Lớp người tiên phong ở thời Minh Trị.
Lớp người có những cuộc đời ngoại hạng. Torii chỉ học tiểu học chính qui, đang học thì bỏ dở. Rồi ông tự học tất cả chương trình các cấp phổ thông.
Ông là nhà dân tộc học tiên phong, không có bằng đại học, nhưng 16 tuổi đã tham gia thành lập Hội Nhân loại học Nhật Bản. Đến năm 51 tuổi thì lấy học vị Tiến sĩ Văn học.
Ông là người Nhật Bản đầu tiên đi điều tra điền dã ở nước ngoài. Dấu chân ông rải khắp vùng Đông Bắc Á, sang cả châu Âu và Nam Mỹ !
Đại khái vậy.
Bài đầu tiên giới thiệu cẩn thận nhất về sự nghiệp của Torii lại là của chính ông thầy mình - thầy Suenari Michio.
Tháng 11 năm 2022,
Giao Blog
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Bảo tàng Kỉ niệm Torii Ryuzo - Bảo tàng công lập tỉnh Tokyshima
https://torii-museum.bunmori.tokushima.jp/exhibition.html
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http://www.muse.or.jp/torii/
鳥居龍蔵年表
「東京大学総合研究資料館標本資料報告 第18号、1990」より転載、増補。
年 | 歳 | 事 項 | 参 考 |
1870年(明治3) | 4月4日 阿波国名東郡徳島船場町で生まれる | ||
1876年(明治9) | 6 | 観善小学校に入学 | |
1877年(明治10) | 7 | 小学校を中途退学、以来、高等小学校・中学校の課程を独学・自習。 | 2-9月 西南の役 4月 東京大学設立 |
1886年(明治19) | 16 | 東京人類学会に入会。 | 東京人類学会創設 |
1892年(明治25) | 23 | 東京に移住 | |
1893年(明治26) | 23 | 東京帝国大学理科大学人類学教室標本整理係となり、 坪井正五郎教授に師事。 | |
1894年(明治27) | 24 | 日清戦争勃発 | |
1895年(明治28) | 25 | 8-12月 東京人類学会から派遣され遼東半島の調査 * 東京人類学会より派遣、石器時代の石槍、石斧を収集。析木城(せきぎじょう)付近で2個のドルメンを発見。 | 4月 日清講和条約調印 |
1896年(明治29) | 26 | 8-12月 第一回台湾調査(東海岸の調査) * 始めて人類学の研究に写真を用いる。 * タイヤル、新高(ツォウ)、ブタン、サウ(ザウ)、ツアリセン(ルカイとパイワンの一部)、パイワン、ピウマ(卑南)、アミ、ヤミの諸族を区分 | |
12月 台湾からの帰途、沖縄に立ち寄り、風俗習慣を調査 | |||
1897年(明治30) | 27 | 10-12月 第二回台湾調査(紅頭嶼/こうとうしょ):台湾東南上の孤島紅頭嶼(蘭嶼)でヤミ族の調査 | |
1898年(明治31) | 28 | 6月2日 東京帝国大学理科大学助手に任ぜられる。 | |
7-12月 第三回台湾調査(知本渓以南の南部調査) | |||
1899年(明治32) | 29 | 5-6月 北千島の人類学的調査 *択捉島(えとろふ)、色丹島(しこたん)、幌筵島(ばらむしり)、占守島(せんしゅ)で貝塚、住居址、石器、土器、骨角器の調査 | |
1900年(明治33) | 30 | 1-8月 第四回台湾調査(台湾中南部の調査) | |
4月10日 新高山[=玉山]に登る。 | |||
1901年(明治34) | 31 | 12月 徳島市市原応資氏の三女市原キミと結婚 | |
1902年(明治35) | 32 | 7-翌3月 西南中国の苗族(ミャオ族)調査 *上海から漢口へ、そこから長江(揚子江)をさかのぼる。湖南省の洞庭湖から江に入って遡行し、貴州省に入り、貴陽、安順、朗岱(ろうたい)と、苗嶺の高原地帯を横断。貴州省から勝境関をへて雲南府(昆明)に至る。武定を経て北上、四川省の成都に向かう。成昆鉄道に沿って彝族(イゾク/ロロ)の集中地域を通過する。 | |
著作:『紅頭嶼土俗調査報告 | |||
1903年(明治36) | 33 | 著作:『千島アイヌ』 | |
1904年(明治37) | 34 | 6-7月 沖縄諸島調査 | 2月 日露戦争開戦 |
1905年(明治38) | 35 | 7月28日 東京帝国大学理科大学講師を嘱託さる。 | |
8月28日 長男 龍雄誕生 | |||
9-11月 第二回満州調査 | 9月 日露講和条約 | ||
1906年(明治39) | 36 | 3月 きみ子夫人蒙古バラチン王府女学堂に赴任。 | |
4月 蒙古ハラチン王府教育顧問・男子学堂教授となる。 | |||
1907年(明治40) | 37 | 1月 夫婦、蒙古からいったん帰国。 | |
3月23日 長女幸子誕生 | |||
6月 親子3人で第二回蒙古調査に出発 * 喀喇沁(かくらしん)王府、赤峰を経て北上、シラムレン川流域から大興安嶺を横断して、ブイルノール湖に至る。さらに南下してドロンノール一帯の調査をする。1年に及ぶ東部モンゴルの大踏査を行う。 | |||
著作:『苗族調査報告』 | |||
1908年(明治41) | 38 | 蒙古調査旅行より帰る | |
1909年(明治42) | 39 | 3-5月 第三回満州調査 *南満州の漢代の墳墓、旅順老鉄山の積石塚(クルガン)の調査、大石橋付近まで燕の文化が及んでいたことを発見。 | |
5月3日 父新次郎死去 | |||
1910年(明治43) | 40 | 5月2日 次女緑子誕生夏、朝鮮の予備調査を行う。 | 8月 日韓合併条約 |
著作:『南満州調査報告』 | |||
著作:Etudes Anthropologiques.Les Aborigènes de Formose (1r Fasc.)Introduction | |||
1911年(明治44) | 41 | 春、第一回朝鮮調査 * 金海貝塚、扶余、美林里の遺跡発掘調査、平壌の古墳、済州島 | |
7月 南樺太調査 | |||
1912年(明治45) | 42 | 春、第二回朝鮮調査 | |
6月19日 母とく子死去 | |||
著作:Etudes Anthropologiques.Les Aborigènes de Formose.(2eFasc.)Tribu Yami. | |||
1913年(大正2) | 43 | 第三回朝鮮調査 | |
5月26日 坪井正五郎死去 | |||
1914年(大正3) | 44 | 第四回朝鮮調査 | 8月 第一次世界大戦勃発 |
著作:Etudes Archéolo-giques de Ethnologlques.Populations Primitives de la Mongolie Orientale.Etude Anthropologlques Les Mandchous. | |||
1915年(大正4) | 45 | 第五回朝鮮調査 | |
著作:Etudes Archéologique et Ethnologlques.Populations Préhistoriques de la Mandchourie Meridionale. | |||
1916年(大正5) | 46 | 第六回朝鮮調査 | |
7月6日 次男龍次郎誕生 | |||
1917年(大正6) | 47 | 著作:『平安両道 黄海道古跡調査報告』 | |
1918年(大正7) | 48 | 著作:『有史以前の日本』 | |
1919年(大正8) | 49 | 6-12月 第一回東部シベリア調査 * ウラジオストクに上陸、付近のヤンコフスキー貝塚を調べ、西方に移動、アングル川流域と大興安嶺の地域でソロン、ダウル、オロチョン各族の調査をする。オノン川流域でブリヤート、モンゴル人の調査、積石墓(クルガン)の調査を行う。 * 黒龍江(アムール川)うを下り、沿岸のゴリド(ナナイの一部)、ギリヤーク(ニヴヒ)、ネグダ(ネギダール)諸族の村を訪ねる。 | |
著作:Etudes Archéologiques et Ethnologiques.Les Ainou des Iles Kouriles. | |||
1920年(大正9) | 50 | フランス・パリ学士院よりパルム・アカデミー賞授与 | |
1921年(大正10) | 51 | 5月10日 文学博士号授与 | |
6-8月 北樺太と東部シベリア・アムール河畔の調査 * 再びアムール河口部と北サハリンの調査。サハリンから間宮海峡を渡り、チールで明代の奴児干(スルハン)都司や永寧寺跡を調査、後北サハリンに戻り、ギリヤーク族の村を訪ねる。 | |||
1922年(大正11) | 52 | 東京帝国大学助教授に任命さる | |
4月11日 国学院大学講師 | |||
著作:『北満州及び東部西伯利亜調査報告』師 | |||
1923年(大正12) | 53 | 2月 長男龍雄パリに留学 | |
5月10日 国学院大学教授 | 9月 関東大震災 | ||
1924年(大正13) | 54 | 6月2日 東京帝国大学を辞職 | |
著作:『人類学及人種学上より見たる北東亜細亜』『武蔵野及其周囲』『日本周囲民族の原始宗教』『諏訪史第1巻』『下伊那の原史及先史時代』 | |||
1925年(大正14) | 55 | 著作:『有史以前の跡を尋ねて』『武蔵野及其有史以前』『有史以前の日本改訂版』『人類学上より見たる我が上代の文化(1)』 | |
1926年(昭和元) | 56 | 秋、中国山東省調査。南定県王母山の丘上でドルメンを発見 | |
著作:『極東民族第1巻』『先史及原史時代の上伊那』『第二回第三回延岡付近古墳調査』『人類学上より見たる西南支那』 | |||
1927年(昭和2) | 57 | 1月30日 龍雄パリで客死 | |
8-10月 第四回満州調査。阿什河の金の上京址を訪れる。その後牡丹江(ぼたん)に至る。渤海故城址を調査。 | |||
著作:『上代の東京と其周囲』『水戸光園とアイヌ研究』 | |||
1928年(昭和3) | 58 | 上智大学創立に尽力し、文学部長・教授に就任。 | |
4-7月 第三回東部シベリア調査。。 | |||
4-7月 第五回満州調査。吉林省敦化付近の金の古城址を調査する。 | |||
著作:『満蒙の探査』 | |||
1929年(昭和4) | 59 | 著作:『西比利東から満蒙へ』 | |
1930年(昭和5) | 60 | 8-12月 第三回蒙古調査。 * 東カラチンにある遼の中京城址を調査、北上してワールマンハの慶陵の再調査を行う。 | |
著作:Les Dolmens du Chantong(Chine) | |||
1931年(昭和6) | 61 | 第六回満州調査 | 9月 満州事変 |
1932年(昭和7) | 62 | 7-8月 第七回満州調査・第七回朝鮮調査 | |
著作:『満蒙を再び探る』 | |||
1933年(昭和8) | 63 | 8-12月 第五回蒙古調査 * 東カラチンにある遼の中京城址を調査、北上してワールマンハの慶陵の再調査を行う。 | |
第八回満州調査 | |||
12月31日 国学院大学教授を辞職 | |||
1935年(昭和10) | 65 | 11-12月 第九回満州・北支那調査 * 医巫閭山(いふりょさん)にある遼の東丹王陵を調査、鞍山付近で遼代の再調査、北京にて遼の南京城址、天寧寺の遼の塔聖安寺を調査 | |
著作:『満蒙に於ける契丹の遺跡に就いて』;Ancient Japan in the Light ofAnthropology;『上代の日向延岡』 | |||
1936年(昭和11) | 66 | 著作:『考古学より見たる遼之文化図譜』『蒙満其他の思い出』『遼の文化を探る』 | |
1937年(昭和12) | 67 | 4-翌2月 ペルー・ボリビアでインカ帝国遺跡調査 | 7月支那事変勃発 |
著作:『遼の文化を探る』 | |||
1938年(昭和13) | 68 | 秋、華北における遼及び北宋関係の遺跡調査 | |
1939年(昭和14) | 69 | 8月 燕京大学客座教授に就任 | |
1940年(昭和15) | 70 | 著作:A Pei Wei Buddhist Cave Temple at Hsia-Hua-Yuan | |
1940年(昭和15) | 70 | 満州遼代石墓調査、山西省雲崗石仏、山東省各種遺跡調査 | |
1941年(昭和16) | 71 | 満州遼代画像石墓やドルメンの調査。山西省の遼代城跡や雲崗石窟、山東省をまわる。 | |
1941年(昭和16) | 72 | 12月 太平洋戦争勃発 | |
1942年(昭和17) | 72 | 著作:Sculptured Stone Tombs of the Liao Dynasty. | |
1943年(昭和18) | 73 | 著作:『黒龍江と北樺太』 | |
1945年(昭和20) | 75 | 8月 終戦 | |
1951年(昭和26) | 7月 燕京大学退職 | ||
12月 中国より帰国 | |||
1953年(昭和28) | 82 | 著作:『ある老学徒の手記』 | |
1月14日 東京にて死去 |
参考文献:鳥居博士顕彰全編『図説鳥居龍蔵伝』(1965年)、『鳥居龍蔵全集』別巻(1977年 朝日新聞社)、東京大学総合研究資料館編『乾板に刻まれた世界』(1991)、国立民族学博物館、『鳥居龍蔵の見たアジア』(1993)
http://www.muse.or.jp/torii/
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鳥居龍蔵像 |
はじめに
民族学フィールドワークの先覚者として知られる鳥居龍蔵博士は、学者としての生涯の大半を国内外の現地調査に費やされ、数多くの著作とともに博士自らが撮影した膨大な写真資料を遺された。
鳥居博士の遺された写真資料は、原板のまま永らく東京大学理学部人類学教室に保管された後、東京大学総合研究資料館(現総合研究博物館)に移管されたが、乾板の損傷や劣化が目立ち始めたため、昭和63年度・平成元年度文部省科学研究費補助金総合研究(A)の交付を受け、「鳥居龍蔵博士の日本周辺諸民族写真・乾板の再生・保存・照合」が実施された。その成果のひとつとして「鳥居龍蔵写真資料カタログ4部作」が刊行されたが、本HP制作は、平成19年度・三菱財団人文科学研究助成ならびに全日本社会貢献団体機構の支援を受け、その4部作の写真資料ならびに解説・論文を中心に他の関連資料も収集してデジタル化し、これをホームページ「鳥居龍蔵とその世界」として公開し、研究者のみならず一般の人々の博士と民族学に関する理解と関心を喚起することを目的として実現されたものである。
http://www.muse.or.jp/torii/
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鳥居龍蔵の足跡
「乾板に刻まれた世界・鳥居龍蔵の見た世界。東大展覧会カタログ。1991」より転載。
鳥居の足跡が広大にわたることは周知のことであるが、その密度も濃い。これは、彼がその調査行程を文字通り足でこなしたからであり、交通機関の格段に発達した現在ですら、同じルートを辿ることは気の遠くなるような話である。したがって、海外だけでも30回余りにのぼる調査を、紙上で辿るだけでも容易ではないが、展開の仕方に一定の意志のようなものが働いていると仮定すると、その大筋は意外に分かりやすい。最初の海外調査地である遼東半島を起点とし、台湾、千島、沖縄、西南中国までほぼ南方を中心としてふれた針は、ある時期を境に北にふれ、満州、蒙古、シベリアへ、一時日本国内に向かったが、再び満蒙へ、そしてペルーへの第二の中断の後、最初の海外調査地遼東半島と関係の深い遼代遺跡を追って満州調査へと収儉してゆく。このような針の動きは、彼の研究内容、公的私的生活とどのように関わっているのであろうか。
鳥居の長い研究生活は、その内容により、
- 幼少期以来の芝居など江戸文化への興味から国漢を中心にした自習時代から、人類学の存在を知り上京する22歳まで。
- 人類学に入門し語学や自然科学吸収のための猛烈な努力を開始し、西南中国の調査を期にして自分の研究路線を見定め る34歳まで。
- 東大理学部の講師をつとめながら、東洋史的関心を強め、満蒙、朝鮮の調査を行っていた46歳まで。
- 国内を対象とした調査、著作刊行が中心であったか、東大を辞職後3年目に東方文化院研究員となって山東省の調査を始めた56歳まで。
- 例年のように満州調査を行っていた68歳。
- 北京燕京大学に招かれて滞在し帰国するまでの12年間。
と、ほぼ10-12年ごとに、特色をもった時期に分けられる。
大づかみに見ると、内容的には自然人類学を含む広義の人類学から、先史学・歴史考古学・民族学へ、地域的には南から北へ、学会・大学などの公的機関の要請による学術調査から自己の関心に基づく私的調査へという流れが認められる。上記の区分にそって、その足跡を紙数の許す範囲で追って行くことにしよう(注1)。
形成期 (-1892年(明治25年))(-22歳)
鳥居龍蔵の幼少期 |
徳島の煙草商店に生まれ、絵草子や錦絵などを眺めたり一人遊びを好んでいた鳥居は、小学校に入っても学校の雰囲気に馴染めず、中退し自学自修を始める。その内容は、中学相当の程度を目指す程度の高いもので、古典を含む国語、漢文、英語、生物、地理、歴史など専門の基礎をつけるという目的意識を持っていた。この効率的な独学は、彼の後の学問にも大いに役立ったが、幼少期に集団生活の中で教育を受けなかったことにはマイナス面も有ったと思われる。後に示される学歴コンプレックスは、単に形式的な学歴社会でのハンディという世俗的意味だけではなく、学校教育の意義に彼自身気づいて居たことにも由来するのではあるまいか。また、彼の人間関係においてしばしば見られるぎこちなさは、この時期に社会的距離感を体得する機会を持たなかったことと関係があると推測される。
鳥居龍蔵一家 |
16歳の時、坪井等の始めた人類学会の存在を知り、早速入会し、坪井に手紙を出して教えを乞う。2年後坪井の訪問を受け、人類学を志すようになった。彼にとっては全く新しい専門分野である人類学をマスターするため、和漢の教養を基にした東洋学から、欧米の人類学とくに、自然人類学の基礎を身につけることに目を向け始める。事実上の跡継ぎであった彼が、家業を捨て、見通しの全く立っていなかった人類学の勉学に賭け、上京したのは坪井との出合から3年後のことであった。
修業発展期1892年(明治25年)一1904年(明治37年)(22-34歳)
人類学に関連あると思われた専門的知識の吸収、調査の開始、自然科学から人文科学への転換の決意と、彼の研究史の上でもっとも動きの激しい重要な時期である。上京してから2年間は坪井が英国に出張中だったり、経済的に苦しかったりしたこともあって、順調な滑り出しとは言えなかったが、東洋歴史考古学とドイツ語、ロシア語など語学の習得を始めた。坪井が帰ってからは、理科系の講義の聴講に集中している。おそらく、坪井の強い影響を受け次のような心境に達する(注2)。
東洋の歴史考古学などの研究を捨てる気になり...自然科学としての人類学を専攻することに決した(1958:41)。
この時期は、単に上記のような受け身の知識の吸収だけでなく、坪井の主宰する教室をあげての発掘、土俗調査に参加し、報告書をまとめていた。彼の報告は、数の上では教室の中で坪井に次ぎ、坪井からほめられたものもあったが、過半が踏査的なものであった。当時鳥居は、土器・石器を調べるということはそれほど好まず、基礎学として位置づけていた。こうした聴講や実習の研鑚のなかで、二十五歳に自らの希望で、その生涯を彩ることになる海外調査を開始した。
1894年(明治27年)日本の遼東半島の占領後、聴講していた地質学の神保教授の調査に同行する話が持ち上がった。結局ことわられたが、鳥居は坪井にねだって東京人類学会派遣という名目を取り付け、民間からの寄付金100円を集め、1895年(明治28年)単独で遼東半島に渡り五ヶ月間各地を巡って採集調査を行った。総合的な調査としては前年の秩父浦山調査が唯一の経験であり、占領間もない現地の情報不足もあって初めての海外調査としては準備不足であった。例えば、言葉をとっても陸軍省から渡された仮名書きの『支那会話』が頼りだが、一向に通じないで悩んでいる。石器の採集や、土俗調査などで収穫は有ったが、後の調査に比べると大きな成果をあげたとは言いがたい。しかし、一人の人類学者の調査は、しばしばこのようにして始まるものであり、鳥居の場合もドルメンの発見、遼代遺跡との出合いなど、ライフワークとして晩年に回帰するテーマにふれる体験となった点で極めて重要な意味を持つ。
台東での鳥居龍蔵 |
これにつづく、台湾調査[東海岸(1896、5ヶ月)、紅頭嶼(1897、70日)、南部(1898、90日)、山地(1900、3ヶ月)]は、当初大学で教室からの調査派遣が決まりながら皆が二の足を踏んでいたのを引き受けたこともあって、準備などの点で条件は恵まれていた。当時珍しかった写真機をわが国では初めて本格的に利用することもできた。原住民が土器を作ったり、首刈が実際に行われていた時期の調査で、血気にまかせ新高山(現在の玉山)の日本人としては初登頂を決行している。5年後に出されたヤミ族の報告書は、形質人類学から、物質文化を含む総合的なもので、当時の水準を十分クリアしている。台湾本島での調査も多方面にわたるが、とくに考古学方面では、台湾先史学研究の基礎を築いたとされている。
北千島調査(1899、49日)も、坪井の要請を受けて大学から派遣されたものであった。土俗、考古、形質にわたる調査をしたが、その4年後に出された報告書は、短期間の調査にもかかわらず精細な観察を含む。北千島アイヌの伝統的な風俗習慣が姿を消した現在、きわめて貴重な資料であるだけでなく、彼の民族誌の内でも最良のものとなっている。これは、欧米人の先行研究だけでなく、彼の得意とする日本の古記録をも参照した厚みのある記録になっていることや、消え行く少数原住民への深い共感を持ちながらの調査であったためであろう。また、その調査結果は、皮肉にも師坪井の考えていた北海道先住民コロポックルの実在を否定するものであったが、彼はそのまま発表した。このことが直ちに坪井との関係を冷たくするということはなかった。坪井の度量を示すものであるが、鳥居も教室内において対外調査を任せることのできるのは彼一人であった。
台東付近で調査中の鳥居龍蔵 |
台湾、千島両調査では、計画が先行し、彼に白羽の矢が当たり大学から派遣されるという形を取っていた。形質人類学、考古学の専門化に傾きつつあった人類学教室内にあって、土俗をもこなせ、海外調査の即戦力となりうる鳥居はユニークな存在であった。しかし、彼はこれらの海外調査から帰った後も、報告書の執筆や講演の準備だけでなく、熱心に語学と人類学の基礎作りに励んでいた(注2)。1900年(明治33年)頃、台湾から帰って、坪井にあてた手紙には、地質学、動物学、解剖学、発生学など聴講していることを報告すると共に、「今二十年も経過せば...人類学を大学院程度で学ぶが如き基礎が出来ようかと思います。」と恩師の指導に従って全力を注いでいる意気盛んな姿がしのばれる(1953:78)。このような努力は、30歳をすぎてからも、毎日早朝勤務する東大の文学部でフランス人の先生から、また夜は暁星学校の夜学に通うという形で続けられた(1953:104)。
同じく、大学からの派遣の形を取っているが、中国西南部の苗族調査(1902?1903、8ヶ月)は、台湾原住民と苗族との関連を確かめたいという鳥居自身の希望に基づくものであった。これは、日本や中国で注目を引いていなかったこの地域の少数民族を学術的に調査したという先駆的な意味を持っていたと同時に、鳥居自身の研究にとっても大きな内的転機となった。この調査を機に、理科的人類学から文化的人類学へと重点を変えていったことについて、彼は次のように述懐している。
東京帝国大学助手になっていた31歳の龍蔵は、明治34年、徳島市の女性きみ子と結婚した。 |
人類を動物として研究する人類学(第一部)と、人種、民族の体質、言語、風俗、習慣、神話伝説等を研究する人種学、民族学(第二部)は全く研究方法を異にしているから、分離したほうがよい。初め第一部の方を主としていたが、明治35・6年の苗族で第二部の必要性を感じ、更に、第一部を放棄し、専ら第二部に力を注ぐようになった(1913『全集』第一巻481?482)。
こうした方向転換を敢えてし後の師弟関係、教室内・大学内における地位は、それまでの坪井の指導にそのまま従い自然科学系の知識の習得に全力を傾注していた頃とは、異なったものとならざるを得なかった。鳥居が文学部の匈奴史や支那史を聴講したり、東洋学会設立を手伝ったりしたことから、この微妙な関係が表面化し、理学部内で学部長や坪井の不興をかった。
満州と朝鮮調査1905年(明治38年)-1916年(大正5年)(35-46歳)
満州での鳥居龍蔵 |
1905年(明治38年)東京大学校から、文科大学(今の文学部)の市村贊次郎、工科大学の伊東忠太両氏と共に理科大学から選ばれて満州の現地調査に派遣された。現地では、それぞれ個別の行動をとり、漢代墳墓の発見、満族皇帝の廟にシャーマニズム的遺物を認める等、多くの新事実を見い出したが、この調査は、彼の研究史において南から北への転換点としても重要性を持っている。とくに、東蒙古を訪れたことが、蒙古にたいする興味をかき立てることになった。
