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17/10/2016

Bản lưu năm 2016 cho trang web lập năm 2003

Từ năm 2003 đến nay, trang web này giữ nguyên trạng, hầu như chỉ lưu, không cập nhật.

Tôi đã lưu riêng nó từ năm 2004 rồi. Nhưng lần đầu tiên lưu với tính chất "công" ở đây. Nhân lúc đang viết (viết lại) về chuyện của hai ông.

Bản lưu ngày 17/10/2016.

Tạm thời đưa toàn bộ word sang đã. Khi nào có bản chụp màn hình thì sẽ đưa bổ sung ở dưới.

Tháng 10 năm 2016,
Giao Blog


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■■記念碑建立85周年記念式の報告■■■

《平成16年度 磐南文化賞 受賞》


浅羽佐喜太郎公紀念碑建立85周年記念事業での2つの記念式(7/27)は盛会裏に終わりました。

.記念碑建立85周年記念式(於:浅羽町梅山 常林寺)  9時~10時
◆浅羽・ベトナム友好85周年記念式(於:浅羽町東公民館)13時30分~16時30分
午前中の常林寺式典には120名、午後の友好式典には230名もの出席がありました。

 この2つの記念式には、ベトナム・ホーチミン市から記念碑を建てたファン・ボイ・チャウの孫となるファン・ティエ・コ氏が実行委員会の招待により夫妻で出席をされました。浅羽佐喜太郎の孫である浅羽和子氏との、孫同志での対面がありました。式典は安間幸甫実行委員会事務局長の司会で進められました。

 ■記念碑建立85周年記念式 式次第   (9:00~10:00 常林寺)  

 1)実行委員会会長挨拶
 2)ファン・ティエ・コ氏挨拶
 3)常林寺住職の読経
 4)関係者の献花
 5)ファン・ボイ・チャウの自伝から記念碑建立の章朗読
   (浅羽 一芳氏)
 6)浅羽秀雄氏のお礼のことば
【記念碑建立85周年記念式写真館】
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■浅羽・ベトナム友好85周年記念式 式次第   (13:30~15:00)

 1)開式のことば  実行委員会副会長 村松功
 2)実行委員会会長挨拶  大石 良介
 3)記念碑拓本のベトナム社会主義共和国への寄贈式 実行委員会会長からベトナム大使館へ
 4)記念碑建立の章朗読  文化財研究会副会長 浅羽 一芳
 5)来賓挨拶・紹介

  浅羽町 村松駿一町長、 ベトナム社会主義共和国大使代理 ドァン・ゴク・カイン参事官 
 ファン・ティエ・コ氏(ファン・ボイ・チャウの御孫様)

その他の来賓の皆様紹介
 浅羽町議会議長 久保田 龍平様、浅羽町教育長   鈴木 絋一様、日本・ベトナム友好協会 谷本事務局長様
 袋井国際友好協会 内藤会長様、慶応大学名誉教授 川本 邦衛様
 早稲田大学 アジア太平洋センター 白石昌也教授様
 元朝日新聞サイゴン・ハノイ支局長  井川一久様、小田原市前川   石塚 勝治様、柴田 静夫様
 キム・バン・  ファン・ティエ・コ氏の奥様、浅羽秀雄・和子様夫妻
 記念碑建設に係わった三家(岡本 直記氏、岡本 幹氏、浅羽 義彦氏)
記念事業協力者
 ユン・クァン・ティ(京都精華大学卒 )
 森エリサ(上智大学アジア文学研究所)
 鈴木 琴菜(上智大学大学院:磐田市)
 ベトナム料理アオザイ(磐田市)の皆様 
 6)県内ベトナム留学生(34名)の紹介・挨拶
   ランさんと静岡大学、英和学院短大、静岡言語学院の 15名
   トイさんと静岡産業大学のグループ             4名
   ソンさんと静大工学部のグループ              2名
   グェンさんと静岡国際言語学院(浅羽町)のグループ  10名
 7)浅羽 和子様(浅羽佐喜太郎)のお孫様)のお礼のことば
 8)閉会のことば  実行委員会副会長 戸塚 孝至
【浅羽・ベトナム友好85周年記念式写真館】
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 コ氏はこの挨拶中何度か声をつまらせたのが印象に残りました。朗読は記念碑建立に係わる85年前を再現したかのようでした。10時40分、ベトナム社会主義共和国大使代理ドァン・ゴク・カイン参事官が、浅羽町長の案内で常林寺に到着をされました。町長と参事官の献花に続き、ベトナム留学生や国内在住のベトナムの方々ら40余名の献花がありました。ベトナム有志のコーヒーサービスがあったり、カイン参事官やコ氏夫妻、色鮮やかなアオザイ姿の女子留学生や、浅羽夫妻などとの記念写真の撮影などで常林寺境内は華やかな日越交流の場となりました。
この後、午後の式典会場の浅羽町東公民館に場所を移して、カイン参事官、コ氏夫妻を囲んでのべトナム関係者だけでの昼食会を兼ねての座談会や、「東遊運動と浅羽佐喜太郎」の資料展示などで理解を深めて頂きました。

