Ghi chép linh tinh lúc rảnh việc cày ruộng và đọc sách

26/02/2025

Về một tấm ảnh Phan Bội Châu có nốt ruồi - kỉ niệm nhỏ với học giả Đinh Xuân Lâm (1925-2017)

Tin học giả Đinh Xuân Lâm qua đời năm 2017 ở tuổi 92, trên Giao Blog đã điểm tin ở đây.

Năm nay tròn 100 năm ngày sinh của cụ, nên thấy tin nhà trường và học trò vừa tổ chức một lễ kỉ niệm (xem tin và ảnh ở phần bổ sung).

Ở đây, không có thời gian, nên ghi đính ghim một kỉ niệm nhỏ nhỏ về học thuật với cụ.

1. Một kỉ niệm về cụ Đinh Xuân Lâm, là vào năm 2010, trong một hội thảo về phong trào Đông Du tổ chức tại Hà Nội. Lần đó, phía Việt Nam, qua tư liệu thầy có các học giả: Chương Thâu, Phan Huy Lê, Đinh Xuân Lâm,...

Tôi tham gia với lời mời dành cho dịch giả tiếng Việt bài văn bia bằng Hán văn do Phan Bội Châu soạn năm 1918 tại Nhật Bản để kỉ niệm người bạn vĩ đại là bác sĩ Asaba (nguyên vật tấm bia ấy hiện còn ở Nhật Bản, có thể xem ở đây; một phiên bản thu nhỏ kèm lời dịch tiếng Việt - bản dịch của tôi thì hiện có thể thấy trong vườn cũ nhà cụ Phan Bội Châu tại Huế, có thể xem ở đây).

2. Từ rất lâu, tôi đã nghi vấn lâu nay chúng ta, cả giới sử học Việt Nam và Nhật Bản đều nhầm về một tấm ảnh. Đó là tấm ảnh ghi ảnh Phan Bội Châu và Cường Đề chụp tại Tokyo (hoặc tại Yokohama), hồi hai cụ này mới đến Nhật Bản quãng năm 1905-1906, tức khoảng 120 năm về trước.

Tấm ảnh sau:

Lâu nay, ảnh này được xem là ảnh của Cường Đề (đứng) và Phan Bội Châu (ngồi), chụp tại một hiệu ảnh tại Tokyo hay Yokohama khoảng năm 1905-1096


Các tài liệu đều ghi như vậy.

Nhưng tôi thì nghi vấn là không phải. Tức chúng ta đang bị nhầm, cần phải cải đính.

Một nghi vấn của tôi, trực tiếp xem qua ảnh, là nốt ruồi của Phan Bội Châu trong tấm ảnh. Tôi không thấy cụ Phan có nốt ruồi như vậy, qua kiểm chứng ảnh và video về cụ, các hồi kí của cụ và hồi kí của người khác cùng hoạt động với cụ.

3. Tại hội thảo năm 2010, tôi có trình bày nghi vấn này với các vị Việt Nam (gồm Chương Thâu, Phan Huy Lê, Đinh Xuân Lâm, Đào Thế Đức,...) và một số vị Nhật Bản (tiêu biểu là ông Amma).

Ông Amma thì không nghi vấn gì.

Cụ chuyên gia về Phan Bội Châu của Việt Nam là Chương Thâu thì cũng không nghi vấn.

Cụ Phan Huy Lê thì bảo đại khái: "Giao thử đối chiếu thêm, nếu đúng thì em nên công bố để ta chỉnh lại cho đúng". Tức cụ cũng không đặt ra nghi vấn lắm.

Chỉ có cụ Đinh Xuân Lâm thì tán đồng. Cụ cũng bảo, đại khái: tớ cũng nghi vấn lâu rồi. Chứng cớ của tớ cũng nằm ở cái mụn ruồi !

Học giả Đinh Xuân Lâm tại hội thảo tháng 11 năm 2010, tại Hà Nội

Hóa ra, là về chứng cớ trực tiếp thì cụ Đinh Xuân Lâm cũng xem nốt ruồi trên khuôn mặt của Phan Bội Châu là "nghi vấn".

4. Sau này, gặp các người cháu của cụ Phan Bội Châu, như ông Phan Thiệu Cát tại Vinh vào năm 2017, tôi cũng nói về cái mụn nốt ruồi, thì mọi người tán thành ! Các cháu của cụ Phan cũng cho biết: cụ không có mụn ruồi đó, và ảnh đó có khả năng là lâu nay chú thích nhầm !