翌1906年(明治39年)の蒙古行きも、この時同行した市村教授から蒙古王府学堂の教師の口を紹介されたもので、上記のように教室内で孤立し悩み抜いていた彼は、一切を清算し大学に辞表を出して出発しようとする。坪井、さらには「温厚なる」浜尾総長の慰留を受け辞意を撤回し現職のまま調査に出かけた。出発に当たっては大隅重信、北京では服部宇之吉博士の支援を受けた。彼は、この年を「私の歴史中、最も記念すべく、一大変化をきたした」年と記している。学堂で教えながら、身体計測、童謡の蒐集、石器時代と遼代の遺跡遺物などの人類学的調査にも精を出した。任期を終え、いったん帰国したが、一時は蒙古での永住も覚悟し(『全集』9:568)、同じ1907年(明治40年)6月生後七十日の長女を伴い、親子3人で再び内蒙古を訪れ、危険をおかしながら外蒙古に入るなど一年半にわたる大旅行をした。彼は、この調査を、蒙古における石器時代の確認、遼代に至る将来の研究の基礎研究、および土俗研究として位置づけている。世界的に見ても当時の東蒙古は、民族学的、考古学的調査の未開拓地であった。
鳥居の朝鮮調査は、満州調査の序でに行われた最後の第7回調査を除き、四十代始めから、北朝鮮から南の多島海へと調査地を意識的にずらせながら、毎年集中的に行われた。この間、私的には母親の死と、公的には恩師であり人類学界のリーダーであった坪井正五郎の急死にあい、人類学教室を引き継ぐという大きな事件を経験している。朝鮮調査は、この油の乗り切った時期に都合8回(予備調査を含む)にわたるにもかかわらず、鳥居には珍しく、第5回を除いて詳しい報告書が残っていない。これは、同じく総督府から依頼で1913年(大正2年)から委嘱を受けた関野貞氏ら歴史学者たちの調査分担に縛られていたこと、およびそれと関わりが有ったのか否か不明だが、総督府学務課での第1回報告書紛失事件とによるものであった。
元来、朝鮮調査は、蒙古満州の調査を始めていた鳥居が出版界の知人の紹介をうけて、寺内総督と合い、嘱託となって始めていたものであった。第3回目の時、総督府では関野貞氏らに古建築と古墳の調査を依頼し、鳥居は、石器時代遺跡と生体測定に従事する事になった。彼がこの分担領域をいかに気にしていたかは、自分の調査が考古学と自然人類学および土俗に関わるものであると再三断っていることからも明かである。例えば、第3回調査で慶州からの通信のなかで、「此処はすでに関野博士などの充分調査されて居る所でありますから、なるべくクンストゲジヒテーの如きは単に見物とし、それよりも最も古い新羅六村時代の跡を調べん考えであります。」と記しており(『全集』8:674)、また、再訪した慶州で仏国寺の仏窟庵石仏も「"人類学的に"見る」、とわざわざ断っている(『全集』8:675)。
これは、鳥居がすでに満蒙の調査から、有る程度自分の見通しを持っていて、それが定説と抵触する事に気づいており無用の摩擦を起こさぬよう配慮していたからであろう。かれは、予備調査で、それまで朝鮮に存在しないとされていた石器の存在する事を確認した。さらに、平壌付近の大同江畔の古墳について、今西龍、関野貞らの高句麗説に対し、鳥居は直積発掘に立ち会うことは出来なかったが、盗掘者の所持する遺物、満州での発掘経験、『漢書』、『魏志』等の資料を考慮し、楽浪郡の漢族の墳墓であると断定した。東京でのこの発表に対し、出席者の多数より反駁され、朝鮮研究の権威に対し無礼であると詰責された。『史学雑誌』にも掲載されなかった、と鳥居は述べている。[ただし、実際には鳥居は朝鮮調査を始める前の満州調査で、関野氏らへの反論を『史学雑誌』(1910b『全集』8:603?604)で明確に述べている。]また、鳥居説の正しいことがわかって後も、毎年行われた古墳発掘の仲間に入れず、逆に「鳥居は、楽浪古墳の発掘に関係せず、従って埋葬すら知らない」と嘲笑された(1953:170?171)。潔癖な鳥居は、調査終了後、採集品をすべて総督府博物館に納めた(注3)。朝鮮の石器時代についての見通しを論文に発表しようと思ったが、最終回の調査以後は、「同府の嘱託はとかれ、黒板博士及び東西大学各位の仕事となり、私にはこれに関係させず...その他の人もこれに入れないで、官学学者唯一となったから、私は遂に総結論をもすることができず、そのままになった。」(1953:174)と記している。孤高を貫いた鳥居の対人関係が、調査の進行と報告の作成にまで直接影響を及ぼした点で、朝鮮調査は、こうした直接の制約を受けなかった他の地域の調査と比べ特徴的である。
予備調査を入れ8回にわたる朝鮮調査では、生体測定、石器時代の遺跡、民俗やシャーマ二ズムが主要テーマであった。これらの成果の一部は、雑誌論文などに発表されているが、詳細な記述は第5回を除き、ついに発表されなかった。風俗に関する記述や今回展示された写真のうちにも、当時の姿をしのばせる貴重なものが触れられているだけに、その資料と克明な日記や朝鮮に残された写真原板が一部を除き生かされなかったのは惜しまれる。
国内調査1917年(大正6年)-1926年(大正15年)(47-56歳)
この10年間、彼にしては珍しく海外調査は2回のシベリア(1919、7ヶ月、1921、3ヶ月)、山東省(1926秋)のみであった。むしろ、国内調査を精力的に行っている。主なものだけでも、大阪毎日新聞社社長木山氏の依頼による大和地方の石器土器遺跡の調査(1917年7・8月)、長野諏訪(1918年11月)、長野(1920年4・5月)、福島・新潟の考古学調査(1920年7・8月)、長野伊那・木曽考古学調査(1921年8月)、徳島城山貝塚の発掘(1922年4月)、宮崎延岡(1925年10月、1926年4月)などであり、その結果をもとにした著書の出版もこの時期に集中している(注4)。また、東京市公園課の委嘱を受けて史跡調査を行ったり、彼が中心となって創立した武蔵野会から1917年(大正6年)に雑誌『武蔵野』を発行している。
鳥居の国内調査(注5)は、東アジア全体を視野においての日本人および文化の起源が主要なテーマであり、日本民族の複合起源論、騎馬民族説や畑作農耕の重要性など後の仮説や定説の先取りをしているところが少なくない。それだけでなく、地方誌レベルでも、啓蒙的活動と共に、当時の時代的環境のなかで学問的良心に沿った発言をしている場合がある。例えば、宮崎延岡の古墳調査への要請は、日向神代史を実証してもらおうという宮崎県知事や一部地方人士の思惑も加わってなされたものだったが、「易や霊感で皇祖発祥の地であることがわかれば、特に学術調査の必要がない」と批判し、神話と正しい歴史上の事実を区別する必要を説き、御陵とされる古墳は日向の古墳中最も古い形式のものとは言えないと真っ向から述べている(『全集』4:633?637)。
このように、いわば関心が国内に向けられたのは、これまでの海外調査のまとめにかかっていたこと、1913年(大正2年)坪井急死の後を受けて東大人類学教室の主任としての仕事が忙しかったことによるものであろう。また、この時期は、1924年(大正13年)に東大を辞職するまで、1920年(大正9年)のパリ学士院からパルム・アカデミー賞、その翌年文学博士の学位を得たこと、パリの万国連盟人類学院の正会員に推薦されるなど彼の生涯で世俗的には最も安定した時期であった。
満蒙・ペルー調査1927年(昭和2年)-1938年(昭和13年)(57-68歳)
1927年(昭和2年)南満鉄道本社での学術講演の序でに行った金、渤海の古址調査を皮切りに、翌1928年(昭和3年)東部シベリア第3回調査1カ月の後満州に人り、漢代および遼墓を発掘、7月にいったん帰国したが、8月から4ヶ月間ゴビの砂漠地帯の遼代遺跡を訪れている。還暦を過ぎても、現地調査の密度は衰えることなく、満州(1932、2ヶ月、1933、1935)、蒙古(1930、5ヶ月、1933)と続けられていく。遼代文化が主要な対象であり、晩年のテーマへとして収斂していく。さらに文化使節として南米(1937?1938、11ヶ月)にも渡り、インカの遺跡などを訪れている。同行した次男の龍次郎氏によると、使節とはいうものの、現地費用は自前で補えという調子だったので、在留邦人会の後援を受けたり、龍次郎氏が出先機関とやり合ったこともあったと言う。ティヨ教授の発掘現場を訪問。話をしている内、ラドクリフ・ブラウンが鳥居家を訪問した(注6)と聞くと教授の顔色が変わり、至極懇切丁寧な応対になった。当時、外交上日本が問題視されていた頃であり、同行してこの様子を見ていた領事館員が、学者による文化交流をもっとやらないといけないと語っていたという。この時期の調査は、夫人、長女、次女、次男がそれぞれ役割分担を受け持っての一家をあげての調査が多い。
また、国學院大学、上智大学の教授として、多くの後進を育てた時期でもあった。大著『考古学上より見たる遼乃文化図』の出版も終え、普通なら隠退悠々自適の生活に入るところであろうが、彼はさらに外地での調査研究続行の通を選んだ。
中国滞在1939年(昭和14年)-1951年(昭和26年)(69歳-81歳)
北京の燕京大学ハーバード燕京研究所の客員研究員として招かれ、終戦後まで十二年間滞在した。アメリカ系の燕京大学で厚遇され、学内は自由な雰囲気があった。しかし、学外では排日運動の盛んになる時期でもあり、また逆に日本の興亜院などの諸機関よりは白眼視され、在中日本人社会からは孤立せざるを得なかった(『全集』6:658)。当時、鳥居は、日本人は中国民族の強さを知らない。悲しいことだが、中国は大きすぎる。戦火を拡大すればするほど、日本人は負けいくさに追い込まれるだろうといつも嘆いていたという(『全集』6:658)。
北京での生活は遼文化の研究に集中し、戦争が始まるまでの二年間はその遺跡をたびたび訪れ、七十歳を過ぎても現地調査報告書(1942 Sculptured Stone Tombs of the LiaoDynasty 『全集』5:554?635に翻訳収録)を英文でまとめているのは流石である。この画像解釈には、彼の東洋学や日本古典の博識が生かされている。一方、かつての総合人類学としての自然科学的側面への関心は全く薄れている。同じ頃、鳥居は別のところで、契丹の文化は基は簡単なものとのみ考えて居りましたが、調べれば調べるほど歴史考古学上や美術史的のものとなり、いつの間にか五代から北宗のそれになって来ました。しかしこの時代は、考古学として未だほとんど未開の原野ですから、新たなる衣裳を着て出るには最も良いところがある... 学界に一エポックを形成し... (『全集』6: 656)と、新たな境地開拓への闘志を燃やした心境を綴っている。
龍次郎氏によると、戦争が終わり閉鎖されていた燕京大学も再開され、多くの日本人が引き揚げるなかを、アメリカ人牧師のJ.L.ステュアート学長から「日本に今帰っても大変だからここに留まった方がよい」と引き留められ、静かな研究生活を続けることが出来た。内戦後1949年(昭和24年)共産政権になっても、燕京大学教授として研究に専念することが認められた。しかし、燕京大学自体が北京大学に併合されるなど騒然として来たし、学長も、「帰るなら、あえて引き留めない」と言ったので、中国政府らからは、一生残って欲しいという要望もあったが、帰国することにした。邦人の多くが抑留されたり、持ち帰りの荷物に厳しい制限をつけられた当時、鳥居に対しては蔵書から家財までほとんど無制限に近い破格の取扱いだった。ただし、明代以前の書物は置いていってくれとのことだった。リストを提出したら、龍次郎氏の読んでいた本一冊とFrom Ape to Manを出せと言ってきたが別に没収はされなかった。これを見ていた鳥居は何がおかしいのか笑っていた。
帰国後の鳥居は、その晩年の二年間、講演や回顧録ともいうべき『老学徒の手記(1953)の執筆に取り組んでいたが、調査についても龍次郎氏が南米を再訪してはと言うと行こうかと乗り気であったという。
以上、鳥居の調査を時期に分け逐ってみたが、ここで、なぜ、このような足跡をたどったのかという問題について考えてみたい。言い換えれば、時計の針をこのように振れさせた要因は何かという疑問である。 その答として、日本の対外侵出との結びつきに求めることも可能であろう。 たしかに彼の調査と日本の対外侵出とが時期的に一致し、現地で軍や出先機関の便宜を計ってもらっていることは事実である。
1984年 日本軍による遼東半島の占領?1985年遼東半島の調査
1985年 日清戦争後の台湾領有?1896年、1897年、1898年台湾調査
1899年 千島列島視察の軍艦武蔵に便乗して現地に赴く。
1910年 日韓併合
1911年ー1916年朝鮮調査。
1918年に始まるシベリア出兵
1919年 東シベリア調査
1920年代の北支・満州侵出
1926年山東省調査
1927年 満州調査
と、まさに対外侵出の影を追うようにして調査地に入り込んでいる。しかも、時期的に一致するだけでなく、彼自身総督をはじめ現地の上層権力者であった行政官や軍人に会い、その肋力を得ていることも事実である。問題は、この事が、その調査内容や結果にどのような影響を与えたかにあろう。
まず、書いたものを読む限り、彼自身こうした関係を後ろめたく思ったり、公表を躊躇したりしたことは無く、また、もちろんそうした関係を誇るでもなく、むしろ、淡々と書いているという印象を受ける。当時の状況で、こうした出先機関抜きに現地調査をすることは不可能に近かったであろうし、こうした侵出が植民地主義、帝国主義と結びついた暗い面を持っているということは、現在ほど人々の意識にのぼらなかったのではなかろうか。その意味で彼も時代の子であって、遼東半島返還を嘆く文、日韓併合を支持する文も書いている。もっとも、朝鮮大同江古墳の高句凝説が、「中国政府に対する政治上のポリシーからも好都合であった」ために唱えられていると、その学説の主張者自体よりも、背後にある人物を糾弾しているところを見ると、学説が権力と密着する可能性については、ある程度気づいてはいたらしい。ただ、自分の直接関係無い場合にまで広げ取り上げて問題にすることは無かった。
しかし、それだから彼の調査は権力と密着していたに違いないとと即断するのは短絡的すぎる。主体性を保ちながら、権力の意図とは無関係な学問的業績を挙げる可能性を全く否定する訳には行かない(注7)。とくに、鳥居の場合、自分は学術調査を行っているという意識が、恐らくは時流に乗った官学の学者たちへの対抗意識やコンプレックスとも関係して、人一倍強かったために、常に、学術調査のための便宜を正面から要請するという姿勢が強かったと思われる。彼の人柄と、学会、大学、知人の紹介状、さらに次第に高まってくる名声などもあづかって、多くの人々は、そうした条件無しの支援を惜しまなかった。もちろん、うまく行かなかった場合もあったが、相手の人物に関する否定的な感情や感想は、特別の事件の場合以外(注8)あまり書き残していないし、その場合ですら淡々としている。
植民地発展の先端部を調査しながら、それに伴う現地での摩擦や独立運重力などの動きが、文章はもとより写真でもほとんど感じられないのは、それに関心が希薄だったこと、当時まだ先鋭化していなかったことにもよろう(注9)。しかし、初期の調査であった南方面はともかく、時間的厚みを伴って行われた北とくに満蒙についての調査においてすら、この面が全くといって良いほど現れないのは、主たる対象が考古学的遺跡および遺物であり、土俗方面においても伝統的側面であったことに因ると思われる。
当時の外国の探検調査などにありがちな軍事的調査に関与していたことを示す事実は筆者の調べた限りでは全く無い。終戦後に書かれたものではあるが、彼は次のように述べている。
一体私達が蒙古に来た目的は、軍国主義の使命を果たすためでなくて、蒙古人に親 しみ、文化的に彼らを教育すると共に、私の専門とする人類学・考古学をこれから 研究せんがためである...若しもこの希望がなければ、私達は蒙古に来ないのである(1953:120)。
これは、彼に対する戦後の中国側の扱いから見ても額面通り受け取って良いように思われる。また、彼自身の調査が手持ちの資金切れで帰途につく場合がしばしばあることも、潤沢な資金をもとにした諜報活動などとはほど遠いものであったことを示す間接的な証拠になろう。きみ子夫人は、「次から次へと興味溢れる発見に、私共の研究熱は何処までも止度もなく燃えてくるのである。でも今少しと思うときいつも定まって旅費が欠乏して居る為多くの希望を残して帰って来るのが常である。こんな時亜米利加あたりの探検隊がうらやましくてならない」と記している。
また、大学に奉職しながら、毎年のように海外出張を繰り返していたのも、特別な地位や権利を享受していたというより、恐らくは周囲の理解と多少の摩擦を覚悟の上での時間的やりくりの結果であったろう。
鳥居博士は金もうけに縁がなく、調査出張の費用がかさむ。その出張の時間的余裕は、教授時間数が少なく、学生数の少ないため融通がきくのであり...(村山恒雄 1970.03:87)、むしろ、彼の調査が対外侵出と期を一にしたのは、日本の隣接地城への学問的関心が実地調査で生かせる可能性が生じた場合にはためらわず利用するという彼自身の姿勢に因るものである。これは、例えば、次のようなシベリア調査についての記述にもよく表れている。
東部シベリアの人類学、考古学は、我が国学者として大いに比較研究すべきものであ る...機会あらば、該地に赴き実地に調査しようと思っていた。然るに、シベリアは 帝国露国の領土で、学術上の調査といえども、なおこれを許さないのである...然る に時なる哉我が国と米国とはシベリアに出兵せねばならぬこととなり...ここにおい て、私の日頃の研究欲は勃発し、直ちに東京帝国大学より派遣されることを申請し、 陸軍省の許可を得て、ついにシベリアにゆくことになった(1953:178)。
こうした姿勢を現代の基準から批判することは容易であろう。しかし、当時こうした機会を禁欲的に見守っているいたとしたら、彼の学術的業績や資料の多くは残らなかったであろう。 なぜ、後半生の研究を満蒙に集中する事になったのか、という疑問については、彼の東洋歴史および考古学への興味、たまたま彼が東大での関係を清算して新天地を求めた地であったこと、長期滞在の可能性といった外的要因も作用したであろうが、対象となった民族との相性もひとつの要因ではなかったろうか。彼の調査を通して、対象にもっとも強い関心を抱いたのは、おそらく北千島アイヌと蒙古人であったと思われる。もちろん、台湾の平埔族や西南中国の少数民族の場合にも、漢族に取って代わられる民族の悲哀への同情が認められ、とくに当時消滅の瀬戸際にあった平埔族の写真に緊迫感のあるものが多い。北千島アイヌの場合には、ごく僅かしか残っていない人々のアイデンティティが目の前で失われようとしていることへの悼みが、いっそう濃厚に反映している。一方、二百万人を越える蒙古人においてこうした絶滅の危機感とは無縁であるが、漢族の浸透が蒙古人の生活区域を次第に狭めて行くことへの危惧を、長期滞在で知り合った蒙古の人々と共に感じているところに由来する。この危惧は、現在遊牧民の定住化と漢族の奥地への流入という形でいっそう深刻な局面を迎えている。加えて蒙古人に出会って多くの日本人が抱く親近感も有ったであろう。現地語を績極的に習得し、実際にも用いたりしたのは、蒙古調査のみであった。いわば、腰を据えた現地調査であっただけに、その学問的関心が文化とくに社会面へ向けられなかったことが惜しまれる(注10)。また、こうした近い関係にあったとすれば、その写真も他とは異なった写り方をしたであろう。また、東京大学理学部に残されていた写真乾板のみを復元した今度の展示会には、東京大学辞職後に写されたものは入っていないので、残念ながら蒙古の写真を見ることは出来ない。
最後に、こうした足跡から生み出された人物像について気づいたことを述べて見たい。鳥居の評価は、両極に分かれる嫌いがある。これは、自他ともに誠実であることを求め、在野意識の強かったことから、敵味方をはっきり区別し、批判と受け取ると猛烈に反発するという彼個人の性格に由来するところも少なくないが、善玉悪玉に分け平面的レベルの理解でよしとする世間一般により多くの問題があるのでは無かろうか。鳥居の言動全てが正しく、相手が間違っていたという一辺倒な評価は、彼の真価を覆いかくす恐れが有るし、反対に当時の学説の水準や脈絡を考えず一部だけを取り出して酷評するのも意味が有るとは思えない。
同情的な立場からのものとしては、例えば、東大辞職後「再び東大の門を潜らなかった。いや潜らなかったのみでなく、本郷に所用があっても東大側の道を歩くのを潔しとしなかった。」(松本1976.09:732)という逸話があげられる。これは、受難者のイメージにふさわしいが(このようなイメージ形成には彼自身の言動も全く無関係であったわけではないが)、彼が書いたものを読んで浮かび上がってくる人物像からはほど遠い。実際、1913年(大正2年)長男龍雄氏のフランス留学に際し東大理学部に行っているし(鳥居博士顕彰会 P.89)、1935年(昭和10年)には東大法学部講堂において第一回東方文化講演を行い(中川1970.03ニ47)、また、戦後帰国した時は、理学部人類学教室主催の歓迎会にも出ている。辞職の原因となった当の松村瞭氏についても、人類学の流れについて述べる場合に、もちろん高い評価は下さないものの無視したり感情的反感を交えるような書き方はしていない。
反対に否定的な立場からのものとしては、例えば馬淵東一(1987)は、台湾原住民の起源に関する鳥居の着想の価値を聞かれて、鳥居が北海道の洞窟の絵文字を見て「我北海道に上陸せん」と解読したという伝聞を引き合いに出して否定的に答えている(『台湾の民族と文化』148頁)。これは、突厥文字と比較し綿密な考証を加えた鳥居の論文(「北海道手宮の彫刻文字について」『全集』3:540?546)の存在を知っていれば、根拠の無いことが明かな話であり、聞き覚えをもとにした、気軽な昔を偲ぶ座談会での馬淵らしくない不用意な発言であるが、当時一般に「中央の学会」にはこうしたいわれの無い噂話をもとに極端に低い評価を与えようとしていた風が有ったことを示している(同上)。
このような誇張された世俗的評価を取り外して見えてくる鳥居の人物像はどのようなものであろうか。もとより彼は、八方美人的な意味での社交性を欠いていた。これは、幼時からのさまざまな体験(小学校に馴染めなかった、上京してからの苦労など)に基づく反骨精神等にも因ろうが、単純に学者として、自分の進む通が見えて没頭すれば、世間的なつきあいは程々になるのが自然で、特に彼のように守備範囲を広げた場合には、金はともかく時間のかかる趣味に無関心であり、自ら社交のための行動を取らなかったのは当然であろう。
私はあまり外出して人と交際することを好まない。この性質から、自ら先輩や友人を訪うたことは最も必要の外は一切しない。また東京に来てから一度も避暑・避寒に行ったこともない。もとより私の宅を訪問せられる各位に対しては、歓迎し... (『全集』12:415?416)。
父はお客様とお話して、いつも上機嫌ということはないので...(藤原英比古1970.03:165)
彼は、その高名や学識をひけらかしたり、偉ぶったりすることからはほど遠い一般には謙虚な態度を示すタイプであった。師や先輩を立て、弟子を可愛がる点では人後に落ちなかった。人間関係でぎこちなさが有ったとすれば、横のつながり、とくに学問的にかかわりをもつ他人に対してであったろう。これは、若い人から新しい考え方を吸収することを妨げ、一見学界の進展から取り残されるようになった原因となったのではなかろうか。
武蔵野会の同人は、忽ち100人を越えるようになった...。予備知識の無い素人に は、愛想よく懇切であったが、ご自身が歩まれたひた向きな研究心を標準として見 られるので若い者には相当辛らつな激励の言葉をかけられるので、後学の青年たち からは不平を起こされたことも多かった。先生の研究とは方向が少し違う学究の人 たちには極めて露骨な表現をされたこともあった(井下清1970.03:39)。
しかし、この事は、彼が前半生をかけて作りだした学問的スタイルをくずさず守り通したことを意味する。それは、経験の積み重ねに基づく洞察力を保持し、発見とその記録だけでなく、その後の進展の正しい方向を指し示すというパイオニアの役割を十二分に果たすのにはプラスになったのかも知れない。事実の点で決着のついたコロボックル説の否定、楽浪郡墓漢代説などはもとより、日本民族の複合起源論、騎馬民族説、照葉樹林文化論などその後に唱えられた仮説が彼の考えていた着想に沿うものであったことは(注11)、彼の足で調べた経験の確かさに由来するものであろう。
[後注]
注l)鳥居龍蔵の各地域における足跡については、すでに『東京大学総合研究資料館所蔵鳥居龍蔵博士撮影写真資料カタログ』に共同研究の成果として各メンバーによる力作がまとめられている。また、『図説鳥居龍蔵伝』をはじめとして数多く要をえた記述がある。なお、鳥居博士の次男である龍次郎氏には、3度にわたってお目にかかり、興味深いお話をうかがった。万一、意を尽くさない点があれば、専ら筆者の責任である。
注2)このような動物学まで含む広範な自然科学を直接人類の研究に応用しようという立場は、寺田(1975)も指摘しているように、人類学創草期にしばしば見られる壮大で実現不可能な企てであり、また林(1985)も述べているように、理科的学問は鳥居本来の素養とは馴染まず、彼のパーソナリティ形成に負の影響を及ぼしたと見ることも出来よう。しかし、少なくとも形質人類学的素養は、初期の調査で、当時の水準としては充分な成果をあげたし、その総合的アプローチにより広い見通しを得たことの意義は少なくないと思われる。
注3姜仁求『韓国 前方後円墳 舞妓山 長鼓山 測量調査報告書』(精神文化研究所)P.28によると、総督府の資料を引き継いだ、ソウルの景福富宮中央博物館に20、000枚の原板が残され、名前は書いてないが、中に鳥居らしい人物の写ったものが有るという。
注4)主要な日本に関する著作は、以下の通りである。
http://www.muse.or.jp/torii/
..