    ※↓画像をクリックすると拡大画像になります
クォンデ候
ファン・ボイ・チャウ
紀念碑浅羽佐喜太郎阮泰抜

ファン・ボイ・チャウと
浅羽佐喜太郎の交流
報恩の碑

常林寺の紀念碑の
碑文
浅羽家に伝わる話ファン・ボイ・チャウと
浅羽佐喜太郎の交流
 浅羽町は平成10年にこの記念碑を町指定文化財としています。「浅羽佐喜太郎とファン・ボイ・チャウの歴史」には、ドラマにしたい場面が幾つもあります。この中でも特に記念碑建立の場面には、現代人が忘れてしまったような古き良き時代の感動があります。
問合せ:ammayukiho@gmail.com 実行委員会事務局長 安間幸甫



 ■大石 良介実行委員会会長の挨拶■   記念碑建立85周年記念式 

 本日は暑いなか、このようにたくさんの皆様の出席を頂きありがとうございます。ファン・ボイ・チャウのお孫様コ氏夫妻には、遠くベトナムホーチミン市から出席を頂きました。この記念碑は、ベトナム革命の士、ファン・ボイ・チャウとリ・チョン・バそれに地元の皆さんの協力でできたもので、世界中どこにもない浅羽とベトナムの歴史的な記念物です。記念碑ができて今年は85年となります。85年という数字は中途半端なようですが、今年は日本・ベトナム国交回復30周年という特別な記念年ですので、85年前の友好の歴史を知って貰えるよい機会であると、私達実行委員会は考えました。
 柴田静夫先生や、カナダ・アルバータ大学のビン・シン教授その他多くの研究者により、浅羽佐喜太郎とファン・ボイ・チャウの交流の歴史が明らかにされてきました。日本の歴史教科書に載ってもよいのではと考えます。常林寺住職や檀徒会、地域の皆さんのご協力で今日の記念式典が盛大に実現できますことを、深くお礼申し上げます。

http://www.asaba.or.jp/machiokosi/vietnam/hokoku/oishi.htm







ファン・ティエ・コ氏の挨拶(通訳はユン・クァン・チー氏(京都精華大学OB)でした。)

 私はファン・ボイ・チャウの孫として、みなさんのご協力で日本に来ることができました。非常にうれしくお礼を申し上げます。私の人生にとっても、今回の式典は非常に意味のある、そして重要な出来事となりました。 1940年に祖父と一緒に暮らすことができ、日本での活動や生活について聞くことがありました。“日本は良い国で、日本人は賢くてそして女性がきれいな国”だと教えられたことを覚えています。
 ファン・ボイ・チャウの時代、ベトナムはフランスに支配された時代でした。祖父は国を救う道を探しに日本にきましたが、大変な苦労がありそのことを考えるのはつらいことです。その歴史として残る浅羽先生の「義侠」や日本人の「義」に深く感謝をする次第です。 祖父ファン・ボイ・チャウは自伝のなかで、浅羽先生の恩は空の高さと同じくらい、そして自分の母親のような恩だと書いています。その時代、フランス支配の中で日本に来るだけでも大変なことでしたが、日本での苦労はあまり良くは知られていません。もし、祖父が今日ここに来られたとしたら、皆様の村や日本の国の人にお礼を申し上げたであろうと思います。
 日本の滞在はまだ僅かで、多くの日本を見てはいませんが非常に素晴らしい国だと思いました。祖父の歴史のある日本に行けることは、永く私の願いでしたが、浅羽先生の眠られているこの地に来れたことは夢のようなことです。  
 今後この記念碑に係わる一員として、浅羽の皆様に認めて頂けたらうれしいことです。記念碑には、「浅羽先生の恩は億万年決して忘れない」と書かれています。私は3番目の世代ですが、ずっと忘れないようにしたいと思います。
 浅羽先生の写真を持ち帰り、毎日仏壇でお祈りできるようにしたい。」と日本に来る前に祖父の祭壇で誓ってきたことです。今日の記念に、「ファン・ボイ・チャウ全集」10巻を寄贈致します。私達は明日、日本を離れますが浅羽先生のご家族の皆様、浅羽町の皆様のご多幸をお祈り致します。アリガトウゴザイマシタ。