5. Đến hiện tại, vẫn tạm thời đặt nghi vấn vậy. Khi nào có điều kiện viết ra để công bố (theo lời của cụ Phan Huy Lê), và chú thích lại, thì tôi sẽ nhắc đến một điểm chung về chứng cớ với cụ Đinh Xuân Lâm là cái nốt ruồi !

Đưa một tấm ảnh cụ Đinh Xuân Lâm trong hội thảo năm 2010.

Tháng 2 năm 2025,

Giao Blog



Xem thêm ở đây.


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CẬP NHẬT


1. Bạn Lê Huy Vinh tìm được bài đã đăng năm 2024 trên mạng như sau:


"

Bài 1

何祐子(が ゆうこ)。1990年代初めにベトナムホーチミン市へ渡航、在住25年以上になります。戦前のベトナムと日本に関連する資料・書籍の掘り起こしと整理をこつこつとやっています。


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クオン・デ候とファン・ボイ・チャウ-2人の記念写真?⇧?🤔?【其の一】

2024年11月11日 15:54

 いつか必ず通らなければならない道。。。それが、この⇧クオン・デ候ファン・ボイ・チャウ2人の写真』とされて来た不思議な記念写真の存在です。今日は、とうとうこれを取り上げます。😀😀😀

 少し前、友人の紹介で在日越僑の御年輩のお二人と東京でお会いしました。お話を聞く中で、ずっと疑問に思っていた質問をぶつけてみました。。。⇩

 「ところで、この写真(上⇧の写真)、、本当は誰なんですか??」

 。。。2人は談笑をピタッと止めて、顔を見合わせて私の方へ向いて、

 「…やっぱり、、、そうですよね。似てないですよね、私もずっと似てないと思ってたんです。」

 おおーー、そうだ、似てない。この記念写真のクオン・デ候もファン・ボイ・チャウも、他の写真とは全く似てないと感じてたのは自分だけじゃなかった。。。😀😀😀 で、お二人曰く、
 「…でも、これは日本で『クオン・デ候とファン・ボイ・チャウ2人の記念写真』としてもう長い間有名なんです。だから、私達もそうだと思って来た。ですが、実際の事は解からないのです。」

 100年以上前の事を証明出来る人はもう居ません。しかし、出所のハッキリしたクオン・デ候とファン・ボイ・チャウの他の写真と、2人の自伝書内容から比較検討し、この『記念写真』『赤の他人の記念写真』の可能性(多分高確率。。🤔🤔)を検証したいと思います。

 先ず、出所のはっきりしているクオン・デ候の23歳の若かりし頃の写真がこちらです。⇩

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 これは大岩誠氏の『安南民族運動史概説』の中で、『明治39(1906)年5月、東京牛込区写真館にて撮影』と明記されて居り、多分あの当時の『東京牛込の写真館』を調べれば、詳しい場所も店名も判明すると思います。自伝に依れば、クオン・デ候『1906年4月横浜に到着』と有り、新暦なら丁度5月頃だから到着直後に撮影されていることになります。自伝には、『(到着の)数日後に東京へ上京したが、(中略)真直ぐに大隈(重信)伯と犬養子爵、他要人との会見に向かいました。』と書いて有る。

 ここではたと気が付くことがあります。。。
 それは、密航して来たクオン・デ候が、確かな紹介状も無く、『どうも、こんにちは。安南皇族の者です。』と突然挨拶しに来た所で、当時は証明する術が無かったこと。だからその為に『皇族の朝服』を持参してたのではないでしょうか。それは見る人(犬養翁や大隈伯など)が見れば、即座に価値が分かった筈。そしてその時の流れで、今後の為にもと日本政界人御用達『東京牛込の写真館』を紹介されそこで撮影した、どうもそんな経緯じゃないかと推察します。もし後々にクオン・デ候が暗殺されてしまったとしても、偽物が出て来ることを防ぐ目的もあったかも知れません。それら理由以外で入国直後にこの様な写真が撮影された背景(場所、動機、目的)を説明できない気がします。