鳥居龍蔵博士およびその写真資料について
「東京大学総合研究資料館標本資料報告 第18号、1990」より転載。
東京帝国大学の人類学教室の初代主任教授であった坪井正五郎博士は、人類学の創始者にふさわしく、人類研究に際し広範な興味を抱いていたが、後進の指導や啓蒙に精力を傾けた上、比較的短命な人生を過ごされたため、フィールドに出る機会は必ずしも多くなかった。これに対し、鳥居龍蔵博士は坪井教授の意志をよく継ぎ、まさにフィールド調査の申し子のように、学者としての人生を国内、国外における現地調査にあてられた。かたわら、その著作は膨大なものとなっているが、今日、『鳥居龍蔵全集』全12巻、別巻1巻 (1975-77年 朝日新聞社)に纏められている。博士蒐集になる民族資料は永らく東京大学理学部人類学教室に保管されていたが、今日では、すべて国立民族学博物館に移管、保存されている。
鳥居博士の遺された遺産である同博士撮影の写真資料は前記人類学教室に保管されていた後、今日では、東京大学総合研究資料館に移管されているが、写真本来の性質のため、昨今、急激に損傷が目立ち、写真乾板はカビにより侵蝕され、またアルバムなどに貼付された写真も黄褐色に変色し、さらに、これらの一部は修復不能にまでいたっており、関係者の憂慮するところであった。
幸い、昭和63年度・平成元年度文部省科学研究費補助金総合研究(A)(課題名「鳥居龍蔵博士撮影の日本周辺諸民族写真・乾板の再生・保存・照合」研究代表者:香原志勢)の交付を得て、これら写真類の再生をなすことができるようになり、今後の研究者の用にも立つべく、保存することができた
。 鳥居龍蔵博士の写真記録は本邦における人類学・民族学の野外調査に使用された写真の嚆矢となるものであり、日本写真史の面でも貴重な資料である。今日では、人類学・民族学の分野では、写真記録はフィールド・ノートと同じ意味をもつ基礎資料であり、カメラもフィルムも軽量で携帯に適し、撮影に際してもとくに技倆をもたずして、ある程度の成果を得ることができるが、往時は、写真撮影は大がかりなものであり、写真機は大型で、荷としてかさばり、また乾板はガラス製であったため、割れやすい上に、重く、相当程度の枚数を撮るためには、大変な量の荷を背に担がねばならなくなり、一方、撮影技術も熟練を要し、速写性はなかった。
しかし、本邦に写真機が導入されるや、博士はその意義を十分に評価し、野外調査に際しては専門の写真技師を同行させ、写真記録を得た。まさに、慧眼のいたりというべきであろう。 博士の時代においては、日本および周辺諸国の人類学、民族学の上での写真記録は、ヨーロッパの学者によるものを含めても数少なく、一方、近代化が急激に進んでいるため、人々の服装、風俗、景色は、今日では推測し難いほど、激変している。そういう状況では、鳥居博士による写真記録はきわめて貴重であるといえよう。
博士が国内、国外で調査旅行を重ねた時期は、19世紀末から20世紀前半であるが、この時期の日本は明治維新に伴う社会変動がようやく鎮静化し、国民の関心も次第に海外、特に東アジアに向けられていた時代に相当する。こういう中にあって、博士は物質的な国益を求めるわけでもなく、周辺諸民族の生活の実態、文化のあり方を知識として探求するために、率先してこれらの土地を渉猟したのである。土地によっては治安は好ましくなく、旅行者として生活は厳しかったが、博士は不動明王のごとく、これらを観慮することなく、調査研究に邁進した。満州(中国東北部)や蒙古(モンゴル)のような、匪賊の出没する辺境にもでかけた。事実、保存されている写真の中には、陸軍将校が同席していたり、武装した兵士の立っているものもあるが、博士自身は反権力の学者であり、決して権力をかさにした調査ではなかった。
その一例として、内蒙古の調査を了えて、博士は西烏珠?沁(ウジュムチン)の護衛兵を伴い、外蒙古に入ろうとしたが、越境は許されなかった。そこで、博士は「自分たちは嬰児まで伴って、遠路ここまでやってきた日本の平和的な学者夫妻である。それなのに、同じ仏教徒である蒙古人が入境を拒むのは何事か」と一喝した。外蒙古の役人はその勢いに態度を改め、内蒙古の護衛兵を除く博士たちを迎え入れた。後に喀爾喀(ハルハ)王府は博士らを手厚く接待したという。
このような危機を博士は幾度も切り抜けたらしい。博士の滞在する村の隣村を襲っても、匪賊は博士を襲うことはなかった。博士をしてここまで到らしめたのは、一つにはその学問愛であり、学問に対する使命感であった。博士はいわゆる俗界を超えた学者であり、時には山高帽を被ったまま、旅舎の風呂につかっていたこともあったという。そのため、調査にあたって、凡なる随伴者は耐えられず、しばしばメンバーは代わったと伝えられているが、そのたびに協力したのがきみ子夫人と御子息、御息女の一家であった。
博士の調査旅行は当時の新聞のよく報ずるところとなり、そのロマン溢れる調査活動のスケールの大きさは日本国民の心情を揺さぶり、しばしば博士は国民的英雄の扱いを受けたという。それがそのまま日本の学界に定着していたならば、日本の人類学、民族学は、早くして欧米のそれに遜色ないものとなったであろうが、遺憾ながら、さまざまな理由でそのように事態は発展しなかった。
博士を生んだ徳島県の東隣りの和歌山県からは、民俗学、粘菌学の民間学者南方熊楠翁が現われ、また西隣りの高知県からは植物分類学の牧野富太郎博士が出ているが、鳥居博士を含め、これら三者は正規の学歴をもたないまま、各自それらの博物誌学を大成し、不世出の碩学、偉材として人びとの尊敬をかちえている。しかし、裏を返していえば、これら三方は十分な学歴を充されなかったればこそ、その奥に潜む本当の意味でも学問の味を知り、それだけに学問を愛し、崇め、そして、その学問的必然に従ったといえよう。とりわけ、鳥居博士は身辺に危機が迫っても、平然としていたというが、それは学問を背に負う信念があったればこそ、俗界の怖しさを体感することがなかったといえよう。
なお、写真記録を整理して気づくことは、かなり丹念なメモが付せられていることであり、また著作との関連で、これらを検討することができる。しかし、長年月の間には、そのメモが逸散したり、判じかねることがあり、それだけに、本館に残る他の資料を含めて、データベースの完成につとめる必要が感じられ、また、記録の仕方の簡単な整備法の確立の必要が痛感された。
本研究にあたり、鳥居龍蔵博士の御次男で、なお、1964年(昭和39年)に開館した徳島県立鳥居記念博物館の鳥居龍次郎先生には、ひとかたならぬ御世話と御指示を賜った。また、かつて台湾総督府に勤務され、御自身、膨大なる高砂族資料を所蔵、整理されている瀬川孝吉先生からも絶大な御協力を得た。あわせて御二方に、心からの謝意を呈したい。尚写真乾板のプリントと複製については塚原写真事務所、塚原明生氏の協力を得たことを感謝するとともに明記しておく。 本鳥居龍蔵写真資料カタログ4部作(東京大学総合研究資料館・標本資料報告第18・19・20・21号)は、昭和63年度・平成元年度文部省科学研究費補助金総合研究(A)(課題名「鳥居龍蔵博士撮影の日本周辺諸民族写真・乾板の再生・保存・照合」研究代表者:香原志勢 課題番号:63300013)および平成元年度文部省科学研究費補助金重点領域研究(課題名「先史モンゴロイド集団の拡散と適応戦略」領域代表者:赤澤威 課題番号:01643002)ならびに東京大学総合研究資料館平成元年度特別研究整理費の成果刊行である。
http://www.muse.or.jp/torii/
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鳥居龍蔵撮影の写真資料
「東京大学総合研究資料館標本資料報告 第18号、1990」より転載。
本館(東京大学総合研究資料館)、人類・先史部門には多数の写真乾板資料が保管されている。その実数は未だ確認されていないが、数万枚にのぼるものである。資料の内容は基本的には二種類に大別される。一つは、東京帝国大学理学部人類学教室および人類学会が主宰した遺跡調査の際に撮影された日本先史遺跡に関するものであり、もう一つは、主として鳥居龍蔵が東京帝国大学在職中に国内外の広範な地域で実施した野外調査の際に撮影した一連の写真資料である。
私どもは、昭和63年度・平成元年度文部省科学研究費補助金総合研究(A)(課題名「鳥居龍蔵博士撮影の日本周辺諸民族写真・乾板の再生・保存・照合」研究代表者:香原志勢 課題番号63300013)の研究補助のもとに、上記写真資料のうち後者、すなわち鳥居龍蔵によって撮影された写真乾板について、その再生および保全作業を実施した。本カタログはその作業の結果の一部を収録したものである。
以下、本科学研究費プロジェクトの研究組織、研究内容、作業内容、および今回刊行するカタログの内容について説明する。
氏名 | 所属(平成元年度現在) | 役割分担 |
香原志勢 | 立教大学 | 研究代表者 |
鈴木昭夫 | 東京大学 | 写真乾板資料のプリントと複製 |
石川栄吉 | 中京大学 | ミクロネシア関係写真の照合・分析 |
伊藤亜人 | 東京大学 | 朝鮮関係写真の照合・分析 |
笠原政治 | 横浜国立大学 | 台湾、沖縄関係写真の照合・分析 |
末成道男 | 聖心女子大学 | 台湾、朝鮮関係写真の照合・分析 |
曽 士才 | 法政大学 | 西南中国関係写真の照合・分析 |
谷野典之 | 立教大学 | 満州関係写真の照合・分析 |
土田 滋 | 東京大学 | 台湾関係写真の照合・分析 |
中川 裕 | 千葉大学 | 千島関係写真の照合・分析 |
姫野 翠 | 昭和音楽大学 | 台湾関係写真の照合・分析 |
及川昭文 | 国立教育研究所 | データベース構築 |
赤澤 威 | 東京大学 | 資料整理 |
■写真乾板資料
当該研究の対象となった写真乾板資料の総数は2545枚である。その内訳は下記の通りである。地域分類は、写真乾板を収納する箱に記入されていた名称にもとづいている。
地域分類(種別コード) | 写真乾板数 | ID番号 |
アイヌ(A) | 82 | 1001~1082 |
エスキモー(E) | 24 | 2001~2024 |
満州(M) | 75 | 3001~3075 |
日本(J) | 174 | 4001~4174 |
朝鮮(K) | 164 | 5001~5164 |
琉球(R) | 179 | 6001~6179 |
台湾(T) | 834 | 7001~7834 |
南洋(N) | 649 | 8001~8649 |
マレー(I) | 37 | 9001~9037 |
苗(B) | 173 | 10001~10173 |
猥楳(L) | 30 | 11001~11030 |
各地人種(Z) | 61 | 12001~12061 |
地域不明(F) | 53 | 13001~13053 |
その他(S) | 10 | 14001~14010 |
計 | 2545 |
以上のうちで南洋およびマレーに分類されている資料は、東京帝国大学人類学科初代教授長谷部言人博士が撮影したものである。
■研究の目的と方法
1.保存用オリジナル写真フィルムの作成
写真乾板(キャビネ版サイズ)を六ッ切サイズ(8×10インチ)印画紙にプリントし、そのプリント画像を6×7cm白黒フィルムで複写した。このフィルムをオリジナル写真フィルムとして保存することとした。なお、このフィルムは2セット作成した。
2.データシートの作成
それぞれの写真が有する各種の情報、属性を抽出し、写真と併せて恒久的に保存、利用できるようにするため、各地域の専門研究者が各写真を解読するとともに、野外調査を含めた情報収集を行い、下記項目に関するデータシートを作成した。
■写真データ記入項目と内容
- ID番号 : 各々の写真に付与する固有番号で、1001から始まる6桁以内の番号。
- 種別コード: 写真をその地域、内容などで区別する場合の分類コードとして使用する4桁以内の英数字。例えば、満州→M、台湾→Tなど。
- アルバム記号: 当該写真が貼られているアルバム(鳥居龍蔵作成と考えられる)に付与された固有番号。
- 写真状態: 当該写真の状態の区分。
1.良 → 使用可能で保存状態のよいもの
2.可 → 使用可能なもの
3.不可→ 使用に耐えないもの - 入者イニシャル: 属性データを記入した人のイニシャル。同じイニシャルになる人が複数いる場合は、3文字あるいは4文字にして同じイニシャルにならないように工夫する。
- 地域: 写真が撮影された地域の名称。名称が漢字で表記される場合で、難読のものは漢字のあとに( )で囲んで振りかなを記入する。例えば、東京(とうきょう)
- 場所: 写真が撮影された場所が屋内か屋外かの区別。
- 日時: 写真が撮影された日時が確認できる場合は、その日時を記入する。年だけ、月だけでも可。
- 季節: 写真が撮影された季節。
- 時間帯: 写真が撮影された時間帯。
- 人数: 写真に写っている人物の人数。集団で写っていて、人数の確認が困難な場合は『999』と記入する。
- 男: 写真に写っている男の区別。
- 女: 写真に写っている女の区別。
- 性不明: 写真に写っている性別不明な人物の区別。
- 服装: 写真に写っている人物の服装に『特記すべき事項』がある場合は、それを記入する。(注1)
- 装身具: 写真に写っている人物の装身具に『特記すべき事項』がある場合は、それを記入する。(注1)
- その他: 写真に写っている人物に関して服装、装身具以外に『特記すべき事項』がある場合は、それを記入する。(注1)
- 動物: 写真に写っている人物や動物に『特記すべき事項』がある場合は、それを記入する。(注1)以下、『植物、物、建造物、自然物、行事』などの項目についても同じ。
- 文献: 当該写真を掲載している文献など、関連のある文献について記入する。文献の表記については統一する。
- キーワード: 当該写真に関して他の項目に記入できないような『特記すべき事項』がある場合は、それを『簡潔に表現する言葉』をキーワードとして記入する。
- コメント: 記入者の当該写真に関するコメントを記入する。
- 鳥居メモ: 当該写真に関して、鳥居龍蔵のメモ、コメントなどがある場合はそれを『そのまま』記入する。
注)1. これらの項目は、できるだけ文章で表記するのではなく、簡潔な単語や熟語で表現するようにすること。
注)2. 複数の写真が『ひとつのまとまり』を示す場合は、別紙『関連写真ID番号表』にそれらの写真のID番号を記入する。例えば、同じ人物や建造物が写っている写真、ある一族の写真などが考えられる。 - 『関連項目内容: 関連する内容について記入する。例えば、「同一人物」、「○○家の家族」など
- 『写真ID番号』: 関連する写真のID番号を記入する。ID番号とID番号の間は『,』で区切る。
■収録写真資料について
今回刊行するカタログに収録した写真資料は、鳥居龍蔵が撮影したアイヌ、台湾、沖縄、満州、千島、西南中国のものである。当館に保管されている鳥居龍蔵撮影の上記地域、民族の写真資料は1373点あるが、今回収録したのはそのうちの約800点にとどまっている。収録できなかった写真資料は、もともと長い露光時間を要する写真機を使用したために画像にいわゆる"プレ"が生じていたり、長い間死蔵されていた間に写真乾板が著しく劣化したなどの事情により再生されたプリントの状態が悪く、その内容が判読できなかったもの、あるいは再生状態は悪くはないが今日までに情報、属性がほとんど入手できなかったものである。 各写真に付されている説明は、先述したデータシートに記載された情報、属性の要旨である。
説明文の長短は必ずしもデータシートに記載されたデータの多少を意味するものではなく、単に写真説明に対する研究者の好みが反映されているにすぎない。 なお、この資料カタログの解説文と写真説明の中には、地名、民族名、その他について、満州、蕃などの表記が少なからず出てくる。本来ならば使用すべきではない語であるが、本カタログの趣旨が鳥居の学問とその背景となった時代の復元にあることをかんがみて、あえて現代的な表記には改めなかった。
今回公表する写真資料については、ID番号をもってオリジナル写真ネガフィルムを検索でき、またデータシートに記載されているより詳細な情報、属性も併せて利用できる。
私どもは、今回収録できなかった残部の写真資料についても、早急に情報、属性をまとめ、本カタログの続刊をもって公表する予定である。また、オリジナル写真資料とそれに伴う情報、属性データを一体化した画像データベースを構築し、その保存、管理、検索を効率化する予定である。 今日ではほとんど入手不可能となった貴重な情報、データを多数包含する鳥居龍蔵映像記録は、新しい研究素材として各方面から期待されうるものであり、利用の要請に的確、迅速に対応するためである。
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鳥居龍蔵の台湾調査
「東京大学総合研究資料館標本資料報告 第18号、1990」より転載。
鳥居龍蔵は、日本における海外学術調査の先駆者というべく、台湾・苗・満州・朝鮮・蒙古・千島など、数多くの現地調査を行なっている。日本統治が始まった直後という土地も多いから、厳密には外国とは言えないにしても、実質上は外国となんら変わらなかっただろう。
その中でも台湾調査は鳥居のもっとも初期の海外調査でもあり、調査期間ものべ23ケ月、つまりほぼ2年間という長期にわたるものであった。はじめてカメラを調査に利用し、帰国後かならずモノグラフをまとめるなど、鳥居自身ばかりではなく、その後の日本における学術調査法の基礎を築いた時期でもある。鳥居自身による論文や読み物の数も、台湾関係が非常に多い。
鳥居の台湾調査は4 回におよぶ。それぞれの調査がどのような日程で行なわれたのかを、いろいろな資料をもとにして表にまとめてみた。残された写真の判定にも役にたつと考えたからである。しかしながら詳細に検討すれば鳥居自身の書かれた日付にも異同があり、いずれが正しいものか、日記が残されていない今となっては確定しがたい。例えば、第二回台湾調査は有名な紅頭嶼行であるが、文献1897 h と1897 j では1896年(明治29年)10月21日基隆発となっているのに、文献1898 c,1899 d ,1910では10月22日基隆出港とあるが如きである。しかし1日や2日(まれには10日)のくい違いはたいした意味を持たないであろう。ここでは便宜上もっとも早く出版された論文の日付にしたがうことにした。
地名や蕃社名の比定も困難なことが多い。例えば、第三回調査では南部台湾の「巴仕墨各社」を訪ねたとある。パイワン族部落であることは確かだが、にわかにどことも特定しがたい。あるいは鳥居自身の思い違いではないかと想像される場合もある。たとえば第四回調査の最後のあたりで、羅東近くの有史庄とあるのはおそらく阿里史庄のことであろう。「阿里」を「有り」と記憶されたのに違いない。ともあれ現在の地名と異なる場合は、現在名を角括弧に入れ、=で示しておいた。本来ならばそのように比定したその根拠をも示すべきであろうが、紙数の都合で省略した。筆者の同定が常に正しいとは限らない。識者のご指摘を侯ち、それまでは誤りの少なからんことを祈るのである。
なお台湾関係の写真判定には、瀬川孝吉先生のご協力を得た。ここに記してあつく御礼申し上げる。馬淵東一先生をも頼りにしていたのだが、ご健康すぐれず、とこうしているうちに、にわかに病状あらたまり、ついに馬淵先生のご意見を伺う機会は永遠に失われてしまった。まことに残念なことである。心からご冥福をお祈り申し上げる次第である。
フォト・ギャラリー・全台湾
[台湾の民族分布図と鳥居龍蔵の撮影地域] | [鳥居龍蔵の台湾調査地図] |
■台湾調査旅程
[1896年(明治29年)-1900年(明治33年)]
年 月 | 歳 | 調 査 | 文 献 |
1896年(明治29)8月-12月 | 26 | 第一回台湾調査(東海岸) 花蓮港上陸-䓫萊平野・䓫萊付近の山上(木瓜・太老閣)山下(太巴塱・抜仔庄[=瑞穂](阿眉)の蕃人調査-秀姑巒渓をさかのぼり-璞石閣[=玉里]・タイ=大坡[=池上]-ブヌワン[=ブヌン]-卑南-知本渓-海岸-花蓮港 | 1899 c 1910 |
1897年(明治30)10月-12月 | 27 | 第二回台湾調査(紅頭嶼) 10/1、12 淡水河沿岸の遺跡調査(八芝蘭[=士林]、円山など) 10/21 打狗丸にて基隆発-10/25 紅頭嶼[=蘭嶼]着-12/29まで調査のため紅頭嶼滞在 | 1899 c 1897 j 1899 d |
1898年(明治31)7月-12月 | 28 | 第三回台湾調査(知本渓以南の遺跡調査) 車城に上陸-恒春-山下のテラソック[=猪勝束社]・シャバリ[=射馬里社](パイワン、アミ、大商社、平埔、及びシナ人と蕃人の雑種の調査)-牡丹社-牡丹中社-家新路-牡丹路-巴仕墨各社-楓湖渓-上蕃社-彷藔-恒春 | 1899 c |
1900年(明治33)1月-9月 | 29-30 | 第四回台湾調査 明治32年12月下旬東京発。 1/6 基隆着-台北-基隆-澎湖島-台南-打狗[=高雄]-東港-枋藔-水底藔-帰化門社-水底藔- 1/25 潮洲庄(支那人部落) 1/28 内社[=ライ社]・コンロンナウ[=クナナオ社」着。(祭りのため5日間滞在) 2/3 餉潭庄[=新埤鎮餉潭荘](平埔)(祭りだった) 2/5 ブロック社[=プツンロック社]-ボガリ社[=ボンガリ社](首狩りが盛ん)-パイルス社-2/8 餉潭庄- 2/8 餉潭庄- 2/9 潮州庄-プンテ(彫刻が盛ん)- 2/16 阿猴辧務署[=屏東] 2/17 カラボ[加蚋埔=屏東県高樹郷泰山村](平埔調査)-口社[=屏東県三地郷、パイワン族] 2/20 蕃薯藔[=旗山](熟蕃、広東人) 2/23 山杉林(熟蕃)-六亀里(熟蕃)下淡水渓上流-セブタン[ブヌン族群蕃]、スンガウ[=四社蕃=サアロア]-カナッブ[=カナカナブ] 3/1 蕃薯藔[=旗山]-台南-嘉義-阿里山蕃[=ツォウ族]-チブラ社[=トフヤ社] 3/5、6 ヤプグヤナ山-東埔(ブヌン族)ブヌン2人連れ新高山に登る- 4/11 新高山山頂(3つの峯のある写真があるらしい)-八通関-東埔-集々街-林圯埔[=竹山]-雲林-北斗-彰化-台中-東勢角(タイヤル調査)(写真) 5/17 台中-彰化・南投-集々街-水社湖(サオ族調査)-マイバラ社-埔里社(調査) 8/1 埔里社(午前8時出発、森鞆次郎・安井萬吉・楠氏・ブヌン蕃交換人予備歩兵少尉高羽氏・北蕃通事近藤氏)-急坂-自葉坑(熟蕃)-魚池庄にて昼食(土人婦女の頭髪珍しければ撮影)-途中雨-5時、木履囒庄着。 8/2 8時半、木履囒庄発(近藤氏と別れる)-雨-長藔頭庄-大林庄-司馬安庄-猫囒庄-水社庄(サオ族)-10時、水社出発-雨止む-頭社[頂社(?)](サオ族)昼食-5時半、秡仔埔[=南投県水裏郷民和村]着。 8/3 晴天(羽・楠と別れる、残ったのは鳥居・森・安井) 8/4 人倫社(ブヌン)より人夫、2時、秡仔埔出発-濁水渓を渡る-6時、人倫社(郡蕃)[=南投県信義郷大和村]着(社長アバリ) 8/5 7時起床、午後1時濃霧晴れる。山上より山麓の頭社・水社・埔里社の山々・濁水渓が見え、海岸もありありと見える(撮影)-8/6 人倫社出発-(濁水渓を渡るところを撮影/鳥居・森・安井・土人通事2人・蕃人7人)-社仔埔で昼食-毛註社着、しかし通事・陳水連応ぜず-やむなく秩仔埔へ戻る。 8/6 人倫社出発-(濁水渓を渡るところを撮影/鳥居・森・安井・土人通事2人・蕃人7人)-社仔埔で昼食-毛註社着、しかし通事・陳水連応ぜず-やむなく秡仔埔へ戻る。 8/7 秡仔埔にて-ブヌンの(?)撮影 8/8 森は通事3名、蕃人15人連れて帰る- 8/9 秡仔埔出発-3時、社仔庄、泊まり- 8/10 社仔庄発-大坪-集々街-スバリに会う- 8/11 集々発-大坪-社仔庄- 8/12 社仔庄発-集々街-(鳥居・森・安井・スバリ、その他女子供あわせて16名)-社仔埔-濁水渓を渡る-牛轀轆庄- 8/13 5時、牛轀轆庄発-陳有蘭渓-4時、ナマカマ社近辺で野宿用意- 8/14 5時、出発-3時、東埔- 8/15 (粟収穫後の)蕃人の正月、調査- 8/16 東埔調査- 8/17 暗、東埔調査、撮影- 8/18 雨、東埔調査、撮影- 8/19 晴- 8/20 スバリがマラリア発病のため、鳥居・森・安井・蕃人6人、計9人で出発 8/21 5時出立前、露営の前に立てるところを撮影-10時、八通関、雲がかかって撮影は失敗-4時、1万600尺、来た方面(南西)を撮影-野宿- 8/22 東方の璞石閣付近を望みたる所を撮影-4時半、出発-タルナ社[=タルナス社](ブヌン蕃社)着(スレートを使う)-台東の璞石閣[=玉里]-花蓮港 9/10 蘇澳-羅東-有史庄[=阿里史庄]-天送埤(有醇画蕃)-渓頭・南澳にてタイヤル族調査-宜蘭平原(熟蕃調査)-三貂嶺- 9/21 基隆着。 | 1901 j 1901 k 1901 k 1910 |