http://www.asaba.or.jp/machiokosi/vietnam/hokoku/ko.htm





 お礼の言葉(浅羽秀雄氏挨拶)

 此の度は、祖父・佐喜太郎の記念碑建立八十五周年、浅羽・ベトナム友好八十五周年記念事業を実行委員会の皆様の下に取り行うに当り、来賓の皆様方、自治会役員の皆様方、常林寺住職様、檀家総代の皆様方、多数ご参加下さり、盛大に記念式典を挙行して頂きましたことは、佐喜太郎の身内として、まことに感謝にたえないところでございます。
 祖父の佐喜太郎は、梅山から離れて住んでいた年数が多かったことと、その行為が時の政府の考え方と合わなかったために、公に口にすることをはばかっておりましたが、時代が移り考え方も多様化して参りまして、こうして本日の行事をして頂きましたことは、まことに有り難いことでございまして、重ねてお礼申し上げる次第でございます。本日はありがとうございました。
  
平成十五年七月二十七日   
浅羽 秀雄   
http://www.asaba.or.jp/machiokosi/vietnam/hokoku/hideo.htm




 実行委員会会長 大石 良介の挨拶■   浅羽・ベトナム友好85周年記念式  

 午前中、常林寺において浅羽佐喜太郎公紀念碑建立85周年記念式典をおこないました。お孫様夫妻、ベトナム大使代理のドァン・ゴク・カイン参事官、浅羽家と記念碑建設にかかわった3家の皆様、県内各地からベトナム留学生の皆様に参加を頂きました。当公民館では、浅羽・ベトナム友好85周年記念式典をおこなっています。前に掲示の掛軸は、2mを超える大きなものですが、文化財研究会が昨年苦労して拓本取りをしたものです。この後ベトナム社会主義共和国に寄贈することになっています。
 85年前(大正七年)、ベトナム革命の英雄ファン・ボイ・チャウ氏が時の村長岡本節太郎氏に浅羽佐喜太郎公の為に記念碑を建てたいと相談したことに、「ベトナムと浅羽」の友好の歴史の始めがあります。この記念碑建設のいきさつは、ファン・ボイ・チャウの自伝である「自判」に詳しく書き残され、その最後に「・・・・・・・日本人の義をベトナムの同胞に伝えたい」と書き残されています。
 記念碑建立における地域の住民と、ベトナム革命運動の英雄ファン・ボイ・チャウ氏との間で深い友情が生れました。これら多くのことは、日仏同盟の締結と共に国の方針に背くものと認識がされ、浅羽家や関係者の間では長い期間口外してはならない事とされてきました。私達実行委員会は、このできごとを「浅羽」と「ベトナム」との間に友好が生れて85周年と考えました。

 ベトナム留学生の皆さん。あなた方は、ファン・ボイ・チャウ先生から約100年後に日本に留学していることになります。今の日本に学ぶものがあれば、たくさん学んでください。私達も貴国に学んだことがあります。この春のSARS騒動でのベトナムの対応や、昨年の大学生のロボットコンテストでのべトナム大学チームの優勝などです。当町諸井の国際言語学院からも10名の留学生が出席をしてくれていますが、町内企業化の皆様、ベトナム留学生へのアルバイト口を紹介頂けたらありがたいことと思っています。最後に、常林寺住職、檀徒役員の皆様、檀徒や地区自治会の皆さんにご協力を頂きました。ありがとうございました。

