社)

ご遺体を乗せたとみられる車
時事通信 10/27(木) 12:03配信
828
聖路加国際病院を出る三笠宮さまのご遺体を乗せたとみられる車(写真の一部を画像処理しています)=27日午前11時4分、東京都中央区
(時事通信社)

「心から哀悼の意」…安倍首相が謹話
読売新聞 10/27(木) 11:59配信

 安倍首相は27日、三笠宮さまの逝去について、「国民と共に謹んで心から哀悼の意を表します」との謹話を発表した。
 謹話は、「国の平和と国民の福祉のために貢献してこられました。国際親善やスポーツ、レクリエーション、芸術、文化、医療、福祉など幅広い分野にわたり、皇族として、重要な役割を果たされるなど、国民と親しく接せられました」と功績をたたえた。
 昨年、百寿(100歳)を迎えられたことにも触れ、「国民は、殿下の一層のご長寿を願っていましたところ、思いもむなしく薨去(こうきょ)されましたことは誠に哀惜に堪えません」とした。

<訃報>三笠宮さま逝去100歳=天皇陛下の叔父
毎日新聞 10/27(木) 11:55配信
827
3人のお孫さまに囲まれる三笠宮さま=長野県軽井沢町で2014年8月、宮内庁提供

三笠宮さま薨去 宮内庁が午前10時半すぎに発表
産経新聞 10/27(木) 11:33配信

 大正天皇の第4皇男子で、天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が27日午前8時34分、心不全のため、東京都中央区の聖路加国際病院で薨去(こうきょ)された。100歳で、皇位継承順位は第5位であられた。戦時中は陸軍の軍人、戦後は古代オリエント史の研究者として活躍された。本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」は約1週間後に東京都文京区の豊島岡(としまがおか)墓地で執り行われるとみられる。薨去により、皇室は19方、皇位継承資格者は4方となった。
 宮内庁は27日午前10時半すぎから、加地隆治宮務主管と名川弘一皇室医務主管が記者会見し、三笠宮さまの薨去を発表した。
 昨年12月に明治以降の皇族では初めて100歳を迎え、ご存命の中で唯一の大正生まれの男性皇族でもあられた。
 昭和天皇、秩父宮、高松宮の弟にあたられ、幼少期の称号は澄宮(すみのみや)。学習院初・中等科、陸軍士官学校を卒業後、陸軍騎兵学校、陸軍大学校へと進み、先の大戦中の昭和18年、お印の「若杉」から「若杉参謀」と名乗り、支那派遣軍参謀として南京に赴かれた。19年には大本営参謀となり、終戦時は陸軍少佐であられた。
 16年10月に高木正得(まさなり)子爵の次女、百合子さまと結婚し、寛仁親王殿下、桂宮宜仁親王殿下、高円宮憲仁親王殿下、●(=ウかんむりの下に心、その下に用)子(やすこ)さん(近衛忠●(=火へんに軍)夫人)、容子(まさこ)さん(千宗室夫人)の3男2女をもうけたが、平成14年に高円宮さま、24年に寛仁さま、26年に桂宮さまを相次いで亡くされた。
 戦後は東京大学文学部の研究生となり、歴史学者の道を歩まれた。メソポタミア地方(イラク)の学術探検、トルコの古代遺跡視察のほか、友好親善や葬儀参列のため、北欧や東南アジアなども訪問し、戦後の皇室による国際親善に大きな足跡を残された。
 90歳を過ぎると体調を崩しがちになり、20年6月に急性心不全との診断を受けてご入院。21年と23年にも軽い心不全で入院された。寛仁さまが薨去された直後の24年7月には、心臓の僧帽(そうぼう)弁が十分に機能しないために血液が逆流する鬱血性心不全と診断されて96歳で手術を受けられた。
 手術後は公の場に出る機会が減ったが、27年12月2日に100歳となり、28年1月2日には、皇居で行われた新年一般参賀で元気な姿を見せられた。しかし、5月16日に急性肺炎で同病院に入院後、心機能の低下が確認され、ご入院は約5カ月に及んでいた。
 最近は容体が安定していたが、27日午前7時40分ごろに容体が急変して同8時ごろに心停止となり、百合子さまが付き添われる中で息を引き取られたという。

<三笠宮さまご逝去>皇位継承資格者、4人に減少
毎日新聞 10月27日(木)11時23分配信

826
皇室の構成
 皇位継承順位5位だった三笠宮崇仁さまが亡くなったことに伴い、継承資格者は4人に減少した。今後の順位は(1)皇太子さま(2)秋篠宮さま(3)秋篠宮ご夫妻の長男悠仁さま(4)常陸宮さま--となる。天皇陛下と皇族からなる皇室も19人に減った。
 これに関連し、菅義偉官房長官は27日午前の記者会見で「皇室の減少に今後どのように対応するかは内閣官房皇室典範改正準備室でこれまでの議論を十分検証するなど、政府内で検討している」と説明した。天皇陛下の生前退位に関する安倍晋三首相の私的諮問機関「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」で皇室減少を検討対象に加えることは「ない」と否定した。
 有識者会議は27日午後、第2回会合を開催する。【田中裕之】