 そして、次がこれです。⇩

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 1940年頃に台湾で撮影された写真なので、クオン・デ候は57歳位です。歳は取りましたが、顔の輪郭や目と耳の位置関係は余り変わってない様に思います。そうなんです、ポイントは『耳の形』と『耳の位置』。説に依れば、変装や偽装は『耳』を見れば大概見破れるとのことなので、では耳を並べて見たいと思います。⇩

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 やはり一番左側の写真は、目と耳のポジションのバランスが他の2つと異なっています。目じりからラインを引っ張って行くと、耳の真ん中位に当たる。要するに、耳がかなり高い所にあることが解ります。右の2写真は、目じりのラインのやや下側に耳の上部があり、耳の形も、左側の写真は上側に尖り気味で耳たぶが少ない。右の2写真は丸いフォルムで耳たぶもふくよかです。

 では次に、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)です。😀😀😀

 出所のはっきりしている写真は、取敢えずこの3枚。⇩

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写真①
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写真②
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写真③

 写真②は、ワタシの翻訳本の表紙にも使用してます、1956年南ベトナムで出版された英明(アイン・ミン)書店出版の『自判』の説明による、『1925年上海で捕縛、ハノイへ移送直後』です。出生年1867年から計算すると、58歳

 写真①と③は、内海三八郎氏の『潘佩珠伝』の巻頭附録からですが、この写真について内海氏は、『はじめに』の中でこの様に説明しています。⇩

 「…それから何年経ったか忘れていたが、或る日突然、思いがけない未知の呉成人(ゴ・タイン・ニャン)というユエ在住の人から小包みが届き、開けて見ると中から『潘佩珠自判』の写本上下2巻と、潘が晩年書いた『孔学燈』および大小型写真十数枚が出て来てビックリ仰天、夢かとばかり喜んだ。」

 要するに、英明書館の責任者だったファン・ボイ・チャウの弟子の呉成人(ゴ・タイン・ニャン)氏から直接『自判』漢語版と共に写真が送られて来た。だから、この2つの写真はファン・ボイ・チャウ本人の可能性が極めて高いと思います。そして、
 写真①は、「香港亡命初期、45歳」(1910年~)
 写真③は、「フエに軟禁されていた頃」(1925~1940年)

 この様に⇧注釈があるので撮影時期も大体特定できます。では、耳を並べてみたいと思います。⇩

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 えー、これは素人では判断が難しい。。専門家なら分析可能なんでしょうか、分かりません。取敢えず、一番左側の『2人の記念写真』の顔は左のこめかみ辺りに大きな黒子が見えますが、ファン・ボイ・チャウの顔面に特徴的な黒子があると書かれた文書はワタシは今の所読んだことがありません。
 まあ、でも、、、問題は『2人の記念写真』とされている写真のファン・ボイ・チャウが、他の写真と全く似てないことです。😀😀

 目鼻立ちとか鼻の下や唇の感じとか、、そして何と言っても髪を七三分けにしてポマードで撫で付け、髭も綺麗にそり落としこざっぱりし、タキシードで正装しちゃっている。。。これが、奇妙なんですよね。

 ファン・ボイ・チャウは、自身の著書『天乎帝乎』中で、
 「われらが死なんとして死に得ず、活きんとして活きがたき苦境に陥ってから、既に60余年」 
 この様に当時の仏領インドシナ・ベトナムを表現し、祖国と同胞を奴隷から解放したい一心で、仏印政府が厳重に貼り廻らした密偵網を潜り抜け、命を懸けて漸く日本へ密航して来たのです。なのに、、

 ”日本に着いたよ~。さっ、取敢えず記念写真撮ろーー。”

 人間の心って、そんなに簡単に切り替わるでしょうか??🤔🤔🤔😑

 この疑問⇧を、2人の自伝文章を基に次記事で検証してみます

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https://note.com/gayuko_lion123/n/n6d846d38a7f3


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Bài 2

見出し画像

クオン・デ候とファン・ボイ・チャウ-2人の記念写真?⇧?🤔?【其の二】

2024年11月12日 17:13

【其の一】からの続きです。

 クオン・デ候とファン・ボイ・チャウ2人の自伝から、上左側の記念写真を更に検証して行きたいと思います。

 先ず、時期です。
 記念写真の可能性は取敢えず外国亡命後と考え、最も早い時期がクオン・デ候渡日の1906年、クオン・デ候は23歳、ファン・ボイ・チャウは39歳です。うーん、どうでしょう、ファン・ボイ・チャウとされている白黒写真の人物は、もう少し年齢が若い印象を受けます。