http://www.asaba.or.jp/machiokosi/vietnam/hokoku/ryosuke.htm




   ■村松 駿一 浅羽町長の挨拶

 85周年記念式典の開催をお祝い申し上げます。このような催しが行われますことをうれしく感謝をします。町史の編纂からこのような「友好の歴史」が発掘され、「浅羽とベトナムの友好」が実を結んでいけばありがたいことと思っています。ベトナム大使館からもご出席を頂き栄誉なことと思っています。浅羽家だけでなく遠くベトナムからファン家のご夫妻にもお出でを頂きありがとうございます。浅羽とベトナムの秘められた友好の歴史を、浅羽の文化財として民間団体が協賛して、このような記念事業を立上げられたことを関係者に深く感謝を申し上げる次第です。今後の友好の促進も願ってお祝いの言葉とします。

http://www.asaba.or.jp/machiokosi/vietnam/hokoku/muramatsu.htm






ドァン・ゴク・カイン ベトナム社会主義共和国大使代理の挨拶

 日本とベトナムの関係では、17世紀の時代ベトナム中部の町ホイアンに日本人の町がありました。19世紀初には、ファン・ボイ・チャウ先生による日本留学の東遊運動がありました。今、たくさんのベトナム留学生が日本で学んでいます。今後も皆様にベトナム留学生への配慮と支援をお願いしたいと思います。
 今年の9月21日には、日越国交回復30周年記念式がありいろいろなイベントが行われますが、この友好事業の一環としても意味があるものです。今後の日越友好や教育関係の促進を願っています。今回のイベントの成果を活かして、浅羽町のみなさんのお力を日越友好の促進に力をお貸し下さい。
http://www.asaba.or.jp/machiokosi/vietnam/hokoku/taisi.htm


 ファン・テイエ・コ氏の挨拶(通訳は森スアンさん(上智大学アジア文学研究所)でした。)

 浅羽町長様、実行委員会の皆様、浅羽家と関係者の皆様、浅羽町民の皆様、ご来賓の皆様、ベトナム大使様、ベトナム留学生の皆様に、ファン・ボイ・チャウの家族を代表してご挨拶致します。本日の式典に出席できた事を心よりお礼申し上げます。私達家族にとって、「東遊運動の歴史」に触れることは長年の夢でありました。この場に居られることは、全く夢のような出来事です。
 今日の私の気持ちは、うれしい気持ちや悲しい気持ちが入り混じり複雑です。今日の85周年記念式に出席できたのは、私の人生でも特にうれしかったことの一つです。85年前、記念碑を建てるために祖父が浅羽を訪ねた時は、きっと悲しく残念なことだったと思います。ファン・ボイ・チャウの孫として、今ここに居ることは光栄な気持ちで一杯です。浅羽町の皆さんの暖かい心と接することができたことを、祖父の祭壇に報告をします。そして碑にもある浅羽先生の「義」と浅羽の人の「義」を、私の子孫を含めいくつも後の世代にも伝えることは今後の私の務めでもあります。ありがとうございました。

http://www.asaba.or.jp/machiokosi/vietnam/hokoku/ko2.htm



出席をしたベトナム留学生代表の挨拶

 □ラム・ティ・ホァン・ランさん□ 
私は静岡から参加をしました、ラム・ティ・ホァン・ランです。浅羽佐喜太郎公記念碑建立85周年記念事業に参加させて頂きありがとうございました。私達ベトナム留学生は、先輩に見習い日本とベトナムの友好になれるよう、今後務めます。(2001年度静岡県富士の国親善大使を務めた。浅羽東小4年総合学習でのベトナム学習の講師(2003.7.9)もお願いした。2003年春静大教育学部大学院を卒業。)





 □ファン・ティ・キム・トィさん
 皆様こんにちは。静岡産業大学グループのキム・トイです。ファン・ボイ・チャウからの浅羽町の交流事業に参加ができて感動をしています。日本とベトナムの友好のために大きな意義があることと思います。日本とベトナムの関係では、政治や経済での交流が進んでいますが、人と人との心の交流が一番大事だと思います。さらに発展ができるよう一緒にガンバリましょう。(2002年秋の浅羽産業祭・まちおこし(協)ブースでベトナム・コーヒーのサービスを担当してくれました。)