三笠宮さま薨去 安倍首相が謹話「哀惜に堪えない」 官房長官、有識者会議は「公務の負担軽減に絞って議論」
産経新聞 10月27日(木)11時16分配信

 安倍晋三首相は27日午前、三笠宮崇仁親王殿下が薨去(こうきょ)されたことを受け、「国民は、殿下の一層の御長寿を願っておりましたところ、思いもむなしく薨去されましたことは、誠に哀惜に堪えません」との謹話を発表した。
 三笠宮さまの薨去により皇位継承資格者は4方となった。
 菅義偉官房長官は27日午前の記者会見で、首相の私的諮問機関「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」で皇位の安定継承に関する議論を行うかを問われ、「天皇陛下の公務の負担軽減に絞って議論をいただく」と述べた。その上で「皇室の減少に今後どのように対応するかは、内閣官房皇室典範改正準備室でこれまでの議論の経緯を十分検証するなど、政府部内で検討を行っている」と説明した。

三笠宮さま薨去 安倍晋三首相の謹話「一層の御長寿を願っておりました」
産経新聞 10月27日(木)10時56分配信

 安倍晋三首相は27日、三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下の薨去を受け、総理大臣謹話を発表した。謹話全文は以下の通り。
     ◇
 三笠宮崇仁親王殿下の御訃報に接し、悲しみの念に堪えません。
 殿下には、大正天皇の御四男としてお生まれになり、昭和時代からの長きにわたり、御兄君昭和天皇及び今上陛下を助けられ、国の平和と国民の福祉のために貢献してこられました。殊に国際親善やスポーツ、レクリエーション、芸術、文化、医療、福祉等幅広い分野にわたり、皇族として、重要な役割を果たされ、各種の記念式典や大会に御臨席の際には関係者を励まされるなど、国民と親しく接せられました。
 また、殿下は、古代オリエント史の研究者としても著名であられました。
 殿下は、お年を召されてからは、静かな日々をお健やかにお過ごしになり、昨年には、百寿をお迎えになりました。国民は、殿下の一層の御長寿を願っておりましたところ、思いもむなしく薨去されましたことは、誠に哀惜に堪えません。
 皇室を始め御近親の方々の深いお悲しみを拝察申し上げ、ここに、国民と共に慎んで心から哀悼の意を表します。

フォークダンスを踊られる三笠宮さま
時事通信 10月27日(木)10時43分配信
825
未来の東北博が協賛した「フォークダンス市民のつどい」に参加し、フォークダンスを踊られる三笠宮さま。左は同妃百合子さま=1987年7月、仙台市の同市体育館(日本フォークダンス連盟提供)
(時事通信社)

ご家族で記念撮影される三笠宮さま
時事通信 10月27日(木)10時43分配信
824
大正天皇の皇后、貞明皇后が秩父宮邸(当時)を訪問し、ご家族で記念撮影。前列左から秩父宮妃勢津子さま、貞明皇后、高松宮妃喜久子さま、後列左から秩父宮さま、高松宮さま、三笠宮さま=1939年10月撮影

展覧会を鑑賞される三笠宮さま
時事通信 10月27日(木)10時43分配信
823
展覧会「幻の室内装飾―明治宮殿の再現を試みる」を笑顔で鑑賞される三笠宮さま=2011年10月撮影、皇居・三の丸尚蔵館

孫に囲まれる三笠宮さま
時事通信 10月27日(木)10時37分配信
822
孫に囲まれ記念撮影される三笠宮さま。左は高円宮家の長女承子さま、右は次女の千家典子さん、奥は三女絢子さま=2014年8月、長野県軽井沢町(宮内庁提供)

散策される三笠宮ご夫妻
時事通信 10月27日(木)10時37分配信
821
赤坂御用地を散策される三笠宮ご夫妻。三笠宮さまは2015年12月2日に100歳を迎えた=15年11月16日、東京・元赤坂(宮内庁提供)

退院される三笠宮さま
時事通信 10月27日(木)10時37分配信
820
心臓手術を受け、妻の百合子さまに付き添われ笑顔で退院される三笠宮さま=2012年8月撮影、東京都中央区の聖路加国際病院

<訃報>三笠宮さま逝去100歳=天皇陛下の叔父
毎日新聞 10月27日(木)10時33分配信
819
百合子さまとご結婚=1941年10月22日

手を振られる三笠宮ご夫妻
時事通信 10月27日(木)10時33分配信
818
新年一般参賀で手を振られる三笠宮ご夫妻=2013年1月撮影、皇居

葬儀に向かわれる三笠宮ご夫妻
時事通信 10月27日(木)10時33分配信
817
47歳で急逝した三男高円宮さまの本葬「斂葬(れんそう)の儀」に向かわれる三笠宮ご夫妻=2002年11月撮影、東京都文京区の豊島岡墓地