 撮影は同時期に同じ場所に居なければなりませんが、しかし自伝によれば亡命後の2人の行動は案外バラバラでした。

クオン・デ候は直ぐに東京の振武学校に入学したので、
 1906年4月入国後~1908年11月迄と、
 1909年3月~10月末に国外退去する迄

 この期間⇧は殆ど東京に滞在。一方ファン・ボイ・チャウの日本活動拠点は当初横浜であり、クオン・デ候とファン・チュ・チン氏を連れて入国した後も単独で横浜と香港間を往復し、同年12月にはベトナムに帰国しています。その時の記述に、⇩

 「12月上旬、横浜から東京へ出て行き、在学中のクオン・デ候や他学生達へ私の離日の件を伝えてから、その当日広東に発った。」

 とあり、この辺りからも判る様に、一途なファン・ボイ・チャウはクオン・デ候達に挨拶に東京に寄っただけで一息もついて無いことが解ります。とても髪にポマードを撫で付け、髭剃ってタキシードで写真を撮る心の余裕は無さそうです。

 それからファン・ボイ・チャウは、1907年の5月下旬に日本に再入国したと書いてますが、その矢先に頼みの綱だった曾抜虎(タン・バッ・ホー)の悲報が届き、8月頃はドン・ズー運動渡日して来た留学希望者が100名を超えた為、受け入れ先の斡旋で走り回っていました。
 
 「その頃は、財政問題が常に私の頭を悩まし続けて居た。」

 この様に、自伝から伝わる様子は緊迫し、暢気に記念写真を撮る余裕は全く無さそうです。
 その後も次から次へと問題が起こり、日本政府から留学生解散令が発せられ留学生の帰国費用の金策に走り回る中、1908年5月には陳東風(チャン・ドン・フォン)君が困窮を苦に寺で首をつって自殺してしまいました。
 
 1909年2月は、「私とクオン・デ候は、2人同時に日本政府より国外退去処分を喰らった。」と書いて有り、これ以後では、”2人で記念写真を…”という心境には到底ならないと想像します。

 そしてですね、、、
 実はファン・ボイ・チャウは、几帳面にも自伝の中で自分の”唯一の写真”の存在に言及しているのです。⇩

ベトナム・カトリック教会代表団 マイ・ラオ・バン翁の来日

 戊申(1908)年3月、タイへ向かうつもりで香港へ渡ると、丁度国から出て来た牧老蚌(マイ・ラオ・バン)翁に会った。ラオ・バン翁は、青年学生10人の一団を引率しており、聞けば、天主(カトリック)教会の委任を受け、教徒代表として彼らを我が≪維新会(=光復会)≫に入会させたい意向だという。
 以前は日本留学生の中に天主会の人間は一人も居なかった。しかし、このラオ・バン氏の出洋以後は、合計何十名もの教学徒が日本へ留学し、そのうちの何名かは教師資格合格者だった。(中略)ラオ・バン翁は、≪聖人≫称号を持つカトリック会の大人物であり、教学徒の維新会入会事業を担って渡日して来た。国内の教徒らへ熱心に革命活動を説いて回っていたラオ・バン翁は、自ら『老蚌普勧詩』を記し、この本はベトナム・カトリック教会内部で大きな反響を起こしていた。


 この時、私はカトリック教会への礼儀として、在日留学生全員を集めて大歓迎会を開催した。
 (中略)

 私は、ラオ・バン翁に会う以前に写真を撮ったことが無かった。この時の日本に於いて、 歓迎会の席で翁と一緒に初めて記念写真を撮ったのだが、その後フランス人が私の面相を知り得たのは、この写真を入手したためだった。

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑮『年表・第三期(1905年~)・ベトナム帰国を拒否した若者たち/ベトナム・カトリック教会代表団 マイ・ラオ・バン翁の来日』

 ファン・ボイ・チャウ本人が、

 「ラオ・バン翁に会う以前に写真を撮ったことが無かった。」
 「この時の日本に於いて、 歓迎会の席で翁と一緒に初めて記念写真を撮った」
 
 
と明言して居り、正直者の彼の事なので嘘は無いでしょう。これ以外は『記念写真など撮った覚えは無い』というのです。
 それに、
 「その後フランス人が私の面相を知り得たのは、この写真を入手したためだった。」