 □ホァン・チュン・スンさん
こんにちは。浅羽町の85周年記念事業に招待して頂いてありがとうございます。東遊運動のことは知っていましたが、ファン・ボイ・チャウと浅羽佐喜太郎の交流のことは今回始めて知りました。この隠れた友好の歴史を、もっと多くのベトナムの人に伝えていきたいと思います。(静大工学部2年在学で、ファン・ボイ・チャウの生れ故郷ゲアン省の出身。)






 □グェン・タイ・フンさん
浅羽先生の生れた浅羽町で勉強をしています。今日の85周年の記念に参加できたことを大変うれしく思っています。大使やファン・ボイ・チャウのご家族がお出で下さった事も感激しています。私達の国際言語学院には10名のベトナム留学生がいます。ベトナムにたくさんの日本の人が行くようなりましたが、フェ市にはファン・ボイ・チャウ記念館があります。私はベトナムで旅行社に勤めていましたので、たくさんの日本人を案内しました。是非一度お出でになって下さい。


 □ユン・クァン・チーさん
 2年前、東遊運動の留学生がどのように生活をしたか、浅羽先生がどのように留学生を支援したかを知りたく先生に連れられて浅羽町を訪ねました。今日の式典では、東遊の当時が偲ばれて何度か涙が出そうになりました。また、安間さんに協力してコさんご夫妻の日本訪問が実現できたのも大変うれしいことです。(2001年春卒論での「東遊運動」テーマ調査のために来町。チー君のおじいさんがコさんと知り合いであったことが、今回の夫妻招待につながった。2003年京都精華大学卒業。日越関係のコンサルテイング会社に就職。)





http://www.asaba.or.jp/machiokosi/vietnam/hokoku/ryugakusei.htm





   ■浅羽和子さん(佐喜太郎公の孫)

 
 生きていてよかったと思いました。今日は大変うれしい日です。佐喜太郎お爺さんのことで各地から集まって下さって、ありがとうございます。前羽(現:小田原市前川)の浅羽病院から、海を見たことを思い出します。西同笠海岸と同じ砂浜がありました。うたおばあさんが、ずっと梅山の家を守っていたので、佐喜太郎も義樹(佐喜太郎の父)も安心して仕事ができたのだろうと思っています。ありがとうございました。

http://www.asaba.or.jp/machiokosi/vietnam/hokoku/kazuko.htm







   

※写真をクリックすると拡大写真が表示されます。
関係者座談風景
関係者座談風景
関係者座談風景
ベトナムコーヒーのサービス
展示室風景
展示室風景
出席者 会場風景
出席者 会場風景
ベトナム社会主義共和国大使代理
ドァン・ゴク・カイン参事官
留学生代表
ラム・ティ・ホァン・ランさん
留学生代表
ファン・ティ・キム・トイさん
留学生代表
ホァン・チュン・スンさん
留学生代表
グェン・タイ・フンさん
コ氏夫妻、浅羽夫妻ら
川本先生の講演風景
コ氏夫妻歓迎会にて
浅羽和子さん
掛  軸

http://www.asaba.or.jp/machiokosi/vietnam/hokoku/photo2.htm




   ■報恩の碑■

 日本を追われた潘に安住の地はなかった。上海や杭州・香港などの雑踏に紛れ、あるいは広西・雲南の辺境に潜み、執拗な追求と逮捕・監禁・獄中の生活など命を懸ける日々であった。
 1917年(大正6)5月、潘はひそかに日本へ来た。この7年前、1910年(明治43)9月25日浅羽佐喜太郎は43歳で亡くなっていた。これは、潘が日本を退去させられた次の年である。大恩ある浅羽先生はすでに亡く、潘は哀惜の念に堪えず、御恩に報いることも、感謝することもできなくなったことを痛感、先生の墓前に記念碑をと決意した。そして、つぎの年、それを実行しようと再び日本へ来た。