晩さん会でお礼を述べられる三笠宮さま
時事通信 10月27日(木)10時33分配信
816
高円宮ご夫妻の結婚を祝う晩さん会で、出席者にお礼を述べられる三笠宮さま(左端)=1984年12月撮影、東京都港区
(時事通信社)

<三笠宮さまご逝去>安倍首相「悲しみの念に堪えません」
毎日新聞 10月27日(木)10時31分配信

 安倍晋三首相は27日午前、三笠宮崇仁さまの逝去を受け、「悲しみの念に堪えません。昭和時代からの長きにわたり、昭和天皇及び天皇陛下を助けられ、国の平和と国民の福祉のために貢献してこられました。国民と共に謹んで心から哀悼の意を表します」との謹話を発表した。【田中裕之】

<訃報>三笠宮さま逝去100歳=天皇陛下の叔父
毎日新聞 10月27日(木)10時30分配信
815
赤坂御用地を散策される三笠宮ご夫妻=東京都港区で2015年11月16日、宮内庁提供

三笠宮さまとお兄さま方
時事通信 10月27日(木)10時26分配信
814
昭和天皇(当時皇太子)が欧州訪問から帰国し、兄弟4人そろって記念撮影。左から昭和天皇、三笠宮さま、高松宮さま、秩父宮さま=1921年9月撮影、栃木県の日光田母沢御用邸

講義される三笠宮さま
時事通信 10月27日(木)10時26分配信
813
東京芸術大美術学部の客員教授として「古代オリエント美術史」の特別講義をされる三笠宮さま=1985年12月撮影、東京都台東区

三笠宮さま逝去
時事通信 10月27日(木)10時21分配信
809
昭和天皇の末弟、天皇陛下の叔父で、古代オリエント史の研究者としても知られる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)さまが27日午前8時34分、入院先の都内の病院で亡くなられた。100歳だった。

「悲しみの念に堪えぬ」=三笠宮さま逝去で首相謹話―与党幹部も哀悼
時事通信 10月27日(木)10時18分配信

 安倍晋三首相は27日午前、三笠宮崇仁さまの逝去について「悲しみの念に堪えません。国民と共に慎んで心から哀悼の意を表します」との謹話を発表した。
 
 謹話は「幅広い分野にわたり、皇族として、重要な役割を果たされ、各種の記念式典や大会にご臨席の際には、国民と親しく接せられました。国民は、殿下の一層のご長寿を願っておりましたところ、思いもむなしく薨去(こうきょ)されましたことは、誠に哀惜に堪えません」としている。
 自民党の二階俊博幹事長は「国民とできるだけ近い距離で接触され、皇室としての責任を大いに果たしていただいた。ご冥福を心からお祈り申し上げる」と悼んだ。東京都内で記者団に語った。
 公明党の山口那津男代表も、党会合のあいさつで、「戦後の平和で安定した社会へ、国民のために数々の功績を重ねられた。深く敬意を表したい」と述べた。

三笠宮さま ご逝去
ねとらぼ 10月27日(木)10時4分配信

 天皇陛下の叔父で昭和天皇の弟である三笠宮さまが亡くなりました。100歳でした。
 三笠宮さまは5月16日から急性肺炎により都内の病院に入院されていました。NHKなどの報道によると治療で症状は改善されましたが、心臓の働きの低下や新たに誤えん性の肺炎を発症するなどして、病室と集中治療室とを行き来されていたそうです。
 三笠宮さまは大正4年(1915年)に大正天皇の四男として誕生されました。戦後は東京大学文学部の研究生となり、歴史研究者の道を選択。2015年12月2日には明治以降の皇族ではじめて紀寿(満100歳)を迎えていました。1月の新年の一般参賀では元気な姿を見せていました。

生前退位容認の意見=皇室典範制定時に―三笠宮さま
時事通信 10月27日(木)9時52分配信

 今年に入り表面化した天皇陛下の「生前退位」をめぐる問題。
 三笠宮さまは70年前の皇室典範制定時に、皇族の立場から天皇の生前退位を容認する意見を発表されていた(表記は原文通り)。
 1946年11月、政府は皇室典範改正案を衆議院に提出。三笠宮さまの意見は同12月に新聞に掲載され、「(政府の)説明をきいて釈然とした点もあるが、それでもなお、ふにおちない点もある」として、譲位の問題や皇族の婚姻の自由などについて持論を展開した。
 三笠宮さまは明治期制定の旧典範と同様、天皇の生前退位を認めない点について「自由意志による譲位を認めていない、つまり天皇は死なれなければその地位を去ることができないわけだが、たとえ百年に一度ぐらいとしても真にやむをえない事情が起きることを予想すれば必要最小限の基本的人権としての譲位を考えた方がよいと思っている」と異議を唱えた。
 2003年には、日本国憲法が公布された46年11月3日付で三笠宮さまがまとめた私案「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」の存在が明らかになった。その中で三笠宮さまは「『死』以外に譲位の道を開かないことは新憲法第十八條の『何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない』といふ精神に反しはしないか?」と疑問を呈した。
 しかし、三笠宮さまの意見は反映されず、衆議院と貴族院は46年12月、皇室典範改正案を原案通り可決。皇室典範は47年1月に公布、5月に施行された。