■台湾関係著書・論文目録
以下の目録は『鳥居龍蔵全集』第5巻、第11巻(1976年 朝日新聞社)によって作製した。 写真判定の際の参考のため倉卒の間にまとめたので、同年の出版物の中での順序付けには甚だ遺憾な点が多い。しかしすでにこの順にしたがってコメントをつけてしまったので、今この段階で訂正をほどこせば混乱をいっそう助長するであろうことをおそれ、敢えてこのままにしておくことにした。諒とされたい。
1896 (明治29) | 「鳥居龍蔵氏の近信」『徳島日日新聞』明治29年9月4日;『鳥居龍蔵全集』第11巻:459-460 |
1897 a (明治30) | 「台湾生蕃地探検者の最も要す可き知識」『太陽』3巻15号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:408-415 |
1897 b (明治30) | 「東部台湾、阿眉種族の土器製造に就て」『東京人類学会雑誌』第135号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:561-572[絵][写真](重要) |
1897 c (明治30) | 「東部台湾に於ける各蕃族及び其分布」『東京人類学会雑誌』第136号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:464-485[絵](重要) |
1897 d (明治30) | 「東部台湾ニ棲息セル平埔種族」『東京人類学会雑誌』第132号:『鳥居龍蔵全集』第11巻:521-525[写真](重要) |
1897 e (明治30) | 「鳥居龍蔵氏よりの通信 坪井正五郎氏へ」『東京人類学会誌』第141号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:404-405[給] |
1897 f (明治30) | 「東部台湾諸蕃族に就て」『地学雑誌』9集104・105巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:485-505[絵](重要) |
1897 g (明治30) | 「有蘇蕃の測定」『地学雑誌』9集107巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:553-554 |
1897 h (明治30) | 「台湾通信 紅頭嶼行」『地学雑誌』9輯107巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:592-594 |
1897 i (明治30) | 「台湾に於ける有史以前の遺跡」『地学雑誌』9集107巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:397-399 |
1897 j (明治30) | 「鳥居龍蔵氏よりの通信(坪井正五郎氏へ)」『東京人類学会雑誌』第141号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:404-405 |
1898 a (明治31) | 「紅頭嶼の土人は如何なる種族より成る乎」『地学雑誌』10輯116巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:579-584[写真] |
1898 b (明治31) | 「紅頭嶼通信」『地学雑誌』10輯109巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:594-597 |
1898 c (明治31) | 「台湾人類学調査略報告」『東京人類学会雑誌』第144号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:505-509 |
1898 d (明治31) | 「鳥居龍蔵氏の蕃人調査」『徳島日日新聞』明治31年12月10日;『鳥居龍蔵全集』第11巻:460-461 |
1898 e (明治31) | 「蕃薯寮萬斗社生蕃ノ身体測定」『東京人類学会雑誌』第146号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:602-605[絵](重要) |
1898 f (明治31) | 「台湾基隆ノ平埔蕃ノ体格」『東京人類学会雑誌』第153号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:549-553[絵] |
1899 a (明治32) | 「台湾東南部の人類学的探検」『東京人類学会雑誌』第155号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:462-464 |
1899 b (明治32) | 「台湾阿眉蕃ノ弓箭放射法二就テ」『東京人類学会雑誌』第161号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:572-575[絵](重要) |
1899 c (明治32) | 「南部台湾蕃社探検談」『地学雑誌』11集125・126巻:『鳥居龍蔵全集』第11巻:415-422(重要) |
1899 d (明治32年3月) | 『人類学写真集 台湾紅頭嶼之部』東京帝国大学理科大学:『鳥居龍蔵全集』第11巻:329-353[写真](重要) |
1900 a (明治33) | 「新高山地方に於ける過去及び現在の住民」『東京人類学会雑誌』第170号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:575-579[絵] |
1900 b (明治33) | 「埔里社方面にて調査せし人類学的事項」『東京人類学会雑誌』第174号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:525-529(重要) |
1900-01 (明治33-34) | 「台湾埔里社霧社蕃の言語(東部有黥面蕃語)」『東京人類学会雑誌』第176-178号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:529-539「語彙」(重要) |
1901 a (明治34) | 「台湾阿里山蕃の土器作り」『東京人類学会雑誌』第178号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:558-560[絵](重要) |
1901 b (明治34) | 「東部有黥面蕃語ト苗族語ノ比較」『東京人類学会雑誌』第179号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:539-541「語彙」(重要) |
1901 c (明治34) | 「台湾埔里社(霧社)蕃(東部有黥面蕃)の神話」『東京人類学会雑誌』第180号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:557-558 |
1901 d (明治34) | 「台湾台東方面の有黥面蕃語と霧社蕃語」『東京人類学会雑誌』第181号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:542-546「語彙」(重要) |
1901 e (明治34) | 「紅頭嶼土人の頭形」『東京人類学会雑誌』第182号:『鳥居龍蔵全集』第11巷:584-589 |
1901 f (明治34) | 「埔里社山上万大社の蕃人は東部黥面蕃にあらず」『東京人類学会雑誌』第183号:『鳥居龍蔵全集』第11巻:546-549「語彙」(重要) |
1901 g (明治34) | 「黥面蕃女子の頭形」『東京人類学会雑誌』第18『鳥居龍蔵全集』第11巻:555-557 |
1901 h (明治34) | 「台湾に於ける小人の口碑」『東京人類学会雑誌』第188号;『鳥居龍蔵全集』第11巷:597-598 |
1901 i (明治34) | 「紅頭嶼土人の身長と指極」『東京人類学会雑誌』第189号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:589-592 |
1901 j (明治34) | 「台湾蕃地探検談」『地学雑誌』13集146・147・148巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:422-431(重要) |
1901 k (明治34) | 「台湾中央山脈の横断」『太陽』7巻9・10・12・13号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:431-459(重要) |
1902 (明治35年7月) | 『紅頭嶼土俗調査報告』東京帝国大学;『鳥居龍蔵全集』第11巻:281-328[絵](重要) |
1905 (明治38) | 「台湾生蕃に就ての参考書」『東京人類学会雑誌』第226号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:405-408 |
1907 (明治40) | 「台湾の小人はニグリトーなりしか」『東京人類学会雑誌』第252号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:598-601 |
1909 (明治42) | 「台湾各蕃族の頭形論」『東京人類学会雑誌』第282-285号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:509-521 |
1910 (明治43年12月) | 『人類学研究・台湾の原住民(一)序論(Etudes Anthropologiques.Les Aborigènesde Formose.(1r Fascicule.)Introduction)』東京帝国大学理科大学紀要第28冊第6編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:1-74[写真](重要) |
1911 (明治44) | 「台湾台北円山貝塚」『人類学雑誌』第27巻1号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:403-404[写真] |
1912 (明治45年1月) | 『人類学研究・台湾の原住民(二)ヤミ族(Etudes Anthropologiques.Les Aborigènes de Formose.(2e Fascicule.)Tribu Yami)』東京帝国大学理科大学紀要第32冊第4編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:75-120[写真][絵](重要) |
1926 (大正15) | 「台湾の古代石造遺物に就いて」『民族』1巻3号:『鳥居龍蔵全集』第11巻:399-403[写真] |
1953 (昭和28) | 『ある老学徒の手記 考古学とともに六十年』朝日新聞社 |
http://www.muse.or.jp/torii/
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鳥居龍蔵の満州調査
「東京大学総合研究資料館標本資料報告 第18号、1990」より転載。
すでによく知られているように鳥居龍蔵の海外における学術的研究の出発点は、1895年(明治28年)の遼東半島の調査にある。当時25歳の「一貧書生」であった鳥居は、恩師坪井正五郎博士の力添えによって東京人類学会の嘱託を受け、遼東半島調査に赴くことになった。晩年の「その時の喜びは実に喩える言葉もないほどであった」という述懐によっても、この調査行にかける鳥居の意気込みをうかがうことができる。
日清戦争直後の当時、遼東半島は日本占領下にあり、そこを鳥居は若さにまかせて歩きまわった。ハルビン・旅大間のいわゆる東清鉄道(後の満鉄)の営業が始まったのが1903年であるから、当時の遼東半島は徒歩で行くしかなかった。このとき鳥居は、熊岳城で初めて石器や漢代の有紋磚を、貔子窩では磨製石器を発見した。海城では獅子狩り図像の石彫を発見し、また復州では遼代の古塔、析木城で初めてドルメンを見ている。この第一回調査の意義は、この地域において日本人の学術調査の先鞭をつけたという点にとどまらない。中国東北部に関する鳥居の後年の研究テーマのほとんどが、実はここに集約されていたのである。
この第一回調査に始まり、鳥居の満州調査はその後十回を越える。行く先々で目に映るあらゆる事物に興味を示し、それをかならず自身の研究のなかに位置づけていった鳥居の学問の軌跡を辿ることは容易ではないが、たとえば、(1)石器、ドルメン等の先史考古学的研究(2)漢代墳墓の発掘調査と研究(3)渤海・遼・金の都城址の発掘調査と研究(4)遼代の壁画、画像石の発掘調査と研究(5)人類学的研究調査という五つの柱を立てて考えることも許されよう。 このうち先史考古学の分野では、1921年(大正10年)「満蒙の有史以前」というテーマで学位を取っている。また第一回調査において熊岳城で発見した有紋磚は、鳥居は初め高麗のものと考え、そのような論文も発表したが(1896 b)、その後の第二回調査でそれが漢代のものであるとの認識に達し、自説を改めている(1990 i,1910 c)。そしてこのことが、後に朝鮮平壌の墓群をめぐってそれを高句麗のものとする関野貞博士等に対して、一人鳥居が漢の楽浪郡治のものであると明言した根拠になったのである(1910 b)。遼東半島における鳥居の漢代墳墓の研究が重要性をもつゆえんである。さらに、初めての調査行で出会った遼代の遺跡は、後年鳥居が遼文化の研究に没頭してゆくきっかけとなった。鳥居の調査は、その後台湾、千島、西南中国、シベリア、朝鮮、ペルーなどにおよぶが、昭和15年北京の燕京大学客座教授となって中国に渡って以降、晩年はこの遼代文化の研究をライフワークとしたことは改めて言うまでもない。ぐるりと弧を描くようにして、満州という地域、遼という時代に戻っていったのである。
満州における調査の概要については、簡単な旅程表のかたちにまとめてみた。この表のうち第*回**調査とあるのは、鳥居博士顕彰会編『図説鳥居龍蔵伝』(1965年)およびそれを踏襲した『鳥居龍蔵全集』別巻(1977年)著作総目録・年譜にあわせたものである。そのため1930年(昭和5年)の調査は、実質的に満州調査を含んでいるが、ここでは先行年譜にしたがって「第三回蒙古調査」としている。
この簡単な旅程表によっても、鳥居がフィールドにおいていかに精力的に仕事をしていったかが伝わってくる。驚くべきことはいくつもあるのである。まず、同じ地点に何度も足を運んで、納得のいくまで調査を繰り返している点。この旅程表には燕京大学時代(1939-1951年)の調査は含まれていないが、すでに高齢に達していたその時期でさえ、しばしば追加調査にでかけている。次に、一日たりと時間を無駄にしていない点。たとえば、早朝にA地点を出発し、B地点で調査を行い、その夜にはC地点に向けてもう移動を始めるというような強行軍が、しばしばあたりまえのように行われている。1927年(昭和2年)の第四回調査は、講演旅行の合間を縫っての遺跡調査ではあったが、62日間で満州を縦横無尽に駆け抜けている。もっともこの時は鳥居自身が、「この短日時の間に私はよく第七回(注-蒙古調査も含んだ回数)の調査としてベストを尽くしたものと思う。」(1928 a)と自分で感心している程だから、特に過密なスケジュールであったことは確かであるが。
このような調査にかける情熱の前には満州の酷寒も泥濘も、馬賊に襲われる危険も考慮の対象にはなりえなかったらしい。1933年(昭和8年)第八回調査では、大興安嶺山中のワールマンハで吹雪のなかでテント生活を送りつつ、火の気のない陵墓の中で壁画の模写や調査をしている。1935年(昭和10年)の第九回調査も、冬季にかかる調査であった。このときには、匪賊の襲撃を心配しながら、それでも雪の中で隆昌州の遼代画像石墓の調査をやめようとはしなかった。このどちらの場合も夫人や家族が同行して研究を助けていたが、鳥居はともかくご家族のご苦労は想像するにあまりある。
最後に、ここに収めた鳥居の撮影にかかる写真について説明しておきたい。今回のプロジェクトの対象になった写真乾板二千五百枚余りのうち、満州に関するものは75枚であった。そして分析・照合の結果、この75枚は全て同一時期に撮られたものであり、それは1905年(明治38年)8月8日から11月12日までの第二回調査におけるものであるという結論に達した。
その行程を写真によって辿ってみよう。1905年8月18日に大連到着後、金州を経て普蘭店鍋底山の発掘で石器のほか、初めて土器を採集した。次に熊岳城と遼陽で漠代遺物および漢代磚墓を発掘し、『漢書』『後漢書』にある遼東郡が、当時の通説であった遼西地方ではなくこの遼東半島に存在したことを確認した。写真3016(第4部Plate1;以下4:1と表記する)、3062(4:2)、3021(4:3)、3069(4:4)、3049(4:5)は、遼陽の陸軍兵站病院敷地内の磚墓の発掘現場である。その後、奉天(瀋陽)に赴き、同じく東京帝国大学より派遣された市村?次郎(中国史、当時41歳)・伊東忠太(東洋建築史、同38歳)と合流。さらに大阪朝日新聞社の派遣による内藤湖南(中国史、同39歳)が加わり、時に鳥居35歳、当時の少壮気鋭、後のシノロジージャイアント四人が顔を揃え、瀋陽宮殿(故宮)の清寧宮-清の太祖ホンタイジの居室-の入口にある一室にともに宿泊し、宮殿内調査に従事することになった。写真3058(4:6)、3065(4:7)、3075(4:8)、3048(4:9)、3061(4:10)、 3057(4:11)が、清寧宮の所蔵品である。また瀋陽では太祖の陵墓北陵にも行っている[写真3006(4:12)、3066(4:13)]。
その後鳥居は中国内地とモンゴルの境界をなす長柵を法庫門で越え、初めてモンゴルに足を踏み入れている[写真3043(4:14)]。この時の経験が後年のモンゴル研究に結びついたことは、後年鳥居自身が明らかにしているところである(1911 b)。
再び瀋陽に帰った鳥居は旅装を整え、清の故地興京を経て長白山中を横断して鴨緑江河畔洞溝(集安)に至る。写真3007(4:15)、3037(4:16)が、その旅の様子を伝えている。
写真3002(4:17)、3036(4:18)、3073(4:19)、3070(4:20)、3004(4:21)は、撮影地点不明であるが、やはりこの第二回調査の途上撮影されたものと推定される。清末時期の中国農村の民俗を知るうえで貴重な映像資料として、収録しておく。
なお足跡図については、ここに収めた写真と関連する遼東半島について示してある。時期としては第一回から第三回の旅程を示した。それ以降の調査については旅程表を参照していただきたい。第二回調査については、モンゴル行および遼陽発掘が集安から帰った後であるという鳥居の後年の回想(1928 a、1953)もあるが、ここでは、帰国直後の報告(1905、1905-06)に従っている。
それぞれの写真のキャプションは可能なかぎりの分析・照合の結果をもとにしているが、なお誤りもあることと思う。御教示いただければ幸いである。
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■満州調査旅程
[1895年(明治28年)-1935年(昭和10年)]
年 月 | 歳 | 調 査 | 文 献 |
1895年(明治28)8月-12月 | 25 | 第一回満州調査(遼東半島) 東京人類学会の嘱託を受ける 柳樹屯[=大連]-金州-水師営[=旅順]-山東省劉公島-水師営-金州-普蘭店[=新金](某氏より石鏃を拾ったとの情報)-復州(遼末の磚塔を見る)-熊岳城(初めて石器時代の石槍、漢代の五銖銭・紋磚等を発見)-蓋平[=蓋県]-大石橋[=営口]-海城(獅子狩り彫刻発見)-析木城(遼代の磚塔三基およびドルメン二基)-岫巌[=岫岩]-鵬鳳城[=鳳城]-九連城[=丹東市の東北"九連城"]-義州-九連城-安東県-鵬鳳城-大孤山-貔子窩(磨製石斧発見)-金州 | 1986 a 1986 b 1953 |
1905年(明治38)8月-11月 | 35 | 第二回満州調査(遼東半島および洞溝) 東京帝国大学派遣 8/8 東京出発-8/18 大連着-旅順(3-4日滞在)- 金州-普蘭店[=新金](鍋底山遺跡発掘)-熊岳城(漢 代遺物の発掘)-遼陽(漢代磚墓の発掘)-奉天[= 瀋陽](奉天宮殿=瀋陽故官の清寧宮の調査)-鉄嶺- 法庫門[=法庫]-康平-蒙古賓図王府(賓図王と写真を撮る)-康平-昌図-奉天(数日滞在) 10/1 奉天出発-撫順-興京[=新案県西15km"興京老城"](陸軍より車両、食糧、護衛を与えられる)-汪清辺門[=旺清門]-通北-洞溝[=集安](好太王碑と周辺を調査)-外察溝門[=涼水]-懐仁[=垣仁]-興京-撫順-奉天- 11/4 大連着 11/5 多聞丸にて出発-11/12 東京 | 1905 1905-06 1906 1908 1909 g 1910 b 1910 c 1914 b 1915 1928 b |
1909年(明治42)3月-5月 | 39 | 第三回満州調査(遼東半島) 東京帝国大学の出張、関東都督府の嘱託 3/22 神戸発-3/25 大連着-旅順(老鉄山周辺の遺跡発掘調査)-4/16 大連-普蘭店[=新金]-貔子窩(調査)-普蘭店(調査)-熊岳城(調査)-大石橋[=営口](調査)-営口[=営口市]-大石橋-遼陽(1週間ほど太子河畔で調査)-撫順(4日間調査)-父の計報を聞き急遽帰国 | 1909 i 1909 k 1910 c |
1927年(昭和2)8月-10月 | 57 | 第四回満州調査(満州全域) 満鉄の招聘、講演旅行 8/17 バイカル丸にて神戸発-8/20 大連着(講演、会談、観光等)-8/25 撫順(講演)-8/27 奉天[=瀋陽](3日間講演、うち28日は鞍山へ日帰り)-8/30 安東[=丹東](2日間講演)-9/1長春(3日間講演)-9/4 ハルビン(3日間講演、博物館見学、ロシア人学者と交流)-9/7 海林-寧安(渤海故城調査)-9/12 綏芥河-9/14 ハルビン-9/15 阿什城[=阿城](金の上京調査)-9/19 チチハル(満州族調査)-9/20 洮南[=洮安](遼・金代の古城の調査)-9/22 鄭 家屯[=双遼]-9/23 通達(莫林廟見学)-9/25 鄭家屯(オボ山遺跡の調査)-9/26 四平街[=四平市](八面城調査)-9/27 長春-9/28 吉林(龍潭山調査)-9/29 奉天-鞍山(漢墓の発掘、画像石調査)-10/4 奉天-10/5 鵬鳳城[=風域](高句麗墓、メンヒル調査)-10/7 奉天-海域(析木城ドルメン、磚塔調査)-10/9 大連(ノート整理)-10/12 普蘭店[=新金](ドルメン、メンヒル等の調査)-10/13 大連-10/14 ハルビン丸にて帰国の途につく-10/17 神戸着 | 1927 b 1928 a 1928 d |
1928年(昭和3)5月-7月 | 58 | 第五回満州調査(満州北部、遼東半島) 外務省対外文化事業部補助(夫人きみ子、娘幸子同行) 5/14 東部シベリアの調査を終えて大連(夫人きみ子到着) 5/15 奉天[=瀋陽]-四平街[=四平市] 5/21 鄭家屯[=双遼](オボ山の調査)-ハルビン-マンチュリ[=満州里]-5/30 ハルビン(阿城県金の上京調査)-6/3 長春-6/4 書林(2日間滞在)-6/7 老爺嶺(鉄道はここまで、あとは馬で行く、泥濘の山道)-蛟河-二道河子-6/8 六道河子-大沙河(落葉松の森林地帯、湿地)-威虎嶺-(森林の谷地、鈴蘭が咲いている)-黄泥河-太平嶺-6/11 敦化(金代の古城、山城子の山城、吟爾巴山麓の遺跡等の調査)-6/23 吉林-長春-奉天-6/25 大連-6/26 鞍山(苗園墓群の発掘、千山遺跡の調査、メンヒル)-7/7 遼陽-7/9 大連-7/1 帰国 | 1928 b 1928 c 1928 e 1929 1943 |