 「私(潘)は静岡(袋井駅か?)に着いて石碑を造る費用を調べた。石材と刻字の工賃で100円、それを運んで完成させるのに100円以上・・・・・。しかし私の懐中には120円しかなかった。私と李仲柏は東浅羽の村長さんのお宅へ行って事の次第を述べた。
今お金が不足しているから、中国へ行ってととのえて・・・・・と話した。村長さんは大変感激・・・・・石碑はすぐ建てるようにと。そして私たちを自宅に泊めて・・・・・週末の金曜日、村の小学校へ授業参観に連れて行ってくれた。・・・・・児童たちに、日曜日に家の人を学校に連れて来て、私の話を聞くようにと言われた。・・・・・日曜日、私たちは村長さんの案内で小学校へ行った。大勢の父兄が集まっていた。村長さんは、浅羽先生の義侠の行いについて話し・・・・・私と李仲柏を紹介・・・・・。このお二人が千里を越えて、こんな田舎の村へ来て、浅羽先生のために石碑を建てようとされている。・・・・・私たちも手伝ってあげようではないか、と。万雷の拍手が起こった。さらに村長さんは、このお二人には石材と石工の手間賃を負担してもらうだけで、石碑の運搬と建設費は村で出そうではないか・・・と訴えた。学校いっぱいに賛成の声が・・・」(立教大学教授 後藤均平訳「潘佩珠年表」)

 石碑の完成まで約一ヵ月、碑は浅羽佐喜太郎家の墓所、梅山の常林寺境内に建てられた。一㍍余に積みあげられた石垣の上に高さ二.七㍍、幅〇.八七㍍という大きなものである。
(浅羽町史通史編:浅羽佐喜太郎の章 柴田静夫著・編)

 「完成の日には、村人が集まり完成の式典を行い、自分達を主賓にして祝宴を張ってくれた。これは、皆村長の計らいであった。自分達はたかだか百円あまりを払っただけであった。このような日本人の義をベトナムの同胞に知らせたいので特にこの事を書き残す。」と
http://www.asaba.or.jp/machiokosi/vietnam/houonn.htm




   ■潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)と浅羽佐喜太郎の交流■

20世紀の初め、東遊運動と呼ばれる日本を舞台にしたベトナムの革命運動がありました。


東遊運動
 十九世紀アジアの各国は西欧列強の侵犯を受け、植民地化が進んでいました。ベトナムも仏統治政府の厳しい圧制に民衆は苦しんでいました。1905年(明治38)、日露戦争における日本の戦勝をきいたベトナム革命組織・維新会の代表ファン・ボイ・チャウらは、ベトナムの窮状を訴えて武器援助を求めるため、密出国をして日本へ来ます。ファン・ボイ・チャウは清国戊戌(ボジュツ)の政変で日本に亡命中であった梁啓超を横浜に訪ね、在野の政党リーダー大隈重信や大陸事情に理解の深い犬養毅を紹介されます。大隈や犬養らは、日本政府がベトナム革命闘争の為に武器援助をすることは無く、それより革命の為の人材養成が先であることや、運動の象徴であるベトナム皇族のクォンデ候を早く日本に迎えるよう促します。筆談ながら、国の前途を賭けた激烈で清新な議論に、同席した柏原文太郎は三国志の英雄の話を聞くようであったと、チャウの人物に大きな魅力を感じています。犬養は陸軍参謀次長の福島安正や東京同文書院々長の根津一らと相談し、最初の留学生4人を中国人の為の軍人養成校「振武学校」と東亜同文会の運営する中国人のための学校「東京同文書院」へ入学させます。
 日本の実情が解るに従い、ベトナム民衆との意識の格差に愕然としていたファン・ボイ・チャウは、「ベトナム亡国史」、「遊学を勧むる文」、「海外血書」などを次々と書き上げベトナムに送り込みます。これを読んだベトナム青年達が、続々と日本留学のため出国してきます。東京同文書院はこれらの留学生のために教室や寮を増設し、軍事教練も組み込んだ特別科をつくってベトナム留学生を受け入れました。最盛期の1908年(明治41)には、200名に及ぶベトナム青年が日本で学んでいたと言われます。ベトナム本国では、維新会が宣伝文書の配布や資金集め、留学生の送り出しを組織的に担当しました。
 このような反仏の動きに危機感を持った仏統治政府は、この時期留学生の親族や支援者に対し摘発を進めていました。日仏同盟の締結で仏政府の強い要請を受けた日本政府は、1908年(明治41)秋留学生に解散命令を出します。この為、多くの留学生は日本を離れますが、残った留学生を抱えたチャウは、資金も底をつき生活は困窮を極めていました。