三笠宮さま逝去 戦後は古代オリエント史を研究
J-CASTニュース 10月27日(木)9時51分配信

 昭和天皇の末弟で皇族最高齢の三笠宮崇仁(たかひと)さまが2016年10月27日朝、亡くなられた。100歳だった。5月に急性肺炎と診断され、入院されていた。
 戦前は大本営参謀などを務めた陸軍軍人。戦後は古代オリエント史の研究家で、「宮さま学者」として国際的に活躍した。しばしば「戦争の反省」を語り、戦後民主主義の洗礼をいち早く受けた「民主的な皇族」としても知られた。
■終戦直前、息詰まる攻防があった
 1915年、大正天皇と貞明皇后の第4皇男子として生まれた。長兄の昭和天皇とは14歳、秩父宮や高松宮とも10歳以上の年齢差があった。皇族身分令で、皇族男子は原則として陸軍または海軍の武官になることが定められていたので、学習院を経て陸軍士官学校に進む。1936年から39年にかけて千葉県習志野にあった騎兵第十五連隊に勤務。
 43年1月には支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に。44年1月に帰還し、大本営参謀。このころ一部若手将校らが東条英機首相暗殺を計画、その動きを知った三笠宮さまは「いかに東条氏の施策に欠陥があるにせよ、天皇が首相、もしくは陸相に親任したわけだから、抹殺は天皇に対する反抗」と考えて憲兵隊に伝え、事件は未遂に終わった。
 45年5月25日の大空襲で赤坂の住居は全焼。以後、コンクリート製の防空壕で暮らす。終戦直前、息詰まる攻防があったことが明らかになっている。なお戦争継続を主張する陸軍は、同じ陸軍の軍籍を持つ三笠宮さまに最後の期待をかけた。8月12日、徹底抗戦派の参謀が門前で待ちかまえ、皇室会議に出かける三笠宮さまを説得しようとするが、「天皇の意図は和平にある」と断固拒否。13日夜には、阿南惟幾陸相自身も三笠宮宅を訪れ、天皇に御翻意をお願いしていただきたいと訴えた。しかし、三笠宮さまは強く叱責。
 陸相秘書官の手記によると、「会談の後(阿南陸相)は、…自動車が走り出しても、しばらくは無言であった。官邸に着く少し前になって漸く『三笠宮から陸軍は満洲事変いらい大御心(天皇のお考え)にそわない行動ばかりしてきたとお叱りをうけたが、そんなにひどいことを仰せられなくてもよいのに』とただそれだけを低い声で語った。…ひどくこたえたようであった」。
 阿南陸相は15日に自決。三笠宮さまはのちに「感無量なるものがあった」と回想している。
満員電車で東大に通う
 終戦時、三笠宮さまは29歳。耐乏生活が続いたが、一転、学究の道を目指す。きっかけは中国赴任中に感じていた疑問だ。白人の宣教師はなぜ人里離れた山奥に1人とどまり、中国人を相手に神の愛を説くのか。あるいは八路軍(中共軍)はなぜ自給自足で日本軍に抵抗し、民衆、特に婦女子にたいする軍紀は厳粛に保たれているのか。
 人間の情熱を駆り立てる根本的な要因を探求してみたいと考え、東大文学部の研究生に。まずヨーロッパの宗教改革の勉強から始めた。さらに原始キリスト教、ヘブライ史、オリエント史へとさかのぼる。旧約聖書はヘブライ語で読み、英語は駐日カナダ代表部の首席ハーバード・ノーマン氏に、フランス語はフランス文学の泰斗、渡辺一夫氏に教わった。
 当時の心境について、「過去のあらゆるものに失望し、信頼をなくしていた私は、何から何まですべてを新しいものの中から探しもとめねばならなかった」と語っている。
 住んでいた目黒から、満員電車やバスに乗って東大へ。時にはダットサンの自家用小型トラックを自分で運転して通った。お弁当持参。皇族としての公務もあり、授業に出席できない時は友人にノートを借り、夜のうちに百合子妃に写してもらった。難解な専門用語だらけ。「それは教室で筆記するより大変だったろう」と、結婚70周年の所感で妻への感謝をつづっている。
紀元節復活に反対の立場