1930年(昭和5)8月-12月 | 60 | 第三回蒙古調査(遼東半島、ワールマンハ、遠の皇都) 東方文化学院東京研究所における調査(夫人きみ子同行) 8/21東京発-8/23 神戸より乗船-8/26 大連-8/27 遼陽(遼代古塔の調査)-8/31 普蘭店(ドルメン調査)-9/1 金州(井山石窟仏の調査)-9/2 大連-9/4 奉天-9/5 鄭家屯[=双遼](すぐ蒙古に入るつもりが、雨で道が悪く、その上高梁の収穫前で馬賊が出没するとの情報で、暫く満鉄沿線の調査をすることとする)-9/7 関原(古塔の調査)-9/10 鉄嶺(古塔の調査)-奉天(古塔の調査、博物館見学)-9/14 四平街[=四平市]-9/16 鄭家屯(オボ山遺跡調査、蒙古行準備)-9/22 通遼-(以下11月までワールマンハ、達の皇都=巴林左旗等の調査)-12/1四平街-12/2 奉天(どこへ行っても"シナ人"と間達えられる)-12/3 海城-12/4 析木城(ドルメンと古塔の調査)-12/5 海城-12/6 鞍山(新しく発見された隆昌の画像石墓の情報収集、内一日奉天日帰り博物館見学)-12/9 隆昌州(情報収集、遼代画像石墓の調査)-12/12 鞍山-12/14 鄭家屯(預けてあった荷物を取りに戻る)-12/15 奉天-12/17 大連-12/18 大連発-12/21 東京 | 1932 a 1932 d 1933 a 1933 b 1933 e |
1931年(昭和6)9月 | 61 | 第六回満州調査(遼陽都城発掘) 夫人きみ子、息子龍次郎、東方文化学院東京研究所嘱 託中川徳治同行 大連(満鉄沿線調査中、満州事変勃発)-遼陽(23日間遼東京府の土城発掘) | 1931 1946 b 『鳥居龍蔵全集』 付録月報11 |
1932年(昭和7)7月-9月 | 62 | 第七回満州調査(奉天、朝鮮北部、遼陽) 満州国成立にともない文部省映画撮影の指導者として東方文化学院東京研究所の派遣(娘緑子、息子龍次郎同行)7/28 門司港発-大連-奉天[=瀋陽](清寧宮、東陵、北陵等の撮影、湯玉麟の子息がワールマンハの契丹皇 陵より盗掘した遼代石碑を湯氏宅で調査)-8/14 朝鮮開城(高麗文化を調査)-京城-慶州-8/25 奉天-大連-奉天-8/29 遼陽(調査)-奉天-鄭家屯[=双遼]-奉天-9/30 アメリカ丸で大連を発つ-10/3 東京 | 1932 e 1932 h |
1933年(昭和8)8月-12月 | 63 | 第八回満州調査(契丹文化の研究、遼中京府、ワールマンハの調査) 外務省対支文化事業部の補助による(夫人きみ子、娘緑子、息子龍次郎同行) 8/3 東京発-大連-奉天[=瀋陽]-錦県[=錦州市] (遼の古塔の調査)-義県(10日間程遼代の古塔・石碑・ 大仏寺、北魏の万仏洞等の調査)北票-朝陽(遼の興中州、道代の古塔・遺跡等の調査)-凌源-平泉-承徳(数日間調査)-9/15 平泉(これより先土匪多く蒙古騎馬兵の護衛がつく)-寧城県老蛤河畔大寧城(遼の中京、17日間調査)-10/4 赤峰(6日間調査)-林西-10/17 白塔子-10/21 ワールマンハ(15日間遼代壁画墓の調査、大興安嶺山中にテント生活、吹雪)-林西-11/11 赤峰-11/22 烏丹城[=翁牛特旗](元代石碑の調査)-赤峰-11/27 朝陽(調査、整理、龍次郎発熱)-12/14 錦州(義県大仏寺調査)-12/16 大連-12/18 新京[=長春]-12/19 奉天-12/20 大連-12/21ウラル丸で大連を発つ-12/24 東京着 | 1937 a 1932 e 1934 d 1936 a 1936 b 1939 1943 |
1935年(昭和10)11月-12月 | 65 | 第九回満州調査(遼東半島、北京) 東方文化学院研究所の派遣(夫人きみ子、息子龍次郎同行) 11/8 東京発-11/9 吉林丸にて神戸発-11/12 大連 11/13 奉天[=瀋陽]-11/15 新京[=長春]-11/16 奉天-溝村子-11/17 北鎮(遼代双塔、東丹王陵等の調査)-11/26 溝幇子-11/27 奉天-11/28 鞍山-12/1隆昌州(匪族を避けながら遼代画像石墓の調査cf.1932 a)-12/2 奉天-12/6 北平[=北京](天寧寺、白雲観、八里庄古塔等の調査)-12/4 蔚県(独落寺調査)-12/16 北平-12/23 山海関-12/25 大連-12/26 熱河丸で大連を発つ | 1935 1936 c 1937 a 1937 b 1942 |
注:地名のうち、現在の地名と異なる場合は[=]で現在名を示した。
■満州・蒙古関係著書・論文目録
1896 a (明治29)) | 「遼東半島」『太陽』2巻6、7、9、11、12、14、15号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:573-597 |
1896 b (明治29) | 「遼東半島に於ける高麗の考古学上の事実」『史学雑誌』7編8号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:598-603 |
1905 (明治38) | 「満洲調査復命書」『官報』12月9日付・『史学雑誌』17編2・3・4号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:534-542 |
1905-06 (明治38-39) | 「満洲に於ける人類学的視察談」『東京人類学会雑誌』237・8号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:551-567 |
1906 (明治39) | 「満文字の地図と職貢図」『学燈』10巻1号;『鳥居龍蔵全集』第10巻:532-534 |
1907 a (明治40) | 「入蒙飛信」『日本美術』95号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:567-569 |
1907 b (明治40) | 「蒙古語に就て」『東京人類学会雑誌』251号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:395-398 |
1907 c (明治40) | 「我国のメルヘン(Märchen)と蒙古のメルヘン(Märchen)とに就て」『東亜の光』2巻4号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:475-481 |
1907 d (明治40) | 「日本語と蒙古語の親族的関係」『太陽』13巻5号:『鳥居龍蔵全集』第8巻:398-405 |
1907 e (明治40) | 「蒙古の楽器」『日本美術』100号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:49ト493 |
1907-08 (明治40-41) | 「日豪類似語に就て 第一、二、三、四回」『史学雑誌』18編11号-21編8号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:405-471 |
1908 (明治41) | 「満洲の石器時代遺蹟と朝鮮の石器時代遺蹟との関係に就て」『東京人類学会雑誌』262号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:546-552 |
1909 a (明治42) | 「蒙古旅行談(興安嶺及びシラムレン方面)」『東洋時報』124-5;『鳥居龍蔵全集』第2巻:545-566 |
1909 b (明治42) | 「シラムレン及興安嶺地方旅行談」『地学雑誌』21巻245号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:545-550 |
1909 c (明治42) | 「奈曼族の風俗」『東京人類学会雑誌』278号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:520-521 |
1909 d( 明治42) | 「蒙古風俗一斑」『東亜之光』4巻5・6・7号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:482-490 |
1909 e (明治42) | 「蒙古老蛤河水源地の古砦跡」『東京人類学会雑誌』279号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:519-520 |
1909 f (明治42) | 「有史以前の満洲の民族」『中央公論』24年7号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:570-573 |
1909 g (明治42) | 「輿安嶺附近に於ける薩満教の遺風」『東京人類学会雑誌』280号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:495-500 |
1909 h (明治42) | 「マルコポロ旅行記中のNatigayとOngotに就て」『東京人類学会雑誌』281号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:607-610 |
1909 i (明治42) | 「南満洲旅行談」『東洋時報』131・132号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:567-595 |
1909 j (明治42) | 「マルコポロ旅行記に見ゆる蒙古人の風習」『中央公論』24年10号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:521-523 |
1909 k (明治42) | 「老鉄山麓の貝殻墓と其遺物」『東京人類学会雑誌』285号;『鳥居龍蔵全集』第8巷:617-618 |
1910 a (明治43) | 「シラムレン流域及興安嶺方面に於ける東胡民族の遺跡」『地学雑誌』22年256・257・258号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:500-518 |
1910 b (明治43) | 「洞溝に於ける高句麗の遺跡と遼東に於ける漢族の遺跡」『史学雑誌』21編5号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:603-617 |
1910 c (明治43) | 『南満洲調査報告』東京帝国大学刊;『鳥居龍蔵全集』第10巻:1-165 |
1911 a (明治44) | 「遼の上京と其遺品」『國華』21第248・253号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:576-587 |
1911 b (明治44) | 『蒙古旅行』博文館刊;『鳥居龍蔵全集』第9巻:ト284 |
1913 (大正2) | 「満洲より北朝鮮の旅行」『東洋時報』179・180号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:620-637 |
1914 a( 大正3) | 「考古学民族学研究・東蒙古の原住民」Etudes Archéologiques de Ethnologiques.Populations Primitives dela Mongolie Orientale.『東京帝国大学理科大学紀要』36冊8編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:121-197 |
1914 b (大正3) | 「人類学研究・満州族」Etudes Anthropologiques.Les Mandchoux.『東京帝国大学理科大学紀要』36冊8編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:199-229 |
1915(大正4) | 「考古学民族学研究・南満洲の先史時代人」Etudes Archéologiques et Ethnologlques.Populations Préhistoriques de la Mandchourie Méridionale.『東京帝国大学理科大学紀要』36冊8編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:231-309 |
1917-18 (大正6-7) | 「支那周囲の民族」『東洋時報』231・232号;『鳥居龍蔵全集』第12貴:650-664 |
1920 a (大正9 | 「西伯利亜の有史以前(上)」『人類学雑誌』35巻1号:『鳥居龍蔵全集』第7巻:516-531 |
1920 b (大正9) | 「土俗学上より観たる黒龍江畔の民族」『人類学雑誌』35巻3・4合併号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:560-580 |
1920 c (大正9) | 「東部西比利亜旅行談」『東洋時報』259・260・261号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:664-677 |
1921 (大正10) | 「満蒙の有史以前(学位記)」『官報』大正10年10月5日;『鳥居龍蔵全集』第8巻:525-528 |
1922 a (大正11) | 『北満洲及び東部西伯利亜調査報告』(朝鮮総督府古蹟調査特別報告第二冊)朝鮮総督府;『鳥居龍蔵全集』第8巻:259-280 |
1922 b (大正11) | 「文献史上より遡り観たる南満洲最古の住民」『人類学雑誌』37巻10号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:552-569 |
1922 c (大正11) | 「文献史上より遡り観たる東蒙古最古の住民」『人類学雑誌』37巻12号:『鳥居龍蔵全集』第8巻:471-475 |
1923 (大正12) | 「北満洲東間島にある堡寨と竪穴」『人類学雑誌』38巻5号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:570 |
1924 (大正13) | 『人類学及び人種学上より見たる北東亜細亜』同書店;『鳥居龍蔵全集』第8巻:1-258 |
1926 a (大正15) | 『極東民族 第一巻』文化生活研究会;『鳥居龍蔵全集』第7巻:99-317 |
1926 b (大正15) | 「蒙古に於けるアメリカ学術探検隊の仕事に就いて」『太陽』32巻5号:『鳥居龍蔵全集』第8巻:493-495 |
1927 a (昭和2) | 「鳥居きみ子著『土俗学上より観たる蒙古』跋文」昭和6年六文館刊;『鳥居龍蔵全集』第8巻:524-525 |
1927 b (昭和2) | 「満蒙通信 其一、其二」『武蔵野』10巻2・3号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:569-571 |
1928 a (昭和3) | 『満蒙の探査』萬里閣書房;『鳥居龍蔵全集』第9巻:285-393 |
1928 b (昭和3) | 「西比利亜・満蒙通信」『武蔵野』11巻5・6号・12巻2号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:617-623 |
1928 c (昭和3) | 「ネストリアン教の十字発見」『中央公論』43年9号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:689-690 |
1928 d (昭和3) | 「満蒙に於ける人類学上の研究に就きて」『啓明会講演集』25回;『鳥居龍蔵全集』第6巻:559←576 |
1928 e (昭和3) | 「画像石のある古墓」『中央公論』43年10号;『鳥居龍蔵全集』第12巷:690-691 |
1929 (昭和4) | 『西比利亜から満蒙へ』大坂屋号書店;『鳥居龍蔵全集』第10巷:167-217 |
1931 (昭和6) | 「鳥居研究員遼陽発掘報告講演」『東方学報』東京1号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:618-620 |
1932 a (昭和7) | 『満蒙を再び探る』六文館刊;『鳥居龍蔵全集』第9巻:395-542 |
1932 b (昭和7) | 「南満洲および東蒙古の新石器時代遺物」Restes Néoithiques de la Mandchourie Méridionale et de la Mongolie Orientale.第一回極東先史学者学会研究発表:『鳥居龍蔵全集』第5巻:657-658 |
1932 c (昭和7) | 「満洲国に於ける五大遺跡に就て」『歴史教育』7巻2号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:542-546 |
1932 d (昭和7) | 「猴王孫呉空(遼代の壁画)」『武蔵野』18巻2号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:602-604 |
1932 e (昭和7) | 「満洲だより」『武蔵野』19巻2・3号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:576-578 |
1932 f (昭和7) | 「朝鮮・満洲の磨製石器に就て」『上代文化』8号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:643-646 |
1932 g (昭和7) | 「満洲国より武蔵野へ」『武蔵野』19巻4号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:578-579 |
1932 h (昭和7) | 「私共の今回旅行した地方と其の仕事」『ドルメン』1巻8号:『鳥居龍蔵全集』第6巻:654-656 |
1932 i (昭和7) | 「我が国と契丹文化の関係」『セルパン』22巻16号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:650-654 |
1933 a (昭和8) | 「遼の皇都とその陵墓」『国際写真情報』11巻1号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:682-684 |
1933 b (昭和8) | 「契丹の陵墓とその陵碑に就いて」『上代文化』9号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:609-616 |
1933 c (昭和8) | 「ホロンパイルと熱河について」『歴史公論』2巻4号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:528-532 |
1933 d (昭和8) | 「私と熱河省の研究に就て」『ドルメン』2巻4号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:532-534 |
1933 e (昭和8) | 「東蒙古に存在する金剛界曼陀羅の磚塔」『中央美術』(復興)1号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:622-628 |
1934 a (昭和9) | 「満洲・蒙古を探る」『中央公論』49年2号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:693-700 |
1934 b (昭和9) | 「近頃発見せられた契丹文字に就て」『書物展望』4巻3号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:677-681 |
1934 c (昭和9) | 「遼代陵墓内の壁画に就て」『中央美術』8号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:595-599 |
1934 d (昭和9) | 「契丹の残した遺蹟の探査に就て」『歴史科学』3巻4号:『鳥居龍蔵全集』第6巻:618-622 |
1935 (昭和10) | 「満洲北支通信」『武蔵野』22巻12号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:579-580 |
1936 a (昭和11) | 「遠の王陵壁画に就て」『ミネルバ』4号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:600-602 |
1936 b (昭和11) | 『考古学上より見たる遼之文化図譜 第一冊~第四冊』東方文化学院東京研究所刊 |
1936 c (昭和11) | 「満洲陵墓と景教との関係に就て」『史学雑誌』47巻6号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:604-605 |
1936 d (昭和11) | 『満蒙其他の思ひ出』岡倉書房刊;『鳥居龍蔵全集』第12巻:1-136 |
1937 a (昭和12) | 『遼の文化を探る』章華社刊;『鳥居龍蔵全集』第6巻:369-556 |
1937 b (昭和12) | 「景教に関する画像石」『考古学雑誌』27巻2号:『鳥居龍蔵全集』第6巻:605-609 |
1939 (昭和14) | 「遼の中京城内に存在する石器時代の遺蹟」『東方学報』東京9冊;『鳥居龍蔵全集』第6巻:587-595 |
1940 a (昭和15) | 「北魏時代の下花園石窟寺」A Pei Wei Buddhist Cave Temple atHsia-Hua-Ytian.Occasional Papers,Harvard-Yenching Institute,Peking Office 1940;『鳥居龍蔵全集』第5巻:671-680 |
1940 b (昭和15) | 「契丹黒山嶺考」『燕京学報』28期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:33-46 |
1941 (昭和16) | 「契丹之角砥」『燕京学報』29期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:45-56 |
1942 (昭和17) | 『遼代の画像石墓』Sculptured Stone Tombs of the Liao Dynasty.Harvard-Yenching Institute,1942;『鳥居龍蔵全集』第5巻:555-638 |
1943(昭和18) | 「契丹と中央亜細亜との服装の類似に就て」『中央亜細亜』2巻2期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:628-641 |
1944(昭和19) | 「再び契丹と中央亜細亜との服装と建築の類似に就て」『中央亜細亜』3巻1・2期合刊;『鳥居龍蔵全集』第6巻:642-650 |
1946a(昭和21) | 「石面彫刻の渤海人の風俗とササン・ベルシア式胡瓶」石面彫刻之渤海人風俗与薩珊式胡瓶『燕京学報』30期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:21-31 |
1946b(昭和21) | 「ササン・ペルシア様式の瓶と渤海人の風習」Vases of the Sas-Sanian Style and the Ways and Manners of the Pohai People.『燕京学報』30期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:31 |
1946c(昭和21) | 「中国支石墓(石棚)の研究」中国石棚之研究『燕京学報』31期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:1-19 |
1947 (昭和22) | 「奴児干都司考」『燕京学報』33期;『鳥居龍蔵全集』第6巷:295-350 |
1948 a(昭和23) | 「金上京城仏寺考」『燕京学報』34期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:273-293 |
1948 b(昭和23) | 「金の上京城及びその文化」金上京城及其文化『燕京学報』35期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:209-272 |