浅羽佐喜太郎の支援と日本退去 
 借金のあても無くなったファン・ボイ・チャウは、以前行き倒れになった同志の阮泰抜を助けてくれ、そして東京同文書院への入学手続きや学費まで払ってくれた、浅羽佐喜太郎先生にお願いするほかはないと阮泰抜に相談をします。阮の件があり、浅羽佐喜太郎は義侠の人としてベトナム留学生の間でも良く知られていました。
 ファン・ボイ・チャウは窮状を書き、阮に書状を託します。しかし、公のこれまでの厚志に何のお礼らしきこともできていないのに、また援助を求めるのは厚かましいことだと心苦しく思っていました。が、朝持たせた手紙の返事が夕方には戻ってきました。手紙と一緒に1,700円という大金が出てきました。(当時の東浅羽小学校の校長の月給は十八円であった。)その手紙には『手元にはこれだけしかありませんが、またお知らせ下されば出来るだけのことをします。』とほんとうに簡潔であるが、温情のある言葉が添えられていました。
 1909年(明治42)3月、クォンデ候とチャウは日本政府から国外退去を命令されます。10日以内の退去を命令されたファン・ボイ・チャウは、数々の佐喜太郎の支援へのお礼と別れの挨拶のために、小田原・国府津の浅羽邸を訪ねます。阮に紹介され、まず今迄の不義理を詫びますが、佐喜太郎は早々にチャウの手をとり招き入れ歓待をします。佐喜太郎はよく飲みよく談じ、チャウらを守れなかった大隈や犬養を酷評します。
 退去後9年、1918年(大正7)ファン・ボイ・チャウが日本の土を踏んだ時には佐喜太郎はすでになく、佐喜太郎への報恩のために立てられたのが、静岡県浅羽町梅山の常林寺にある大きな記念碑です。
文責:安間 幸甫
http://www.asaba.or.jp/machiokosi/vietnam/kouryu.htm




 常林寺の紀念碑の碑文
 
 
 《碑文訳》
われらは国難(ベトナム独立運動)のため扶桑(日本)に亡命した。
公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。
思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。
蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、
訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む。



蒙空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。
我ハ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ、億万年


              大正七年(一九一八)三月 越南光復会同人
 


※紀念碑裏面には、大正七年三月。賛成員 岡本三治郎、岡本節太郎、浅羽義雄
  とあります。
http://www.asaba.or.jp/machiokosi/vietnam/hi.htm






■浅羽家に伝わる話■
 「あなたたちのおじい様(佐喜太郎)がおこなったことは、気の毒な外国の人を助けてあげたのですから、立派なことなのですよ。でもその人は、フランス政府や日本の警察に追われているインドシナの偉い人だったのです。決して口外してはいけませんよ」と。チャウ達の退去から半世紀余、浅羽家ではこのことを固く秘し続けて来た。佐喜太郎の孫和子さんが、母ゆき江さんからきつく言われていたことである。
(佐喜太郎の孫浅羽和子さん談・・町史 柴田静夫)

 「祖父は病弱だったので郷里の静岡県浅羽町と東京の中間に当たる国府津という海岸の空気の良い場所を選んで病院を建てました。当時は前羽村といっていました。病院の窓から海が見え、波の音が聞こえる所でした。天気の良い日には、大島の三原山の煙が見えたのも憶えています。庭先が急に低くなり、庭の松の木越しに和が見えるという感じでした。私の母の雪江はここから小田原高等女学校に通っていました。
 祖父が亡くなって沼津に移りましたが、その引越荷物の中にベトナム人形やおもちゃが入っていたのを憶えています。祖父とベトナムの留学生との関係は詳しいことは聞いていません。遠州の海か、国府津の海か定かではありませんが、ちょうど今の難民のように、ベトナムの方が鰹船にかくれて乗りつけてきたことがありました。
 言葉は通じないが漢字が分かるというので、村人が祖父のところへ連れて来て筆談をしたことから交際が出来たというようなことも聞いています。ほかにも、汽車で来た人、船で来た人が集まって病院にかくまわれていたそうです。病院にはいつも数十人の貧しい人が住みついていて、その人々の中でベトナムの留学生がグループを作って生活していたそうです。母はベトナムの留学生がギターやバイオリンを弾いてくれるのが楽しみで、よく部屋へ遊びに行ったと話していました。2年以上居ついている人もいましたが、大部分の人が短期間で入れ替わったそうです。病院に迷惑をかけてはいけないという配慮が働いたのでしょう」。やがて、フランスの官憲から通告があって、前羽の駐在所の巡査が調べに来るようになったと母が話していました。実際に小田原警察の刑事に踏込まれたこともあってその後、祖父は何人かの留学生を梅山の実家に移転させたと聞いています。墓と記念碑(東遊運動が遺したもの)南方文化12輯 富田春生著から