 戦後の三笠宮さまは、早い時期にリベラルなスタンスに変わっていたようだ。近年明らかになった資料では、新憲法案を採決した46(昭和21)年6月8日の枢密院本会議で、新憲法案の戦争放棄を積極的に支持。日本の非武装中立を主張していた。ただし、新憲法案については、「どうしてもマッカーサー元帥の憲法という印象を受ける。反対もできないが、賛成も良心がゆるさない」とも述べ、採決では棄権した。
 60年ごろ、紀元節復活の動きが強まった時は、歴史学者として「反対」の立場。保守の重鎮・大野伴睦氏のところを突然訪れ、「2月11日というのは科学的根拠がない。国家権力で祝日とするのは間違い」と自ら説明し、「紀元節万歳」の大野氏の翻意を促したこともある。大野氏と親しく、実際にその様子を目撃した読売新聞記者・渡辺恒雄氏は「三笠宮殿下は非常に民主的な人」と記している。
 84年に出版した『古代オリエント史と私』(学生社)には「戦争への反省」があちこちに出てくる。騎兵第十五連隊の教官時代、「日本軍による戦争は正義のいくさである」と部下に訓示していたが、「今もなお良心の呵責にたえない」「戦争の罪悪性を十分に認識していなかった」。南京の総司令部に勤務したときは、肝試しに「生きた捕虜を銃剣で突き刺す」などの日本軍の残虐行為を知らされたほか、多数の中国人捕虜を満洲の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられ、「『聖戦』のかげに、実はこんなことがあったのでした」と記す。
 あるとき、日本軍の戦利品の中に「勝利行進曲」という映画があった。重慶政府(蒋介石の中華民国政府)制作。日本軍の残虐行為をテーマにした宣伝映画だが、「シナリオは事実をもとにして書かれたとしか思えませんでした」。東京への出張を命じられたとき、この映画を携行し、大元帥陛下にもお見せしたという。
 実際、南京から離任するときには現地の将校たちに講話。日中戦争が解決しない理由を「日本陸軍軍人の『内省』『自粛』の欠如と断ずる」と厳しく批判、中国内の抗日活動について「抗日ならしめた責任は日本が負わなければならない」と分析していたことが、近年発掘された文書資料で明らかになっている。
 この文書は当時、回収されたといわれるが、陸軍内部ばかりでなく日本の上層部にも回覧され、非常に大きな衝撃を与えたという。
 2000年6月、日中友好に力を注いだ画家、平山郁夫さんの古稀の会でも、「戦時中、中国での日本軍の残虐行為を間近にして、身の縮む思いをしました。そのことを昭和天皇に報告した」と語っていた。
東京女子大に「宮さまうどん」
 気さくな人柄で知られ、自然体で多くの人と付き合い、ファンが多かった。東京女子大で教えていた時は、学内食堂で「きつねうどん」をよく食べていた。「宮さまうどん」と呼ばれた。フォークダンスが大好きで女子学生たちと踊ることもあった。
 研究者として、何度も中東を訪れ、ヘルメット姿で発掘作業に関わった。『古代エジプトの神々-その誕生と発展』(日本放送出版協会、88年)、『文明のあけぼの - 古代オリエントの世界』(集英社、02年)、『わが歴史研究の七十年』(学生社、08年)など多数の著書や翻訳書、監修本を残した。日本オリエント学会の会長や、東京都三鷹市に設立された中近東文化センターの総裁も務めた。
 近年は最長老皇族の立場だった。ご夫妻には男性3人、女性2人のお子さま方がいたが、三男高円宮憲仁さまは02年11月に急逝。長男寛仁さまは12年6月に、次男の桂宮宜仁さまは14年6月に亡くなっている。男系の男孫はいなかった。長女の甯子さまは日本赤十字社社長近衛忠煇夫人、次女の容子さまは 裏千家家元千宗室夫人。
 寛仁さまの長女、彬子さまは日本美術史を専攻し、オックスフォード大で博士号を取得、研究者の道に進んだ。三笠宮さまの衣鉢を継いで中近東文化センター総裁や日本・トルコ協会総裁を務めている。