1949 (昭和24) | 「遼の上京城内遣存の石人考」遼上京城内遺存之石人考『燕京学報』36期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:57-81 |
1950 (昭和25) | 「遠の中京城内遣存の二石像考」遼中京城内遣存之二石像考『燕京学報』38期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:83-108 |
1951 (昭和26) | 「遼上京城の南、伊克山上の遼代仏剃」遼上京城以南伊克山上之遼代仏刺『燕京学報』40期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:109-207 |
1953 (昭和28) | 『ある老学徒の手記』朝日新聞社;『鳥居龍蔵全集』第12巻:137-342 |
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鳥居龍蔵の千島調査
「東京大学総合研究資料館標本資料報告 第18号、1990」より転載。
鳥居龍蔵が千島アイヌの調査を行ったのは、1899年(明治32年)のことである。一般に千島アイヌと呼ばれるのは、千島列島でもウルップ島以北の、いわゆる北千島に住むアイヌ人を指すが、当時すでに彼らは1884年(明治17年)の千島・樺太交換条約のあおりを受けて、色丹島に強制移住させられており、その人数も移住当時の97人から62人にまで減っていて、まさに消滅の危機に瀕していた。
1899年5月、鳥居は千島列島最北端の島であるシュムシュ島で発見された竪穴式住居と、そこに残された遺物を調査するため東京帝国大学人類学教室から派遣され、千島列島視察の任に赴く戦艦武蔵に便乗。同月6日函館を出航した。17日色丹島到着。そこで千島アイヌ人の通訳グレゴリー氏を雇い入れ、20日色丹島を発って、エトロフ、ウルップ、ブノレトン(マカンルル)、シムシル、ポロモシリの各島を歴訪、25日にシュムシュ島に到着。そこで5日間ほど竪穴式住居と遺物の調査を行い、それが千島アイヌのものであることを確認。そして、6月5日に再び色丹島を訪れ、以後そこに24日間滞在して、彼らの形質、言語、民俗などを調査した。
この報告は、1903年(明治36年)刊行の『千島アイヌ』にまとめられたが、予定されていた二巻のうち、研究史、地名、人名、人口、言語、考古学の一都を収めた前編しか刊行されず、民俗に関する部分などを報告するはずだった後編は刊行されずじまいだった。その部分を含めた調査報告は、1919年(大正8年)に東京帝国大学理科大学紀要第42冊第1編として公刊された、"Etudes Archéologiques et Ethnologiques.Les Aïnou des Iles Kouriles."にまとめられたが、これはフランス語で書かれており、そのために国内ではあまり利用されてこなかった[同論文は、1976年(昭和51年)になって『鳥居龍蔵全集』第5巻に「考古学民族学研究・千島アイヌ」として邦訳収録された]。
しかしこの調査記録は、それ以前のクラシェニンニコフ、シュテラー、ディボフスキ、ミルン、スノウなどの報告を踏まえた上で、さらに細かいところまでに観察の及んだものであり、以後本格的な調査が行われないままに千島アイヌの人々の風俗習慣そのものがまったく消滅してしまった今日、アイヌ研究にとって必須の文献であり、その価値が減じられることは永久にないだろう。
鳥居の調査報告が当時直接的に影響を与えたのは、1887年(明治20年)頃から盛んになった、有名なコロポックル論争であろう。コロポックル論争というのは、北海道の先住民(さらには日本全土の先住民)がアイヌ人の先祖であるか、それともコロポックルというアイヌの伝説中に現れる民族であるかという論争であり、彼の師である坪井正五郎博士はこのコロポックル説の先鋒であったが、彼の調査ははからずもそれを否定する結果となった。アイヌ説をとる小金井良精博士らがそれに意を得て、坪井と激しく論戦を交わしたことが記録に残っている。
一方、言語学の分野では、1903年(明治36年)の『千島アイヌ』で公表されたアイヌ語千島方言の語彙集がおおいに利用された。千島方言の語彙記録は1755年に公刊されたクラシェニンニコフのものが最初であり、その後シュチラー、ディボフスキなどによって発表されている。とくにディボフスキのものは、千島方言の語彙集としては現在にいたるまで最大のものであり、『千島アイヌ』の三倍の分量があるのだが、同書がポーランド語で書かれている上、一般の手には入りにくい本であったため、村山七郎氏が『北千島アイヌ語』(1971吉川弘文館)で同書の解説を行うまで、ほとんど利用されてこなかった。そこで、国内では『千島アイヌ』の語彙集を、アイヌ語千島方言の例として引用するのが一般的であった。たとえば、1964年(昭和39年)に刊行された服部四郎編『アイヌ語方言辞典』(岩波書店)は、北海道から樺太にかけての9つの方言を現地調査して、それを一覧表にしたものだが、千島方言については当時すでに調査は不可能の状態であったので、『千島アイヌ』の語彙をそのまま引用して他の方言と同列に並べている。また、後に浅井亨氏がアイヌ語諸方言問の格差を統計学的に算出した際も、彼の語彙を千島方言のデータとして用いている。
今回発見された写真原版のうち、当初千島のものとして分類されていたものは82点あった。そのうち48点は、1919年の論文に掲載された写真と同一であり、他の文献の挿図や、焼きつけされた写真そのものを撮影したようなものも多く、大部分は同論文の出版のために東京で撮影されたものと思われる。うち15点が、千島で採集されたと思われる民具類だが、ほとんどのものは写真に写っている原物そのものが、現在大阪の国立民族学博物館に所蔵されている。また、実際には掲載されていないが、おそらく同論文中に使うつもりで撮影されたと思われる写真がその他に11点ある。
次に、千島(おもに色丹島)で撮影したと思われる人物や風景のスナップ写真が13点ある。そのうち、1903年および1919年の論文で用いられているものは、武蔵船上で撮影されたわずか1点であり(48点の中に含めて数えてある)、あとの12点はむしろ論文に掲載したものの残りという感じがする。また、1912年(大正1年)に上野で開かれた拓殖博覧会会場で撮ったと思われる、ニヴフ、樺太アイヌ、北海道アイヌの人々と、その展示家産の写真が8点ある。写真の同定については、北海学園大学の藤村久和氏及び東京国立博物館の佐々木利和氏に御協力をいただいた。
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[千島列島の民族分布図] | [鳥居龍蔵の千島調査地図] |
■千島アイヌ関係著書・論文目録
以下の目録は『鳥居龍蔵全集』第5巻、第7巻、第12巻(1976年 朝日新聞社)によって作 成した。
1895(明治28) | 「アイヌの木偶と云へる物」『東京人類学雑誌』109号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:441-443 |
1899 (明治32) | 「千島土人制作の木偶」『東京人類学雑誌』163号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:443-445 |
1902 (明治35) | 「千島土人の土俗」『東京人類学雑誌』190号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:439-441 |
1903 a (明治36) | 『千島アイヌ』吉川弘文館;『鳥居龍蔵全集』第7巻:1-98 |
1903 b (明治36) | 「北千島アイヌの入墨に就て」『東京人類学雑誌』;『鳥居龍蔵全集』第7巻:445-447 |
1904 (明治37) | 「千島アイヌに就いて」『地学雑誌』16巻191・192号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:425-435 |
1913 (大正2) | 「民族学上千島アイヌの位置」『民俗』1年2報;『鳥居龍蔵全集』第12巻:700-706 |
1919 (大正8) | 『考古学民族学研究・千島アイヌ』Etudes Archéologiques et Ethnologiques.Les Aïnou des Iles Kouriles.東京帝国大学理科大学紀要第42冊第1編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:331-553 |
1933 (昭和8) | 「北千島アイヌの仮面」『ドルメン』2巻1号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:447-449 |
1939 (昭和14) | 「ミルン氏と私の北千島探査に就て」『武蔵野』26巻4号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:435-438 |
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鳥居龍蔵の沖縄調査
「東京大学総合研究資料館標本資料報告 第18号、1990」より転載。
鳥居龍蔵は、沖縄(琉球諸島)を二度訪れている。1896年(明治29年)の台湾からの帰途、および1904年(明治37年)の6-7月である。そのうち、とくに1904年の訪島は比較的長期間にわたる調査旅行で、首里・那覇から沖縄本島の中南部、北部(国頭地方)を踏査し、さらには先島の宮古・八重山諸島、八重山最西端の与那国島にまで足をのばした。(沖縄北隣の奄美にも船便の途次立ち寄った。)
沖縄行の主な目的は、石器時代遺跡・遺物の研究にあったようである。すでに現地を訪れる以前から鳥居は八重山出土の石器を紹介した「琉球ニ於ケル石器時代ノ遺跡」(1894 a)などの論文を発表し、沖縄に対する考古学的な関心を示していたが、1904年の滞在中も、最も精力的に取り組んだのは各地の遺跡調査であった。沖縄本島では中頭郡美里間切石川村チヌヒンチャ貝塚(現在の伊波貝塚)など四ヶ所、八重山諸島では石垣島の川平村獅子森(岡)貝塚(現在の川平第一貝塚)など二ヶ所の遺跡を調査して、土器、石器、貝製品等の出土を確認し、また那覇港内にある首里王府の海外交易品倉庫・御物城からは中国製青磁片などを収集した。それらは現代考古学の目でみれば、発掘というより表面的な採集調査の域を出るものではなかったにしても、鳥居が専門の学者として初めて沖縄の遺跡に注目し、沖縄の考古学研究に先鞭をつけた功績は大きい。この調査旅行の成果は、翌年「沖縄諸島に住居せし先住人民に就て」(1905 a)、「八重山の石器時代の住民に就て」(1905 b)などの論文にまとめられている。鳥居は、沖縄本島の土器を日本本土と同一系統のものと見なし、言語・身体形質に関する知見と合わせて沖縄石器時代人=アイヌ説を示唆する一方で、八重山諸島に関しては、出土した外耳土器が沖縄本島以北、日本本土には見られない別系統の土器であることを指摘し、むしろ台湾との関連性を推定した。そうした論旨の中にはアイヌ説など今日では支持を失ってしまった部分もあるが、沖縄の先史・考古学上の大局的な見通しについては、当時の鳥居の見解に、現在の研究でも受け継がれている所が少なくない。
その他にも沖縄住民の形質、言語、歌謡、習俗など、多彩な研究を行った。とりわけ注目に価するのは、鳥居がこの調査旅行に録音機、写真機を携帯し、祝詞、俗謡などの録音や、人物、建物、風景、行事などの撮影に力を注いだことである。当時の沖縄では、写真館のような特定の施設を除けば、写真機が広く住民に普及していたとは考えられない。その意味で、明治時代の後半に沖縄の各地を訪れて、村々の生活風景まで細かく撮影したそれらの写真は、今日では貴重な学術上の記録だと言えよう。鳥居の自叙伝にも「(沖縄本島で)ノロクモイ巫に注意し、その巫首という有名な婦人を撮影などした」、あるいは「(与那国島では)島の全体の村落、家屋、衣服等を概見し、それを早速撮影」(1953)といった記載が各所に散見される。今回ここに再生・収録したのは、その調査時の写真の一部である。
東アジアを中心にした鳥居龍蔵の雄大な学問世界において、沖縄(琉球諸島)はかならずLも枢要な位置にあるとは言えない。沖縄関係の学術論文も全部で6、7篇を数えるだけであり、生涯にわたる膨大な著述活動の中ではごく一角を占めているにすぎない。しかし、1904年という時点で、広く沖縄の南北、僻遠の離島までも踏査したその先駆性は、誰しもが高く評価するところであろう。鳥居の研究は、沖縄学の創始者と言われる伊波普猷をはじめとして、後の沖縄研究者たちにさまざまな影響を与えたと考えられるのである。ちなみに、1904年の調査旅行のときに鳥居に同道し、沖縄を案内したのは、当時はまだ東京帝国大学学生の伊波普猷であった。 写真の画像確認の際に、石垣博孝、糸数兼治、上江洲均、久手堅憲夫、名嘉順一、比嘉政夫の諸氏ならびに浦添市美術館準備室の諸氏から有益な御教示を賜りました。御礼申し上げます。
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[鳥居龍蔵の沖縄調査地図] |
■沖縄関係著書・論文目録
以下の目録は『鳥居龍蔵全集』第5巻、第7巻、第12巻(1976年 朝日新聞社)によって作 成した。
1894 a (明治27) | 「琉球二於ケル石器時代ノ遺跡」『東京人類学会雑誌』94号;『鳥居龍蔵全集』第4巻:611-612 |
1894 b (明治27) | 「琉球諸島女子現用ノはけだま及ビ同地方掘出ノ曲玉」『東京人類学会雑誌』96号;『鳥居龍蔵全集』第4巻:612-615 |
1897 (明治30) | 「日本古代の神話と宮古島の神話」『東京人類学会雑誌』130号;『鳥居龍蔵全集』第4巻:609-610 |
1904 a (明治37) | 「森山氏の琉球語のことに就て」『東京人類学会雑誌』222号;『鳥居龍蔵全集』第4巻:625-628 |
1904 b (明治37) | 「沖縄人の皮膚の色に就て」『東京人類学会雑誌』223号;『鳥居龍蔵全集』第4巻:616-625 |
1905 a (明治38) | 「沖縄諸島に住居せし先住人民に就て」『東京人類学会雑誌』227号;『鳥居龍蔵全集』第1巻:24ト248 |
1905 b (明治38) | 「八重山の石器時代の住民に就て」『太陽』第11巻5号;『鳥居龍蔵全集』第1巻:248-256 |
1918 (大正7) | 『有史以前の日本』磯部甲陽堂(大正14:改訂版);『鳥居龍蔵全集』第1巻:167-453 |
1953 (昭和28) | 『ある老学徒の手記』朝日新聞社;『鳥居龍蔵全集』第12巻:137-343 |
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鳥居龍蔵の西南中国調査
「東京大学総合研究資料館標本資料報告 第18号、1990」より転載。
鳥居龍蔵は1902年(明治35年)7月30日に東京を発ち、翌1903年3月13日横浜に戻るまでの合計7カ月と13日間、西南中国への調査旅行を敢行した。彼が通過した省の一つ雲南省はほぼ日本の国土と同じ広さを持つが、今日と遠い交通手段もまだ発達していなかった当時の状況を考えると、この旅行のスケールの大きさと彼のバイタリティーを感じずにはいられない。
鳥居はこの調査に先立ち1896年(明治29年)から1900年(明治33年)までの4年間台湾の山地民の調査を行なっているが、台湾における山地民は基本的にはフィリピンその他の南方諸島から移住してきたインドネジアン(原マレー人)であるとされている。ところが彼が調べた中でツォウ族の間では、小人伝説があったり、実際に短身のものがいたりした。これは元来のツォウ族が南中国のミャオ、ヤオ族等と雑合したためではないかと彼は推測した。つまり最初にこの地に住んだのはもともと福建、広東より移ってきたミャオ、ヤオ等のインドシナ種族で、その後インドネジアンが先住民である彼等を征服したと考えたのである。また、フランスのラクペリ氏が台湾のタイヤル族の言語、風習が広義のミャオ族(南中国の非漢民族)と類似していると指摘したこともあり、鳥居は台湾と比較のためぜひとも南中国へ行く必要性があると感じていた。これが西南中国へ鳥居が足を踏み入れる動機であった。そして彼の希望していた調査が東京帝国大学から認められたのである。
旅行中、彼が調査した主な内容は①生体についての身体測定、②語彙の採集、③社会、文化、習俗の調査および民具の収集、④考古、歴史上の遺物の確認の4つである。その成果は『苗族調査報告』をはじめ数々の論著にまとめられている(文献目録参照)。これらの論著は、フィールドワークで集めた資料ばかりでなく、漢籍史料も渉猟してまとめられている。鳥居はすぐれたデスクワーカーでもあったといえる。しかし、鳥居自身今回の旅行は南中国のうち北部の少数民族のみであり、南中国における漢族進出以前の姿を明らかにするには南部の民族についても調査せねばならないことをよく認識している。今回はあくまでも予備調査であり、やがて本格的調査をするつもりでいたようである(『鳥居龍蔵全集』第10巻、559頁)。だから当初の目的であった台湾山地民との比較については明確な解答は得られていない。
ところで私自身のことになるが、1985年(昭和60年)に貴州省の清水江流域で初めてミャオ族の調査をした。鳥居が西南中国を旅した時と同じ年齢(32才)である。幹線道路は整備され、マイクロバスやジープで目的の村まで行くことができるようになっていたが、それでもかなり大変な旅であった。その意味で83年前にこの地に足を踏み入れた彼が現地においてどのような調査を行なったのか、人類学者として現地とどうかかわったのか非常に興味を持った。鳥居のことを「苦難の道をあえて行く求道者」と評した人がいるが、彼の旅日記である『人類学上より見たる西南支那』を読むと、まさに彼の超人ぶりがうかがえ、舌を巻くばかりである。しかし、同時に繊細な心の動きを感じさせる記述もあり、正直言ってほっとさせられる。今こうして一枚一枚の写真を旅日記の記述と重ね合わせて見ていくと、その時々の彼の思いや考えが歳月を越えて鮮やかによみがえってくる。
上海からの彼の足どりを辿ってみると、まず汽船に乗り漢口まで行き、漢口で最終的に旅支度を整え、貨客船を使って黔陽まで行く。ここで船をおり、以後成都までの間は輿または馬を使っている。成都からは再び船を使って長江を下って上海に戻っている。彼に同行した人物や人数については、鳥居はあまり書き残していないのではっきりしない。輿や荷物を担ぐ人夫はその都度雇っていたようであるが、断片的な記述から推測すると、上海からは通訳の王氏が終始同行したと思われる。また貴陽から重慶までは苦力の老王と料理人の王福を雇っており、基本的には重慶までこの4人が行動をともにしたようである。老王が主に担いだのはガラスの乾板で、これが4、50ダースあった。王福の主な仕事は、夜一行が宿に着いてから食べ物の買い出しに行き、料理をつくることであった。日記によると、当時の宿では賄いは自分でやることになっていたようである。このほかにも現地の役所から付けられた護衛の兵卒が数人いるので、一行の人数はかなりの数にのぼったと思われる。
ところで彼がいかに超人的だったかを示す例を二、三紹介しよう。陸路を移動中はたいてい朝の6時か7時には出発し、昼前に街道筋の茶店などで朝食をとり、通過する村々での調査をしながら進み、日暮れ前に投宿。一日二食で山道をほぼ3、40キロ進んでいる。しかも、宿に入ってからも昼間現地の役所から借りてきた地方誌などを夜遅くまで書き写している。このような生活を長いときは一週間から半月も続けている。鳥居のこの超人的な調査活動にはまったく頭が下がる。しかし旅日記を見る限り彼は病気一つしていない。また、時には夜明けと同時に出発したために、護衛の兵卒が眠気眼で追いかけることになったり、日が暮れても目的地に着かず、松明を焚きながら進んだため、誤ってぬかるみにはまって腰まで泥まみれになり、目的地に着いたときには城門はすでにしまり、匪賊に間違えられたりした。鳥居が乗馬に慣れておらず、落馬することもあった。
現在の人類学では現地に長期間住み込んでフィールドワークを行なうのが理想的な調査とされており、その意味では鳥居が行なった調査は理想からは遠いといえる。黄平-重安間における黒苗(ミャオ族)の調査、貴陽南方の青岩、恵水(旧名八蕃)における狆家(チュンチャ)(ブイ族)とミャオ諸集団の調査、安順付近での青首、花苗の調査、昆明(雲南府)南方の路南、弥勒、通海での玀猓(ロロ)(イ族)、諸集団の調査、西昌(寧遠)での玀猓、チベット諸集団の調査が最も密度の高いものであったが、いずれも短期間の調査に留まっている。そのため彼の書いたものをみても社会組織に関する記述は貧弱である。
しかし、彼の調査に制約を加えた最大の原因は中国における当時の対日感情と支配関係であったと言わざるをえない。義和団事件と八ヵ国連合軍の北京入城により、中国人一般の反日感情が高まっていたので、鳥居一行は常時清朝官憲の保護下にあった。鳥居自身も清朝服に着替え、かつらの辮髪姿になって身の安全を図った。しかし彼が調査しようとした民族は清朝官憲から苦しめられており、清朝官憲に対し恐れと嫌悪を抱いていた。だから兵卒を伴った清朝服姿の鳥居の出現は村人たちに歓迎されはしなかった。鳥居が家の扉を押しても、村人たちは中から扉を押えてなかなか出てこようとしなかった。また、写真機の前に立った村人はいつも脅えて、空ろな目をしている。また逆に、黄平付近の黒苗の村では、村人たちが珍しくも好意的であったのだが、護衛の士官らが黒苗を賤民視し、村での長居を嫌い、鳥居は仕方なく引き上げている。
ところで鳥居は旅日記にもあまり自分の感情をはっきり出していないが、何ヶ所か心の動きがわかる箇所がある。そうした記述から推測すると、彼にとって最も印象的だった村の一つは通海近くの路居村(玀猓・漢雑居)である。12月8日彼はこの村に一泊するが、 彼をこの村に案内したのはこの村出身の張鎮という人で、この人は鳥居が沅水を遡ったとき同船した楊氏(雲南知県の候補で、任地に赴く道中)の家僕で、その後帰省中に鳥居の到着を聞いて村に案内したのである。村では玀猓の踊りを催し、鳥居は大いに旅情を慰められたようである。
翌年の2月6日叙州に一行を乗せた船が到着する頃、雲南以降雪の日も風の日も彼の供をした(黒)ロロという名の犬が旅の疲れのため船中で死んでいる。実はこの犬は前年の12月9日路居村を発つときにもらった小犬である。毛が黒く足が非常に長いのでこの名をつけたのだが、日本に連れて帰るつもりでいたこの犬の死を鳥居はとても悲しがり、「いつまでもいつまでも旅行中の一記念とする」と言っている。路居村でのもてなしと贈られた小犬が、緊張と疲労の続く毎日のなかで、彼の孤独を大いに癒してくれたのであろう。超人鳥居ではなく、常人鳥居の姿が浮かぶようなエピソードである。
鳥居は1951年81才の時に中国から日本に帰国し、回想記『ある老学徒の手記』を出すが、人名や事実関係に間違いが目立つ。西南中国に関しても旅日記の記述との出入りが多く、終始同行してくれた通訳王氏の名も張氏となっている。あくまでも一つの推測だが、彼にとって思い出深い路居村へ導いてくれた張氏と終始鳥居に付き添った王氏とがだぶってしまったのではないだろうか。鳥居は亡くなる前の年にこの回想記をしたためているが、記憶が曖昧になっていくなかで、西南中国のことを振り返るとき、無意識のうちに路居村の記憶が倍加したのではなかろうか。ただ路居村の写真が一枚も残っていないのが今となっては残念で仕方ない。
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[鳥居龍蔵の西南中国調査地図] |
■西南中国調査旅程
1902年(明治35年)7月-1903年(明治36年)3月]
年 月 | 歳 | 調 査 | 文 献 |