 というこの写真とは、多分これではないでしょうか。⇩

画像
https://note.com/gayuko_lion123/n/n6d846d38a7f3

 そうだとすれば、後ろには人が整列している様に見えるし、在日全ベトナム人留学生勢揃いでのカトリック会の超大物牧老蛑(マイ・ラオ・バン)先生の歓迎会の席で、ファン・ボイ・チャウが珍しく正装しているのも頷けます。
 年齢的にも、内海三八郎氏著『潘佩珠伝』の注釈の『45歳(位)』に符合し、そして、解散令後殆どベトナムに帰国したドン・ズー留学生の内の誰かがこの写真を所持して居り、仏印政府に渡ってしまった、という経緯かなと考えるとかなり現実味があると思います。🤔🤔

 それ以外に、ファン・ボイ・チャウの個人的思考や嗜好を自伝中の記述から見てみます。

大隈・犬養両翁と日本政界要人らとの面会

 その日、私と従者2名は、梁氏と共に東京へ向かった。
 先に
犬養毅子爵に来訪を告げ、 犬養翁の案内で大隈翁に面会を得た。初対面にも拘らず、お二人共に終始笑顔を絶やさず機嫌が良かった。
 (中略) 
 大隈翁は、「貴国の党人を日本へ連れて来られれば、全員を収用して差し上げよう。我ら日本人は、義侠心と愛国心を特に重んじる民族だ。そして、もし御同意ならば貴兄らへは住居を提供しよう。外賓として待遇せば、生活費には困らないでしょう。」


 大隈伯の堂々とした自負に溢れた表情を前に、私は気恥ずかしさを覚え、言葉を絞り出した。
 「波風に揺られ、幾万里を越えて此処に辿り着いたのは、偏えに祖国と我が民族を死の滅亡から救う為、その計画の実行の為であります。今もし我らが、我身一つの良遇に甘んじてしまえば、たとえ祖国が仇敵の手中にあれども、もう気概を失い前に進む事を諦めるに違いない。そうなった時、皆さんがもうその様な人間を尊重する意味など何も無いでしょう。」


 私の隣に座っていた梁啓超氏は、紙に『此人大可敬』の5文字を書き、これを大隈翁に手渡した。

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑨『年表・第三期(1905年~)・梁啓超(りょう・けいちょう)氏との出会い/大隈・犬養両翁と日本政界要人らとの面会』

 清国の梁啓超(りょう・けいちょう)の紹介を得て、犬養毅(いぬかい つよし)氏と大隈重信(おおくま しげのぶ)氏など日本政府要人と初めて面会した日、
 「貴兄らへは住居を提供しよう。外賓として待遇せば、生活費には困らない」
 しかし、
ファン・ボイ・チャウはこの申し出を、

 「今もし我らが、我身一つの良遇に甘んじてしまえば、たとえ祖国が仇敵の手中にあれども、もう気概を失い前に進む事を諦めるに違いない。そうなった時、皆さんがもうその様な人間を尊重する意味など何も無い」

 即座に断わり、”そんな人間を日本が援助する価値がある訳がない”、と冷静に見抜いているのです。
 
 そして、こんな記述もあり。⇩
 

広東の売文生活

 庚戌(1910)年春から秋、だから6月か7月頃か、広東省城の周師女史の家に身を隠した。
 その頃は、屡々手元の書籍を持って香港-澳門(マカオ)間連絡船の埠頭へ出掛け、 素性を隠して路上で書籍を売るという風変わりな職業で生計の糧を得ていた。路上に立てかけた看板の文字は、≪濡毫血涙 籍為革命先声、失路英雄 権作吹簫之後援≫、
 今思い出しても笑いが込み上げてくる。


 当時の支那は、学生も商人も皆革命思想を持つ者が多く、路上の書籍売りを見かけると必ず高値で買ってくれる人が居た。お蔭で日々の生活費に汲汲としていたそれまでに比べて最も気楽な日々を送れていた。 普段は朝早く出掛け夜に帰って来たが、日によっては2、3元の売上げがあって、もうそれで3~5人分位の飲み代が稼げた。
 (中略)
 面白かったのは、若い連中が本を売りに出掛けてもいつも空手で帰って来たのに、たった一人私だけが必ず毎日2、3元、日によっては5、6元を売り上げた。私の風貌は、無精髭伸び放題で浮浪者みたいなボロ靴ボロ服だったから、奇を好むか或いは哀れに思う人が買ってくれたのだろう。お陰で商売はかなり上手く行き、4、5カ月間程本売りの老先生で過ごした。