余暇活動の普及にも尽力=スケートフォークダンス発案―ゆかりの人、三笠宮さま悼む
時事通信 10月27日(木)9時49分配信

 三笠宮さまは、戦後の日本を平和で文化的な国にするためには、フォークダンスなどのレクリエーションやスポーツが大切と考え、関係団体の総裁職などに就き、発展に尽くされた。
 フォークダンスとスケートを組み合わせた「スケートフォークダンス」も発案。ゆかりの人々から逝去を悼む声が相次いだ。
 「真面目だが、気さくでユーモアもあり、皇族として特別扱いされるのを嫌がられた。エレベーターでも必ず女性から先に乗せていただき、温厚で気配りの細やかな方だった」。フィギュアスケートインストラクターの金子恵以子さん(74)=東京都文京区=は半世紀にわたる交流を振り返った。
 金子さんが日本体育大4年に在学中、「フォークダンスとスケートを組み合わせてはどうか」と三笠宮さまが栗本義彦・同大学長(故人)に発案。これを機に、金子さんは日本で初めてスケートフォークダンスを始めた。
 約40年前、三笠宮さまが運転する車で都内のすし店を2人で訪れた。周囲の車の流れは速かったが、三笠宮さまは「立場上規則を破れないから」と制限速度を守り、一番左の車線を走っていたのが印象に残っている。
 三笠宮さまは70歳になり、医師の忠告に従ってスケートをやめた。しかしその後も年1回の講習会に参加。会終了後の打ち上げの場で、どじょうすくい踊りを出席者と一緒に輪になって踊ったこともあったという。
 「品川区フォークダンス協会」会長の高須みちよさん(78)=東京都品川区=は「いつもにこやかに、私たちと手を組んで楽しく踊ってくださった。いつまでもお元気でいてほしかった」と残念がった。
 1950年の創立当時、三笠宮邸が品川区にあったのが縁で、同年12月の創立大会には三笠宮ご夫妻が出席。三笠宮さまはその後、90歳を迎えるまで、毎年12月の定期大会に5年の節目ごとに出席し、会員とフォークダンスを踊った。
 高須さんは「どんなにお忙しくても『品川だけは特別ですよ』と言って来ていただいたのが、私たちの心の支えだった」と悼んだ。

オリエント史研究に情熱=戦争、皇室批判も―激動の一世紀歩む・三笠宮さま
時事通信 10月27日(木)9時47分配信

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東京芸術大美術学部の客員教授として「古代オリエント美術史」の特別講義をされる三笠宮さま=1985年12月撮影、東京都台東区
 亡くなられた三笠宮さまは終戦まで軍人生活を送り、戦後は古代オリエント史研究に情熱を傾け、「オリエントの宮さま」と呼ばれた。
 戦時中の体験から戦争批判を繰り広げ、歴史学者の立場から紀元節復活に反対。時に大胆な発言が波紋を呼んだが、暗い時代に戻るまいとの強い決意の表れでもあった。
 ◇聖戦の裏側で
 第1次世界大戦中の1915年12月生まれ。幼少時に童謡を作詞し、「童謡の宮さま」と呼ばれた。陸軍大学校を卒業した41年12月、太平洋戦争が始まった。意気盛んな青年将校だった三笠宮さまに、戦争に対する決定的な疑問を抱かせたのは、支那派遣軍総司令部参謀として赴いた戦地の中国・南京で見聞きした日本軍の残虐行為だった。
 44年1月、三笠宮さまが陸軍を批判した文書は50年後の94年7月に見つかった。自身の「お印(しるし)」にちなんだ秘匿名「若杉参謀」の名で書かれ、「支那事変に対する日本人としての内省」と題し、「現在日本人、特に軍人に欠如しているものは『内省』と『謙譲』」と述べ、軍部に猛省を迫った。
 日本軍の残虐行為をテーマにした映画を日本に持ち帰り、昭和天皇に見せたこともあった。「聖戦という大義名分が、事実とはおよそ懸け離れたものであった」「聖戦に対する信念を完全に喪失した私としては、求めるものはただ和平のみとなった」。著書に付した「わが思い出の記」で当時の苦悩を吐露している。
 終戦の年の45年5月、宮邸は空襲で全焼。妻の百合子さま、1歳だった長女の近衛※子さん(※ウカンムリの下に心その下に用)と共に、コンクリート製の防空室で生活した。終戦直前には、後ろ盾を期待する抗戦派陸軍幹部からの働き掛けを断固として拒み、陸軍に反省を促したとされる。
 ◇「菊のカーテン」
 戦後、東大文学部の研究生となり、古代オリエント史研究者の道を歩み、「学者皇族」として活躍。テレビやラジオ、雑誌などにもたびたび登場した。憲法9条について「戦争放棄は大変いいと思いました」と述べ、紀元節復活の動きには「歴史学的、考古学的な裏付けがない」と反対。時に踏み込んだ見解を示し、保守派勢力から「赤い宮さま」とやゆされたこともあった。
 太平洋戦争以前の皇室制度を「格子なき牢獄(ろうごく)」と著書で表現。皇室の閉鎖性を、東西冷戦時代の「鉄のカーテン」になぞらえ、「菊のカーテン」と表現した。「皇室を尊厳の対象にしようとすると、また昔の状態に向かう恐れがあるのではないでしょうか」と雑誌の対談で述べたこともあった。
 研究では、宮内庁書陵部内に三笠宮研究室を開設する一方、東京女子大などの教壇に立った。同大の食堂で学生と語らい、いつも注文する1杯20円のきつねうどんは「宮さまうどん」と呼ばれた。
 ◇内助の功に感謝
 2008年に「わが歴史研究の七十年」を「総括の意味」で出版。「古代史はこれからつくられるのです」と、若い研究者への思いを記し、研究への情熱は晩年も衰えなかった。
 「顧みれば、70年間、陰になり日なたになり私を助けてくれたのは、何といっても妻百合子であった」「今静かに過去の70年を振り返ってみるとき、百合子に対して感謝の言葉も見付からないほどである」(11年10月、結婚70年の所感)
 「世界中の人々の幸せを願い、70年以上にもわたり私を支えてくれている妻百合子に感謝しつつ、楽しく穏やかな日々を過ごしていきたい」(15年12月、100歳の所感)
 晩年、高円宮さま、寛仁さま、桂宮さまと最愛のお子さま3人に先立たれ、96歳での心臓手術など、苦難の連続だった三笠宮さま。人生の節目には、長年連れ添った妻百合子さまに、感謝の言葉をつづっていた。