1902年(明治35) | 32 | 7/30 東京発-横浜(博愛丸)-神戸-門司-長崎- 8/6 上海着。 8/11 上海発(太真丸。通訳王氏が同行)-江陰-鎮江-江寧-太平-蕪湖-池州-安慶-九江-黄州-8/15 到達漢口。 8/24 漢口発(麻陽船と呼ばれる貨客船に乗る)- 9/1 洞庭湖に入る-9/7 常徳着。 9/13 常徳発(砲艦一艙が護衛用につけられる)-これより沅水[沅江]を遡る-桃源(桃源洞に遊ぶ)- 9/19 辰州(中国服に着替え、辮髪姿に変装)-9/25 新路河-9/28 洪江司-10/1 黔陽着。 10/2 黔陽より陸路(人夫3人を雇う)-10/3 便水-晃州-貫州に入る-黄頭店で初めて苗族を見る-五屏-清渓-10/7 鎮遠着(重陽の節句で人夫雇えず。市内撮影行なう)。 10/10 黔陽から乗馬旅行-施平-これより黒苗族の集住地(行く行く彼等の村を訪問)-黄平-重安-楊老-平越-黄糸-沅水と他の流域の分水嶺-これより花苗の地-畳定-10/17 貴陽着。 10/18 責陽発(銅鼓を入手)-狆家、青苗、白苗、花苗、打鉄苗の調査-中旬に青岩-下旬に八蕃-10/29 貴陽着。 10/30 貴陽発(重慶まで伴をする料理人王福、苦力(クーリー)老王を雇う)-清鎮-安平-この間明代の遺民鳳頭鶏が分布-10/31 安順着(青苗磵の青苗、旧寨の花苗を調査)。 11/4 安順発-11/5 鎮寧-黄果樹の滝-紅岩山の古代文字-関索嶺上の青苗の村に一泊-坡貢(白苗)-明代の遺民里民子-11/6 朗岱着。 11/7 朗岱(花苗、狆家、玀猓の調査。) 11/8 朗岱発-毛口(狆家)-花貢(白苗)-資孔-勝境関(これより雲南の平原地帯に出る)-平彝-霑益-11/18 馬竜-易隆-11/21 竜橋墩-嘉利池-楊林-11/22 板橋(散密玀猓)-11/23 雲南府[昆明]着。 11/26 雲南府発(仏塔の見学)-呈貢-楊宗海-タウク村(ニヤミタン玀猓)-11/28 路南(石灰岩の奇観)-11/29 アツロン村-11/30 ページ村(アシブ=白玀猓の調査)-花口(アシブ)-ルークワンジュ村(狆家)-12/1 弥勘-12/2 ショジョポカ、チェシミ村(白玀猓)-12/2 弥勒-カタージュ村(花苗)-12/3 十八砦(黒玀猓、白玀猓、阿者玀猓の調査)-タワツ村(黒玀猓)-12/7 通海(アブー玀猓)-12/8 路居村(玀猓・漢雑居)で一泊。舞踏などで歓待される-江川-12/12 雲南府着。 12/19 雲南府発(沙玀猓)-富民-(分水嶺)-12/21 武定(リス、ミチャー、花苗)-烏竜洞近くのリス族の村-花橋村に一泊(これ以降村での宿泊ふえる)-サラ村(ロロム=白夷)-女子4人(シオホテン村のナスプ=黒夷)-12/24 霊仁-金沙江司-12/26 金沙江を渡る(阿片の花)-姜駅-12/27 アライ村(アシプ)-河口-鳳山営-12/29 会理着(羅州山の黒玀猓の村へ)。 | 1903 b 1903 e 1907 a 1926 1953 1916 1904 1916 1905 a 1916 1903 a 1903 f 1923 |
1903年(明治36) | 33 | 1/1 会理発-(行く行く夷人を調査)-ペイヴァー白菜湾-1/3 鉄人房-黄水塘-馬道子(西蕃)-1/5 寧達者(黒夷、白夷、西蕃、チベット、古猔族)。 1/7 寧遠発-礼州(玀猓、西蕃)-1/8 満水湾(水田(ネー)=玀猓の一部族)-これより雪の小相嶺へ- 1/8 蘆鼓-玀猓ファン村(黒夷)-登象営-1/10 チンパイン村近くの白夷の村-越巂着(玀猓の調査)。 1/12 越嶺発-コチポーガフプセ-保安-1/13 ファミマ村(西蕃)-海裳-雪の難路-1/15 河南站-大樹堡-大渡河を渡る-富林場-唐家塘-1/16 清渓-大相嶺越え(2500㍍。漢夷の分界地点)-黄泥堡-栄経-1/19 雅州着。 1/20 雅州発-名山-百丈-印州-新津- 1/23 成都着(1/27 旧正月を過ごす)。 1/31 成都発(重慶の領事徳丸氏の船に便乗)- 2/1 錦江沿岸の蛮子洞-古物堂-河口の蛮子洞-漠陽覇の横穴-楽山-2/4 ケーチアーツ(蛮子洞の調査)-枯相場-叙州-瀘州-2/10 垂慶着(蛮子洞の調査)。 2/12 重慶発-宜昌(英国汽船に乗る)-2/24 漢口着。 2/25 漢口発-2/27 上海着。 3/7 上海発(西京丸)-長崎-門司-神戸-3/13 横浜着。 | 1903 g |
* 地名、民族名、部族名は鳥居の用法に従った。狆家、玀猓(または白夷、黒夷)、西蕃と古猔はそれぞれ今のブイ族、イ族、チベット族(帰属については議論あり)のことである。
■西南中国関係著書・論文目録
以下の目録は『鳥居龍蔵全集』第5巻、第7巻、第12巻(1976年 朝日新聞社)によって作 成した。
1901(明治34) | 「東部有黥面蕃語と苗族譜の比較」『東京人類学雑誌』179:『鳥居龍蔵全集』第11巻:539-541 |
1903 a (明治36) | 「清国雲南玀猓調査」『東京人類学会雑誌』204;『鳥居龍蔵全集』第10巻:576-580 |
1903 b (明治36) | 「苗族と玀猓に就て」『東洋学芸雑誌』20-259;『鳥居龍蔵全集』第11巻:357-368 |
1903 c (明治36) | 「支那に於ける苗族の地理学的分布並にその現状」『地学雑誌』15-173,174;『鳥居龍蔵全集』第11巻:368-383 |
1903 d (明治36) | 「支那の苗族」火曜会講演;『鳥居龍蔵全集』第12巻:713-729 |
1903 e (明治36) | 「清国西南部人類学上取調報告」『東京人類学会雑誌』208;『鳥居龍蔵全集』第10巻:553-559 |
1903 f (明治36) | 「玀猓の文字」『学燈』7-10:『鳥居龍蔵全集』第10巻:586-594 |
1903 g (明治36) | 「清国四川省の満子洞」『考古界』3-7,10,11,4-1:『鳥居龍蔵全集』第10巻:605-622 |
1904 (明治37) | 「余の携えたる一個の銅鼓に就て」『東洋学芸雑誌』21-286;『鳥居龍造全集』第10巻:626-643 |
1905 a (明治38) | 「苗族は現今如何なる状態にて存在する乎」『史学雑誌』16-3~5;『鳥居龍蔵全集』第11巻:383-396 |
1905 b (明治38) | 「玀猓の神話」『帝国文学』11-9;『鳥居龍蔵全集』第10巻:594-602 |
1907 a (明治40) | 『苗族調査報告』東京帝国大学(理科大学人類学教室)刊 |
1907 b (明治40) | 「玀猓種族の体質」『東京人類学会誌』257,261;『鳥居龍蔵全集』第10巻:580-586 |
1916 (大正5) | 「貴州雲南の苗族」『東洋時報』209,210;『鳥居龍蔵全集』第12巻:637-650 |
1918 (大正7) | 『有史以前の日本』磯部甲陽堂刊;『鳥居龍蔵全集』第1巻:167-453 |
1923 (大正12) | 「支那の南蛮に弓箭なきか」『人類学雑誌』38-6;『鳥居龍蔵全集』第10巻:574-576 |
1924 (大正13) | 『日本周囲民族の原始宗教』岡書院刊;『鳥居龍蔵全集』第7巻:319-422 |
1926 (大正15) | 『人類学上より見たる西南支那』冨山房刊;『鳥居龍蔵全集』第10巻:219-521※『中国の少数民族地帯をゆく』朝日選書1980として再刊 |
1953 (昭和28) | 『ある老学徒の手記-考古学とともに六十年』朝日新聞社:『鳥居龍蔵全集』第12巻:137-343 |
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鳥居龍蔵の朝鮮調査
「東京大学総合研究資料館展覧会カタログ・乾板に刻まれた世界、1991」より転載。
鳥居の調査については、すでに『写真資料集カタログ』第一部に、台湾、満州、千島、沖縄、西南中国について、それぞれ調査旅程と調査図及び専門的角度からの解説がまとめられている。 しかし、質量とも無視しえない写真が残されている朝鮮がぬけているので、本展示会を機会に追加収録することにした。
鳥居の朝鮮調査は、満州調査の序でに行われた最後の第7回調査を除き、四十代始めから、北朝鮮から南の多島海へと調査地を意識的にずらせながら、毎年3ヶ月からしばしば半年以上をかけ集中的に行われた。この間、私的には母親の死と、公的には恩師であり人類学界のリーダーであった坪井正五郎の急死にあい、人類学教室を引き継ぐという大きな事件を経験している。朝鮮調査は、この池の乗り切った時期に都合8回(予備調査を含む)にわたるにもかかわらず、鳥居には珍しく、第5回を除いて詳しい報告書が残っていない。これは、同じく総督府より1913年(大正2年)から委嘱を受けた関野貞ら歴史学者たちの調査分担に縛られていたこと、およびそれと関わりが有ったのか否か不明だが、総督府学務課での第1回報告書紛失事件とによるものであった。
元来、朝鮮調査は、蒙古満州の調査を始めていた鳥居が出版界の知人の紹介をうけて、寺内総督と会い、嘱託として始めていたものであった。第3回目の時、総督府では関野貞らに、古建築と古墳の調査を依頼し、鳥居は、石器時代遺跡と生体測定に従事する事になった。彼はこの分担領域を大変気にしていたが、これは、すでに満蒙の調査から、有る程度、自分の見通しないしその基礎を持っていて、それが関野たちの定説と抵触する事に気づいていたからであろう。
まず、鳥居は予備調査で定説とは異なり朝鮮に石器の存在する事を確認した。さらに、平壌付近の大同江畔の古墳について、今西龍、関野貞らの高句麗説に対し、鳥居は、盗掘者の所持する遺物、満州での発掘経験、『漢書』、『魏志』等の資料を考慮し、楽浪郡の漠族の墳墓であるとした。鳥居によれば、高句麗説は中国政府に対する政治上のポリシーからも好都合であった。東京での発表に対し、出席者の多数より反駁され、朝鮮研究の権威に対し無礼であると詰責された。『史学雑誌』にも掲載されなかった、と鳥居は述べている。[ただし、実際には鳥居は朝鮮調査を始める前の満州調査で、関野説への反論を『史学雑誌』(1910b『全集』8:603-604)で明確に述べている。]また、その後毎年行われた古墳発掘の仲間に入れず、逆に「鳥居は、樂浪古墳の発掘に関係せず、従って埋葬すら知らない」と嘲笑された(1953170-171)。潔癖な鳥居は、採集品はすべて総督府博物館に納めた。鳥居龍次郎氏を訪問した韓国の学者の話によると、ソウルの博物館に当時の写真乾板が二千点あまり保管されているという。[ちなみに姜仁求『韓国前方後円墳舞妓山長鼓山 測量調査報告書』(精神文化研究所)p.28 によると20,000枚となっている。のベ3年に近いと考えられる鳥居の滞在期間や費用が総督府から出た点からすると、あながち有り得ない数字ではないが、今回の写真の総数が2,500枚余であることを考えると、前者の数字の方が現実性があろう。]また、どういう訳か第1回の報告書が学務課で紛失したので、第5回のみ報告書を提出した。朝鮮の石器時代についての見通しを論文に発表しようと思ったが、最終回の調査以後は、「同府の嘱託はとかれ、黒板博士及び東西大学各位の仕事となり、私にはこれに関係させず...その他の人もこれに入れないで、官学学者唯一となったから、私は遂に総結論をもすることができず、そのままになった。」(1953:174)と記している。このように、孤高を貫いた鳥居の対人関係が、調査の進行と報告の作成にまで直接影響を及ぼした点で、他の地域の調査と比べ特徴的である。
写真撮影は、沢俊一氏が助手兼撮影技師として第6回まで同行した。Maedaというサインのある写真が数枚あるが、龍次郎氏には心当たりがないので第6回以前のものであろう。また、鳥居は、遺跡を見つけると常にその周囲の全景を撮るよう務めていた。第7回調査の時、満州・ロシア国境近くで遺跡の全景を収めるため後退して行ったら、境界にさしかかったらしく、いきなり銃声が鳴り、すっ飛んで引き返した事もあったという。
予備調査を入れ8回にわたる調査では、生体計測、石器時代の遺跡、民俗やシャーマニズムが主要テーマであった。これらの成果の一部は、雑誌論文などに発表されているが、詳細な記述は第5回を除き、ついに発表されなかった。風俗に関する記述、写真のうちに、当時の姿をしのばせる貴重なものが断片的ながら触れられているだけに、その資料と克明な日記が生かされなかったのは惜しまれる。
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[鳥居龍蔵の朝鮮調査地図] |
■朝鮮調査旅程
1910年(明治43年)-1932年(昭和7年)]
年 月 | 歳 | 調 査 | 文 献 |
1910年(明治43年)夏 | 41 | 予備調査 (東京港)-釜山港(船中米穀王熊本利平と知り合い、途中米作地に数ヶ所寄港)-仁川港。京城(『世界』を発行していた二宮氏の紹介で、寺内総督と会い調査打ち合せ、古蹟調査、石器時代の調査、朝鮮人の生体測定)-釜山-(東京港) | |
1911年(明治44年) | 42 | 第一回調査(写真井上達三、助手信州史家黒岩秀次) 8/29 東京-京城-9/8 釜山-9/10 成鏡道(僻遠の地であるため古俗残すと珍しく風俗関係にやや詳しい説明)元山-城津(東海岸)-会寧(豆満江畔)-豆満江を渡り満州渾春へ(土城および市街の調査)-豆満江を渡り雄基湾に-1912年3月京城-水原-(東京)石器の存在を確認(八木氏らの朝鮮に石器時代遺跡無しの説訂正)、山城、風俗(髪型、家屋、馬、旅合、食事など)、巫俗、身体測定。 | 1912,1924 |
1912年(明治45年) | 43 | 第二回調査(画家佐藤醇吉、写真澤俊一同行) (10月満州旅順、総督福島将軍を訪ね、同官舎に宿泊-汽専-長春-吉林省東=海龍塀で女真文字拓本を取る)-鴨緑江-朝鮮楚山-鴫線江-満州輯安県洞溝(高句麗古墳、好大王の碑、山城)-楚山-京城-(1913年3月宮崎県知事の要請により、帰途古墳調査-1913年4月東京) | |
1913年(大正2年) | 43 | 第三回調査(関野貞博士も総督府嘱託として、古建築、古墳の調査を行ったので、専ら石器時代の遺跡と生体測定、傍ら土俗の調査に限定する。写真澤俊一同行) 慶尚南道、慶尚北道、全羅南遺、全羅北道、多島海、済州島(石器表面採集可能、洛東江の金海貝塚発掘、縄文式無く、弥生式と類似、ドルメンいたるところにあり、女子の髪型、十二支の絵を外に貼る、瓢箪舟、農事祭式としての仮面劇)1/21 洛東江-1/25 金海(貝塚発掘、身体測定)-成安(第二の日本府の地古墳調査、民俗記述)-2/1 鎮海-統営-巨済島-統営-固城-南海島-蟾津江-河東-露梁津-釜山-東莱-密陽-昌寧-3/1 大邱-3/4 慶州-3/9 迎日湾-清河-盈徳-青松-安東-栄州-豊基-醴泉-龍宮-尚州-金泉-億館-星州-高霊-大邸-3/31 京城-4/15 大邱-4/19 慶州(半月城地盤の新羅以前の遺跡を発掘)-4/24 迎日湾の浦項-日月池-阿珍浦-利見台-感応専-慶州-蔚山-全羅南道-光州-木浦-5/15 (警備船で)梅花島-概子島-5/17 済州島(面白い地で、土俗も陸地朝鮮と異なった点がある、一般と海女の身体計測)-6/7 木浦-右水営-木浦-6/14 珍島-莞島-6/23 麗水-6/24 巨文島-順天-7/9 宝城 | 1914a |
1914年(大正3年) | 44 | 第4回調査(写真澤俊一同行) 忠清南道-息清北道-中央山脈を横断-江原道(石器時代の遺跡、朝鮮人の生体測定、高麗時代の仏刺の牡や仏像見学。西海岸沖積堆土のため貝塚連続、東海岸直線波荒く石器海中に没す。) | |
1915年(大正4年) | 45 | 第5回調査(写真澤俊一同行) 黄海道-平安南道(生体測定、石器調査、平壌付近、大同江畔の美林里遺跡は、石器時代と三国時代の中間に漢式土器と金属器を含む、漢代樂浪郡時代と推定)-慶尚南道-慶尚北道-欝陵島(古墳、麻、日本米子との往来、生体測定。黄海道の長山半島の夢金浦は、李朝以前山東省の漢人漁民および仲買人の根拠地として栄えた。) | |
1916年(大正5年) | 47 | 第6回調査(写真澤俊一同行) -9/27 -12/24 平安北道-黄海道-鴨緑江口付近-京畿道-釜山 | |
1932年(昭和7年) | 63 | 第7回朝鮮調査 第7回満州調査(文部省の満州国撮影指導の帰り。スケッチ係として次女緑子、撮影係として次男龍次郎同行)の途中、-8/14 -8/25 (義州)-開城(高麗の故址の調査)-京城(藤田亮作の斡旋で京城大学関係者などのティーパーティー)-慶州(新羅遺跡見学)-(奉天) |
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鳥居龍蔵 写真目録
「東京大学総合研究資料館標本資料報告 第18号、1990」より転載、増補。
台湾 | ヤミ族 | アミ族 | プュマ族 | パイワン族 | ルカイ族 | タイヤル・セデック族 |
ブヌン族 | ツォウ・カナカナブ・サアロア族 | サオ族 | 平埔族 | 漢族 | その他「不明) | |
満州 | ||||||
千島・樺太 | ||||||
沖縄 | ||||||
西南中国 | ||||||
朝鮮 |
■台湾 [1896年(明治29年)-1900年(明治33年)撮影]
解題:土田 滋・姫野 翠・末成 道男・笠原 政治
[ヤミ族(Yami)]
整理番号 | 写真番号 | 解 題 |
1 | 7184 | 台湾・ルソン間諸島嶼の地図。 |
2 | 7186 | 紅頭嶼地図(ヤミ-カミもしくはヤミ-ナーメンと記入されている)。 |
3 | 7484 | 海岸に勢揃いしたタタラ。 |
4 | 7485 | 海岸にひきあげてあるタタラの大群とチヌリクラン(大船)。 |
5 | 7272 | 海岸に集まった男たち(遠景は集落)。 |
6 | 7307 | イモロッド社遠望。 |
7 | 7099 | イモロッド社の浜にひき上げられたチヌリクラン(遠景は集落)。 |
8 | 7098 | イモロッド社の風景。 |
9 | 7094 | イモロッド社の風景(家屋と石積み)。 |
10 | 7097 | ヤユー社遠望(手前は水芋の水田)。 |
11 | 7096 | イラタイ社の人々。 |
12 | 7189 | イヴァリノ社の子供たち(建物は倉庫)。 |
13 | 7308 | 小紅頭嶼の海岸にて、ヤミ族の男とタタラ。 |
14 | 7482 | ヤミ族の家屋。 |
15 | 7481 | 銀兜をつけて正装した男たち。 |
16 | 7479 | 正装した婦人たち。 |
17 | 7477 | 村人たち(中央の女の背負籠の中には水芋)。 |
18 | 7478 | 涼み台に集まった村人たち、警官の姿も見える。 |
19 | 7234 | ヤミ族の武具(楯、刀、籐製かぶと、籐製よろい、槍、蕃刀)。 |
20 | 7330 | 機織り器具一式と土器製作用具、および織布による衣装。 |
21 | 7329 | 装身具と人形、および道具類。 |
22 | 7328 | 衣服と笠類。 |
23 | 7012 | ヤミ族の道具-漁具、日常用具。 |
24 | 7101 | 土器製作中のヤミ族。 |
25 | 7187 | 機織りをする女。 |
26 | 7315 | 粟を搗く男。 |
27 | 7313 | 海岸で何かに熱中している男。 |
28 | 7309 | 小屋を建設中の日本人を見守る男たち。 |
29 | 7305 | テントの前の5人の男たち。 |
30 | 7188 | テントの前に集まった少年たち。 |
31 | 7270 | テントの前に集合した男たち。 |
32 | 7306 | 日本人を迎えた男たち。 |
33 | 7182 | ヤミ族の少女。 |
34 | 7344 | 蕃刀を肩から吊った男。 |
35 | 7336 | ヤミ族の男。 |
36 | 7348 | 老いた男。 |
37 | 7346 | 母と子供たち。 |
38 | 7340 | ヤミ族の少女と子供たち。 |
39 | 7238 | ヤミ族の船・3人乗りのタタラ(彫刻文様付き)。 |
整理番号 | 写真番号 | 解 題 |
306 | 7008 | 大南社の住居。 |
307 | 7118 | 大南社の女と子供たち。 |
308 | 7458 | 大南社の住居と人物。 |
309 | 7173 | ルカイ族(またはパイワン族)の男女。 |
310 | 7517 | 女の上半身ポートレート。 |
311 | 7516 | 男の上半身ポートレート。 |
312 | 7515 | ルカイ族の女・子供たち。 |
313 | 7514 | ルカイ族の女2人。 |
314 | 7513 | ルカイ族の男2人。 |
315 | 7512 | ルカイ族の男2人。 |
316 | 7119 | 台東廳にきた正装の大商社の男たち。 |
317 | 7019 | 台東の街、左側に大商社・ルカイ族の一団。 |
318 | 7245 | 東京帝国大学人類学教室を訪れたルカイ族・マンタウラン社の頭目(正面)。 |
319 | 7247 | 東京帝国大学人類学教室を訪れたマンタウラン社の頭目(側面)。 |
整理番号 | 写真番号 | 解 題 |
94 | 7468 | セブクンの首棚。(『鳥居龍蔵全集』第5巻:47) |
95 | 7470 | セブクンの女と子供たち。 |
96 | 7114 | 抜歯を見せるセブクンの男。 |
97 | 7050 | 東埔社の男たち。 |
98 | 7125 | 東埔社の祭日の儀式。 |
99 | 7051 | 東埔社の女と子供たち。 |
100 | 7052 | 弓を構えるポーズの東埔社の子供2人。 |
101 | 7102 | 東埔社の女たち。 |
102 | 7834 | 濁水渓支流・東埔渓の釣橋とブヌン族(左)。 |
103 | 7104 | 濁水渓上流・東埔ブメン族の山焼き(焼畑)。 |
104 | 7370 | タルナ〔タルナス〕社分社の女たちと子供。 |
105 | 7021 | タルナ〔タルナス〕社の男たち。 |
106 | 7355 | 住居前のタルナ〔タルナス〕社の男たち。 |
107 | 7130 | カンタバン蕃の男たち(背景の建物は漢式)。 |
108 | 7322 | ブヌン族の住居。 |
109 | 7475 | 正装したプヌン族の男。 |
110 | 7480 | 正装したブヌン族の男女。 |
111 | 7474 | 正装したブヌン族たち。 |
112 | 7088 | プヌン族の住居。 |
113 | 7146 | ブヌン族のしゃがむ姿勢。 |
114 | 7149 | ブヌン族の男たち。 |
115 | 7164 | 父と息子。 |
116 | 7175 | 男たちと子供。 |
117 | 7194 | プヌン族の男。 |
118 | 7198 | ブヌン族の男たち(コヤス貝の肩掛け)。 |
119 | 7319 | 濁水渓畔のブヌン族の男(右手に銃)。 |
120 | 7353 | イワン社の頭目。 |
121 | 7325 | 物見台と敷石と粟。 |
122 | 7421 | プラ一社の女たち。 |
123 | 7148 | ブヌン族の男(頭上に竹がクロスしたもの)。 |
[ツォウ族(Tsou)・カナカナプ族(Kanakanabu)・サアロア族(Saaroa)]
整理番号 | 写真番号 | 解 題 |
186 | 7570 | 日月潭に浮かぶ丸木舟。 |
187 | 7337 | 水社湖と丸木舟。 |
188 | 7236 | 萱葺の住居前に立つ一家(水社)。 |
189 | 7231 | 水社の男たち。 |
190 | 7341 | 煙管をくわえた酋長(水社)。 |
191 | 7345 | 水社の酋長の妻。 |
192 | 7569 | 杵歌の演奏に集まって来た女たち(日月潭)。 |
193 | 7568 | 日月潭の人々。 |
194 | 7483 | 家屋と住人たち。 |
195 | 7567 | 盛装した女性と道具類(杵、魚伏せ籠など)。 |
196 | 7228 | サオ族の男と女たち(手に持ったものは煙管)。 |
197 | 7233 | サオ族の女たち(水社)。 |
198 | 7232 | サオ族の男たち。 |
199 | 7357 | 日用道具類(臼、杵、籠、漁具など)。 |
整理番号 | 写真番号 | 解 題 |
253 | 7387 | 集落。水田、バナナ有り。〔秀姑巒渓支那人ノ家屋〕のメモ有り。 |
254 | 7809 | 漢族(?) 漢式のカヤぶき、白力ベ住居だが、ビンロウ樹が多いので、平地原住民の可能性も皆無とは言えない。 |
255 | 7693 | 漢族(?) 水牛による甘庶(サトウキビ)運搬。 |
256 | 7723 | 漢族(?) 水牛と家畜小屋?背後に刺竹もあり、右の人物は、完全に漢式衣服。 |
257 | 7566 | 廟と民家。 |
258 | 7694 | 祠堂と思われる。 |
259 | 7612 | 街通り。破風のレリーフ、現在では、ほとんど見られない。 |
260 | 7280 | 漢族。鳥居の従者く第一回調査時〉文貴。 |
261 | 7331 | 漢族(?) 右から3人目嗅煙草入れを持つ。7332、7334、7335と同一人物。 |
262 | 7332 | 漢族(?)。 |
263 | 7335 | 漢族(?)。 |
264 | 7334 | 漢族(?)。 |
整理番号 | 写真番号 | 解 題 |