http://www.asaba.or.jp/machiokosi/vietnam/asabake.htm


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http://www.asaba.or.jp/machiokosi/

袋井市観光協会
浅羽支部

 【Topics】
観光協会浅羽支部(浅羽まちおこし倶楽部)の
 ブログが新しく出来上がりました!
 ■「浅羽ベトナム会」の活動    ↑こちらもごらんください
     (観光協会浅羽支部のブログサイト)
  ■芋焼酎「幸浦」(幸浦)     ご贈答、御土産にピッタリ☆
     市内酒店にて11/1新酒発売 !!
  ■純米吟醸 あさば一万石     浅羽地内酒店限定販売中 残りわずか!
  ■あさばそだちギフトセット
  2010袋井ベトナム交流会議 
9月11日(土)メロープラザ
浅羽佐喜太郎没100年 2010袋井ベトナム交流会議。
  ベトナム友好85周年記念 
浅羽佐喜太郎とファン・ボイ・チャウの友情が85年経った今よみがえります。
  浅羽太鼓
平成8年結成した浅羽ふるさと太鼓。曲サンプルをお聴きいただけます。
  浅羽昔話 
呑吉和尚天狗になった芝村の小太郎
浅羽町に伝わる昔話を紙芝居形式でお楽しみください。
  アグリ体験隊
農業のまち”あさば”に来て見て食べて遊んじゃおう!
  浅羽特産品
農産地浅羽だからできる本物造りにこだわっています。

チョウ・アサバ町民用姉妹ページ

浅羽町商工会

【あさばブレーメン倶楽部】

袋井市
  更新日:2014.9.30  
  お月見コンサート   
10月4日(土)18:00~ 円明寺にて
  秋まつり  
米の収穫を感謝して町内全域で行われます。10月第2週の土日
  ふれあい夢市場 11月9日開催!
袋井市の”あさば”地域の魅力がいっぱい詰まったイベントです。メロンやお茶などの特産物品のほか、地場産小麦製品を販売するお得な農産物コーナーもあります。)
  ■どまん中ふくろいウオーク  
東海道どまん中ふくろい11月15日(土)
  コスモス畑  終了しました
秋の風物詩、見頃9月下旬~10月下旬
2013年をもちましてコスモス畑縮小の為更新をストップします(コスモスまつりは開催しません)
 
  軽便ウオーク   終了しました
昔懐かしい「軽便路」を楽しく歩きましょう。
  アグリ体験隊  終了しました
家族で農業体験ができます!田植え、稲刈り、さつま芋掘り
  防犯講演会&サマーコンサート  終了しました
7月16日(土) 開場13:00~  開演13:30~
メロープラザにて!  静岡県警察音楽隊の演奏
 入場無料
  観光地引網  終了しました
現在は残念ながら、船の都合で中止となっております。 申し訳ございません。

このホームページは、「私がやらなきゃ誰がやる!?」と言う意気込みの浅羽町民達で設立した、”浅羽町まちおこし協会”が運営しています。
「浅羽ってどこ?」と言われ続けてウン十年。
この町の魅力を多くの方に紹介したり、「行ってみようかな」って思っていただけるよう”小さな魅力づくり”に取り組んでいます。
何もかも忙しい世の中ですが、たまにはのんびりと袋井市「旧浅羽町」でおくつろぎ下さい。

作成中
静岡県袋井市浅名979-1
TEL:0538(30)4050 FAX:0538(30)4888
mail:melon@asaba.or.jp <melon@asaba.or.jp>

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