皇位継承者は4人に=三笠宮さま逝去
時事通信 10月27日(木)9時44分配信

 三笠宮さまが亡くなられたことで、皇室の構成は天皇陛下と皇族方計19人となり、皇位継承権を持つ男性皇族は4人となった。
 新たな皇位継承順位は次の通り。
 (1)皇太子さま(2)秋篠宮さま(3)悠仁さま(4)常陸宮さま。

三笠宮さまがご逝去…100歳、昭和天皇の末弟
読売新聞 10月27日(木)9時31分配信

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三笠宮崇仁親王殿下(2007年5月12日)
 三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)親王殿下は、27日午前8時34分、心不全のため、東京都中央区の聖路加国際病院で逝去された。
 100歳だった。昭和天皇の末の弟宮で、天皇陛下の叔父にあたり、明治以降の皇族では最高齢だった。皇位継承順位5位で、三笠宮さまの逝去により、皇位継承権を持つ男性皇族は4人になった。〈ありし日の宮さま2面、関連記事10・11面〉
 宮内庁では、加地隆治・宮務主管が27日午前10時半から記者会見し、三笠宮さまの逝去を発表した。同席した宮内庁の名川弘一・皇室医務主管によると、最近の三笠宮さまの容体は安定した状態が続いていたが、この日の午前7時40分頃から徐々に心臓の拍動が遅くなり、意識不明となった。同8時頃に心停止状態となり、同34分、妃殿下の百合子さま(93)にみとられ、逝去が確認されたという。
 三笠宮さまは2006年頃、心臓の僧帽弁(そうぼうべん)閉鎖不全症と診断された。長男の寛仁(ともひと)さまが亡くなられた翌月の12年7月、急激に心機能が低下、弁の機能回復のため心臓を止めて人工心肺を使った手術を受けられた。当時96歳の高齢者には異例の手術だったが順調に回復し、今年5月までは宮邸で静かに過ごされていた。
 15年12月2日に100歳の誕生日を迎えられた。今年1月2日の皇居一般参賀に臨まれたが、急性肺炎で5月16日、同病院に入院。心臓機能の低下が発覚し、経過観察を続けられていた。名川医務主管は「懸命の治療を続けてきたが、年齢からくる心機能の低下はいかんともしがたかった」と説明した。
 三笠宮さまは1915年(大正4年)12月2日、昭和天皇、秩父宮、高松宮に続き、大正天皇と貞明皇后の第4皇子として誕生された。幼時の称号は澄宮(すみのみや)。32年(昭和7年)、学習院中等科4年を修了して陸軍士官学校予科に進まれた。
 卒業後、騎兵連隊勤務を経て陸軍大学校で学び、先の大戦中は支那派遣軍の参謀や大本営陸軍参謀などを務められた。終戦時は少佐で、陸軍の方針には反対の立場を取られていた。この間の35年12月、三笠宮家を創立。41年10月、高木正得(まさなり)子爵の次女、百合子さまと結婚された。
 戦後は東大文学部の研究生として西洋史や宗教史を修め、オリエント学者の道を歩まれた。55年から東京女子大や青山学院大の講師を務められ、75年にロンドン大の客員教授、85年には東京芸術大美術学部の客員教授にも就任。一方で、大戦中の軍部批判や、建国記念の日の制定に絡む「紀元節」復活反対の発言なども話題となった。
 百合子さまとの間に寛仁さま、桂宮さま、高円宮さま、近衛寧子(やすこ)さん、千容子(まさこ)さんの3男2女をもうけられた。2002年11月に高円宮さまが、12年6月に寛仁さまが、14年6月には桂宮さまが亡くなり、3人の男子ともに先立たれた。
 三笠宮さまの逝去により、皇室の方々は19人、うち皇位継承権を持つ男性皇族は4人になり、昭和天皇の弟は3人とも亡くなられたことになる。