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑰『年表・第三期(1905年~)・暹羅(シャム=タイ)へ/魚海(グ・ハイ)先生の殉死/恩人 周師太/林徳茂(ラム・ドック・マウ)氏』

無精髭伸び放題で浮浪者みたいなボロ靴ボロ服」←こんな感じの風貌が気楽で気に入っていた節が自伝中屡々あります。。

 
そして、1918年1月頃に雲南省から杭州へ戻る途中で懐の路銀が底を尽き、臨時で支那地方政府官吏として雇い入れて貰った時のことも。⇩

…元来た道を行き、杭州へ戻ることにしたが、途上重慶に着いた所で所持金が底を突いた。他に手立てがある筈がない、黄復生(おう・ふくせい)氏に面会して援助を請うと、黄氏は私に暫く重慶に滞在して文書の手伝いをしてくれないかと言い、こんな紙を渡した。
 ≪特聘 潘氏漢先生爲川軍総司令諮謀官 俸金一百七十元  総司令黄復生印≫

 自分の名の下に≪官≫の文字が着いたのは、この日が初めてだった。
 職に就いて7日目が初の給金日だった。私は、170元を受け取ると総司令部に駆け込んで辞職を願い出て、重慶を発つ旨を告げた。目的は俸給を得る為であり、官職を得る為ではない。これははっきりしていた。

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』㉑『年表・第三期(1905年~)・重慶へ/≪仏越提携論文≫/ロシア人との初交流』

 
 『立派な肩書』とか『風貌・容姿』などに執着心薄く、全く無頓着だった様子が判ります。
 
  そしてクオン・デ候も、フランスに捕縛される直前のファン・ボイ・チャウのことを書いていました。⇩

 1919年末に私と北京で別れた後、潘佩珠は杭州へ移動して以後、ずっとこの地で売筆業をして生計を立てていました。 
 私と会ったこの時も、浙江軍事編集所の発行する兵事雑誌で編集者として働いていました。

 (中略) 
 潘佩珠は、20年以上も海外で奔走、文字通り艱難辛苦の連続でした。その中に於いて、この杭州での数年間だけは、ほんの一時彼が安閑とできた時間だったのです。 
 彼は非常に倹約家で、毎月の給料50圓の半分を生活費、半分を革命運動鼓吹冊子の印刷費へ回しました。

『クオン・デ 革命の生涯(CUỘC ĐỜI CÁCH MẠNG CƯỜNG ĐỂ )』(Saigon Vietnam,1957)  ~第14章 支那へ渡り、そして再び日本へ~

 これらを総合して判明するファン・ボイ・チャウ人物像とは、例え、『日本渡航の記念』にと強く勧められたとしても、あの時期、あの状況に在りながら、困窮に喘ぐ留学生を尻目に、写真館に足を運んで髭剃りポマードにタキシードを良しとするような性格では無かったんじゃないかとワタシは感じてます。

 それに、もう片方のクオン・デ候も、無許可で出国した皇族身分の者として逮捕されれば流刑の可能性が極めて高く、不用意に洋装での記念写真など撮影出来ない立場だった筈ですので。。。

 そんなこんなの理由から、、あの『2人の記念写真』は多分、、、真っ赤な他人の写真だと、、、以前からずっと考えてましたが、、

 皆さんは、どう思いますか。。

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https://note.com/gayuko_lion123/n/n61d4203cce50?fbclid=IwY2xjawI5Ya5leHRuA2FlbQIxMAABHdMPPGaKKG3LHXZ5e6ZTpbFupgnFM_YHzQT2cmjzDCFnmULWytu4LlqpsQ_aem_FrFq97sWOgxnpD6Lbs70qA



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BỔ SUNG


1.

Chí Long  -  Thứ ba, 25/02/2025 10:18 (GMT+7)


Ngày 25.2, tại Trường Đại học Khoa học Xã hội và Nhân văn, ĐHQGHN diễn ra “Triển lãm và Tọa đàm Kỷ niệm 100 năm ngày sinh GS.NGND Đinh Xuân Lâm”.

https://laodong.vn/van-hoa/trien-lam-ky-niem-100-nam-ngay-sinh-gsngnd-dinh-xuan-lam-1468263.ldo

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