<訃報>三笠宮さまご逝去100歳=天皇陛下の叔父
毎日新聞 10月27日(木)9時28分配信

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三笠宮さま=宮内庁提供
 昭和天皇の末弟で天皇陛下の叔父、三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)さまが27日午前8時34分、聖路加国際病院(東京都中央区)で心不全のため亡くなられた。宮内庁が発表した。明治以降に亡くなった皇族としては最も長寿の100歳だった。三笠宮さまは5月16日に急性肺炎と診断され同病院に入院。心臓の機能低下がみられたため、入院を続けていた。三笠宮さまの逝去により昭和天皇の弟3人がすべて故人となった。
 27日午前10時半に宮内庁の加地隆治宮務主管と名川弘一皇室医務主管が記者会見し、三笠宮さまは同日午前8時ごろに心停止の状態になられたと説明した。午前7時40分ごろまでは安定し、意識があったが、容体が急変して心臓の活動が遅くなり、同8時ごろに心停止の状態になった。同病院に検査入院していた妻百合子さま(93)がみとられた。
 名川氏は会見で「医師たちを中心に懸命の治療が行われた結果、ここしばらくは安定された状態だったが、年齢からくる心機能低下に対しては、いかんともしがたかった」と述べた。
 三笠宮さまは、1915(大正4)年12月2日、大正天皇の四男として誕生した。幼名は澄宮(すみのみや)。学習院初等科・中等科から陸軍士官学校、陸軍大学校に進んだ。中国派遣軍参謀として南京に赴任したこともあり、終戦時は陸軍少佐だった。
 41年10月に子爵・高木正得(まさなり)氏の次女百合子さまと結婚。3男2女をもうけた。
 古代オリエント史の研究者として知られ、東京女子大などで講師として教壇に立った。著書に「古代オリエント史と私」などがある。歴史学者の立場から、神武天皇の即位の日とされる2月11日の祝日「紀元節」(48年廃止)を建国記念日として復活させることに反対の意思を表明したこともあった。
 心臓の左心房と左心室の間にある僧帽弁が完全に閉じないため血液が逆流する「僧帽弁閉鎖不全」を患い、2012年7月に手術を受けた。最後に公の場に姿を見せたのは、今年1月2日の新年一般参賀で、皇居・宮殿のベランダで手を振った。公務としては4月8日、トルコに赴任する日本の大使と、お住まいの宮邸で面会したのが最後だった。
 三笠宮さまの長男の寛仁さまは12年に66歳、次男の桂宮さまは14年に66歳、三男の高円宮さまは02年に47歳で亡くなっている。【高島博之、山田奈緒】

三笠宮さま薨去される 天皇陛下の叔父、100歳
産経新聞 10月27日(木)9時26分配信

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三笠宮さま(写真:産経新聞)
 大正天皇の第4皇男子で、天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が入院していた東京都中央区の聖路加国際病院で薨去(こうきょ)された。100歳で、皇位継承順位は第5位であられた。三笠宮さまの薨去により、皇室は19方、皇位継承資格者は4方となった。
 三笠宮さまは平成24年に心臓の僧帽(そうぼう)弁が十分に機能しないために血液が逆流する鬱血性心不全と診断され、96歳でご手術。今年5月16日に急性肺炎で同病院に入院された後、心機能の低下が確認され、体調悪化が懸念されていた。

三笠宮さま逝去=100歳、昭和天皇末弟―歴史学者として活躍
時事通信 10月27日(木)9時2分配信

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昭和天皇の末弟、天皇陛下の叔父で、古代オリエント史の研究者としても知られる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)さまが27日午前8時34分、入院先の都内の病院で亡くなられた。100歳だった。
 昭和天皇の末弟、天皇陛下の叔父で、古代オリエント史の研究者としても知られる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)さまが27日午前8時34分、心不全のため、入院先の東京都中央区の聖路加国際病院で亡くなられた。
 100歳だった。皇位継承順位は第5位で、明治以降の皇族では最高齢。本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は文京区の豊島岡墓地で営まれる。宮内庁は日取りなどの検討を始めた。
 三笠宮さまは急性肺炎と診断され、5月16日から聖路加国際病院に入院していた。宮内庁によると、27日午前7時40分までは容体が安定していたが、徐々に心臓の拍動が弱まり、同8時ごろ心停止に陥った。同病院に検査入院中だった同妃百合子さまが最期をみとったという。
 1915年12月2日、大正天皇の四男として誕生。称号は澄宮(すみのみや)。学習院初等科、同中等科を経て陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。成年を迎えた35年に三笠宮家を創立し、41年10月に子爵・故高木正得氏の次女百合子さまと結婚。太平洋戦争中の43年1月から1年間、支那派遣軍総司令部参謀として中国・南京に赴任し、終戦時は陸軍少佐だった。
 戦後、東大文学部の研究生となり、古代オリエント史研究者の道を歩んだ。日本オリエント学会の初代会長を務め、東京女子大や青山学院大の講師、東京芸術大の客員教授などとして教壇に立ち、テレビやラジオなどにも出演。歴史学者の立場から、連合国軍総司令部(GHQ)の意向で廃止された紀元節復活の動きに反対したほか、戦争末期の44年に陸軍を批判した文書が後に見つかり、反響を呼んだ。
 中近東文化センター名誉総裁、日本・トルコ協会名誉総裁などを務め、国際親善をはじめ、さまざまな分野に貢献。ダンスにも親しみ、普及に尽力した。著書は「帝王と墓と民衆」「古代オリエント史と私」「わが歴史研究の七十年」など多数。

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