265 | 7724 | 尾根上の集落。 |
266 | 7007 | 首棚。 |
267 | 7537 | 首棚。 |
268 | 7538 | 首棚。 |
269 | 7264 | 首狩りにあった頭骨。 |
270 | 7252 | 首狩りにあった頭骨。 |
271 | 7126 | 家屋。 |
272 | 7291 | 牛飼いの子供たち。 |
273 | 7472 | 人物。 |
274 | 7317 | 人物。 |
275 | 7285 | 人物。 |
276 | 7473 | 人物。 |
277 | 7171 | 人物。 |
278 | 7160 | 人物。 |
279 | 7374 | 討伐隊。 |
280 | 7375 | 討伐隊。 |
281 | 7121 | 討伐隊。 |
282 | 7618 | トロッコ。 |
283 | 7563 | 発掘遺跡。 |
284 | 7562 | 発掘遺跡。 |
285 | 7559 | 発掘遺跡。 |
286 | 7560 | 発掘遺跡。 |
287 | 7613 | 発掘遺跡。 |
288 | 7266 | 発掘遺跡。 |
289 | 7202 | 漢族的風景。 |
290 | 7565 | 漢族的風景。 |
291 | 7617 | 漢族的風景。 |
292 | 7392 | 漢族的風景。 |
293 | 7658 | ポートレート。 |
294 | 7659 | ポートレート。 |
295 | 7660 | ポートレート。 |
296 | 7662 | ポートレート。 |
297 | 7661 | ポートレート。 |
298 | 7651 | ポートレート。 |
299 | 7652 | ポートレート。 |
300 | 7653 | ポートレート。 |
301 | 7654 | ポートレート。 |
302 | 7655 | ポートレート。 |
303 | 7656 | ポートレート。 |
304 | 7657 | ポートレート。 |
305 | 7619 | ポートレート。 |
306 | 7620 | ポートレート。 |
307 | 7621 | ポートレート。 |
308 | 7622 | ポートレート。 |
309 | 7623 | ポートレート。 |
310 | 7624 | ポートレート。 |
311 | 7625 | ポートレート。 |
312 | 7626 | ポートレート。 |
313 | 7627 | ポートレート。 |
314 | 7628 | ポートレート。 |
315 | 7632 | ポートレート。 |
316 | 7629 | ポートレート。 |
317 | 7631 | ポートレート。 |
318 | 7630 | ポートレート。 |
319 | 7633 | ポートレート。 |
320 | 7636 | ポートレート。 |
321 | 7635 | ポートレート。 |
322 | 7638 | ポートレート。 |
323 | 7637 | ポートレート。 |
324 | 7634 | ポートレート。 |
325 | 7639 | ポートレート。 |
326 | 7640 | ポートレート。 |
327 | 7650 | ポートレート。 |
328 | 7644 | ポートレート。 |
329 | 7647 | ポートレート。 |
330 | 7642 | ポートレート。 |
331 | 7643 | ポートレート。 |
332 | 7641 | ポートレート。 |
333 | 7645 | ポートレート。 |
334 | 7646 | ポートレート。 |
335 | 7649 | ポートレート。 |
336 | 7648 | ポートレート。 |
■ 千島(Kuril Islands)・樺太(Sakhalin)
解題:中川 裕 1899年5月25日-30日撮影。
http://www.muse.or.jp/torii/
..
鳥居龍蔵 著書・論文目録
「東京大学総合研究資料館標本資料報告 第18号、1990」より転載、増補。
台湾関係著書・論文目録 |
満州関係著書・論文目録 |
千島・樺太関係著書・論文目録 |
沖縄関係著書・論文目録 |
西南中国関係著書・論文目録 |
朝鮮関係著書・論文目録 |
■台湾関係著書・論文目録
土田 滋・姫野 翠・末成 道男・笠原 政治 編
以下の目録は『鳥居龍蔵全集』第5巻、第11巻(1976年 朝日新聞社)によって作製した。 写真判定の際の参考のため倉卒の間にまとめたので、同年の出版物の中での順序付けには甚だ遺憾な点が多い。しかしすでにこの順にしたがってコメントをつけてしまったので、今この段階で訂正をほどこせば混乱をいっそう助長するであろうことをおそれ、敢えてこのままにしておくことにした。諒とされたい。
1896(明治29) | 「鳥居龍蔵氏の近信」『徳島日日新聞』明治29年9月4日;『鳥居龍蔵全集』第11巻:459-460 |
1897 a (明治30) | 「台湾生蕃地探検者の最も要す可き知識」『太陽』3巻15号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:408-415 |
1897 b (明治30) | 「東部台湾、阿眉種族の土器製造に就て」『東京人類学会雑誌』第135号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:561-572[絵][写真](重要) |
1897 c (明治30) | 「東部台湾に於ける各蕃族及び其分布」『東京人類学会雑誌』第136号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:464-485[絵](重要) |
1897 d (明治30) | 「東部台湾ニ棲息セル平埔種族」『東京人類学会雑誌』第132号:『鳥居龍蔵全集』第11巻:521-525[写真](重要) |
1897 e (明治30) | 「鳥居龍蔵氏よりの通信 坪井正五郎氏へ」『東京人類学会誌』第141号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:404-405[給] |
1897 f (明治30) | 「東部台湾諸蕃族に就て」『地学雑誌』9集104・105巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:485-505[絵](重要) |
1897 g (明治30) | 「有蘇蕃の測定」『地学雑誌』9集107巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:553-554 |
1897 h (明治30) | 「台湾通信 紅頭嶼行」『地学雑誌』9輯107巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:592-594 |
1897 i (明治30) | 「台湾に於ける有史以前の遺跡」『地学雑誌』9集107巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:397-399 |
1897 j (明治30) | 「鳥居龍蔵氏よりの通信(坪井正五郎氏へ)」『東京人類学会雑誌』第141号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:404-405 |
1898 a (明治31) | 「紅頭嶼の土人は如何なる種族より成る乎」『地学雑誌』10輯116巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:579-584[写真] |
1898 b (明治31) | 「紅頭嶼通信」『地学雑誌』10輯109巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:594-597 |
1898 c (明治31) | 「台湾人類学調査略報告」『東京人類学会雑誌』第144号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:505-509 |
1898 d (明治31) | 「鳥居龍蔵氏の蕃人調査」『徳島日日新聞』明治31年12月10日;『鳥居龍蔵全集』第11巻:460-461 |
1898 e (明治31) | 「蕃薯寮萬斗社生蕃ノ身体測定」『東京人類学会雑誌』第146号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:602-605[絵](重要) |
1898 f (明治31) | 「台湾基隆ノ平埔蕃ノ体格」『東京人類学会雑誌』第153号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:549-553[絵] |
1899 a (明治32) | 「台湾東南部の人類学的探検」『東京人類学会雑誌』第155号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:462-464 |
1899 b (明治32) | 「台湾阿眉蕃ノ弓箭放射法二就テ」『東京人類学会雑誌』第161号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:572-575[絵](重要) |
1899 c (明治32) | 「南部台湾蕃社探検談」『地学雑誌』11集125・126巻:『鳥居龍蔵全集』第11巻:415-422(重要) |
1899 d( 明治32年3月) | 『人類学写真集 台湾紅頭嶼之部』東京帝国大学理科大学:『鳥居龍蔵全集』第11巻:329-353[写真](重要) |
1900 a (明治33) | 「新高山地方に於ける過去及び現在の住民」『東京人類学会雑誌』第170号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:575-579[絵] |
1900 b (明治33) | 「埔里社方面にて調査せし人類学的事項」『東京人類学会雑誌』第174号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:525-529(重要) |
1900-01(明治33-34) | 「台湾埔里社霧社蕃の言語(東部有黥面蕃語)」『東京人類学会雑誌』第176-178号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:529-539「語彙」(重要) |
1901 a (明治34) | 「台湾阿里山蕃の土器作り」『東京人類学会雑誌』第178号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:558-560[絵](重要) |
1901 b (明治34) | 「東部有黥面蕃語ト苗族語ノ比較」『東京人類学会雑誌』第179号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:539-541「語彙」(重要) |
1901 c (明治34) | 「台湾埔里社(霧社)蕃(東部有黥面蕃)の神話」『東京人類学会雑誌』第180号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:557-558 |
1901 d (明治34) | 「台湾台東方面の有黥面蕃語と霧社蕃語」『東京人類学会雑誌』第181号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:542-546「語彙」(重要) |
1901 e (明治34) | 「紅頭嶼土人の頭形」『東京人類学会雑誌』第182号:『鳥居龍蔵全集』第11巷:584-589 |
1901 f (明治34) | 「埔里社山上万大社の蕃人は東部黥面蕃にあらず」『東京人類学会雑誌』第183号:『鳥居龍蔵全集』第11巻:546-549「語彙」(重要) |
1901 g (明治34) | 「黥面蕃女子の頭形」『東京人類学会雑誌』第18『鳥居龍蔵全集』第11巻:555-557 |
1901 h (明治34) | 「台湾に於ける小人の口碑」『東京人類学会雑誌』第188号;『鳥居龍蔵全集』第11巷:597-598 |
1901 i (明治34) | 「紅頭嶼土人の身長と指極」『東京人類学会雑誌』第189号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:589-592 |
1901 j (明治34) | 「台湾蕃地探検談」『地学雑誌』13集146・147・148巻;『鳥居龍蔵全集』第11巻:422-431(重要) |
1901 k (明治34) | 「台湾中央山脈の横断」『太陽』7巻9・10・12・13号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:431-459(重要) |
1902 (明治35年7月) | 『紅頭嶼土俗調査報告』東京帝国大学;『鳥居龍蔵全集』第11巻:281-328[絵](重要) |
1905 (明治38) | 「台湾生蕃に就ての参考書」『東京人類学会雑誌』第226号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:405-408 |
1907 (明治40) | 「台湾の小人はニグリトーなりしか」『東京人類学会雑誌』第252号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:598-601 |
1909 (明治42) | 「台湾各蕃族の頭形論」『東京人類学会雑誌』第282-285号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:509-521 |
1910 (明治43年12月) | 『人類学研究・台湾の原住民(一)序論(Etudes Anthropologiques.Les Aborigénes de Formose.(1r Fascicule.)Introduction)』東京帝国大学理科大学紀要第28冊第6編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:1-74[写真](重要) |
1911 (明治44) | 「台湾台北円山貝塚」『人類学雑誌』第27巻1号;『鳥居龍蔵全集』第11巻:403-404[写真] |
1912 (明治45年1月) | 『人類学研究・台湾の原住民(二)ヤミ族(Etudes Anthropologiques.Les Aborigénes de Formose.(2e Fascicule.)Tribu Yami)』東京帝国大学理科大学紀要第32冊第4編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:75-120[写真][絵](重要) |
1926 (大正15) | 「台湾の古代石造遺物に就いて」『民族』1巻3号:『鳥居龍蔵全集』第11巻:399-403[写真] |
1953 (昭和28) | 『ある老学徒の手記 考古学とともに六十年』朝日新聞社 |
1896 a (明治29)) | 「遼東半島」『太陽』2巻6、7、9、11、12、14、15号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:573-597 |
1896 b (明治29) | 「遼東半島に於ける高麗の考古学上の事実」『史学雑誌』7編8号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:598-603 |
1905 (明治38) | 「満洲調査復命書」『官報』12月9日付・『史学雑誌』17編2・3・4号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:534-542 |
1905-06( 明治38-39) | 「満洲に於ける人類学的視察談」『東京人類学会雑誌』237・8号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:551-567 |
1906 (明治39) | 「満文字の地図と職貢図」『学燈』10巻1号;『鳥居龍蔵全集』第10巻:532-534 |
1907 a (明治40) | 「入蒙飛信」『日本美術』95号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:567-569 |
1907 b (明治40) | 「蒙古語に就て」『東京人類学会雑誌』251号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:395-398 |
1907 c (明治40) | 「我国のメルヘン(Märchen)と蒙古のメルヘン(Märchen)とに就て」『東亜の光』2巻4号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:475-481 |
1907 d (明治40) | 「日本語と蒙古語の親族的関係」『太陽』13巻5号:『鳥居龍蔵全集』第8巻:398-405 |
1907 e (明治40) | 「蒙古の楽器」『日本美術』100号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:49ト493 |
1907-08 (明治40-41) | 「日豪類似語に就て 第一、二、三、四回」『史学雑誌』18編11号-21編8号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:405-471 |
1908 (明治41) | 「満洲の石器時代遺蹟と朝鮮の石器時代遺蹟との関係に就て」『東京人類学会雑誌』262号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:546-552 |
1909 a (明治42) | 「蒙古旅行談(興安嶺及びシラムレン方面)」『東洋時報』124-5;『鳥居龍蔵全集』第2巻:545-566 |
1909 b (明治42) | 「シラムレン及興安嶺地方旅行談」『地学雑誌』21巻245号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:545-550 |
1909 c (明治42) | 「奈曼族の風俗」『東京人類学会雑誌』278号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:520-521 |
1909 d (明治42) | 「蒙古風俗一斑」『東亜之光』4巻5・6・7号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:482-490 |
1909 e (明治42) | 「蒙古老蛤河水源地の古砦跡」『東京人類学会雑誌』279号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:519-520 |
1909 f (明治42) | 「有史以前の満洲の民族」『中央公論』24年7号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:570-573 |
1909 g (明治42) | 「輿安嶺附近に於ける薩満教の遺風」『東京人類学会雑誌』280号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:495-500 |
1909 h (明治42) | 「マルコポロ旅行記中のNatigayとOngotに就て」『東京人類学会雑誌』281号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:607-610 |
1909 i (明治42) | 「南満洲旅行談」『東洋時報』131・132号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:567-595 |
1909 j (明治42) | 「マルコポロ旅行記に見ゆる蒙古人の風習」『中央公論』24年10号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:521-523 |
1909 k (明治42) | 「老鉄山麓の貝殻墓と其遺物」『東京人類学会雑誌』285号;『鳥居龍蔵全集』第8巷:617-618 |
1910 a (明治43) | 「シラムレン流域及興安嶺方面に於ける東胡民族の遺跡」『地学雑誌』22年256・257・258号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:500-518 |
1910 b (明治43) | 「洞溝に於ける高句麗の遺跡と遼東に於ける漢族の遺跡」『史学雑誌』21編5号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:603-617 |
1910 c (明治43) | 『南満洲調査報告』東京帝国大学刊;『鳥居龍蔵全集』第10巻:1-165 |
1911 a (明治44) | 「遼の上京と其遺品」『國華』21第248・253号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:576-587 |
1911 b (明治44) | 『蒙古旅行』博文館刊;『鳥居龍蔵全集』第9巻:ト284 |
1913 (大正2) | 「満洲より北朝鮮の旅行」『東洋時報』179・180号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:620-637 |
1914 a (大正3) | 「考古学民族学研究・東蒙古の原住民」Etudes Archéologiques de Ethnologiques.Populations Primitives de la Mongolie Orientale.『東京帝国大学理科大学紀要』36冊8編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:121-197 |
1914 b (大正3) | 「人類学研究・満州族」Etudes Anthropologiques.Les Mandchoux.『東京帝国大学理科大学紀要』36冊8編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:199-229 |
1915 (大正4) | 「考古学民族学研究・南満洲の先史時代人」Etudes Archéologiqueset Ethnologlques.Populations Préhistoriques de la Mandchourie Méridionale.『東京帝国大学理科大学紀要』36冊8編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:231-309 |
1917-18 (大正6-7) | 「支那周囲の民族」『東洋時報』231・232号;『鳥居龍蔵全集』第12貴:650-664 |
1920 a (大正9 | 「西伯利亜の有史以前(上)」『人類学雑誌』35巻1号:『鳥居龍蔵全集』第7巻:516-531 |
1920 b (大正9) | 「土俗学上より観たる黒龍江畔の民族」『人類学雑誌』35巻3・4合併号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:560-580 |
1920 c (大正9) | 「東部西比利亜旅行談」『東洋時報』259・260・261号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:664-677 |
1921 (大正10) | 「満蒙の有史以前(学位記)」『官報』大正10年10月5日;『鳥居龍蔵全集』第8巻:525-528 |
1922 a (大正11) | 『北満洲及び東部西伯利亜調査報告』(朝鮮総督府古蹟調査特別報告第二冊)朝鮮総督府;『鳥居龍蔵全集』第8巻:259-280 |
1922 b (大正11) | 「文献史上より遡り観たる南満洲最古の住民」『人類学雑誌』37巻10号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:552-569 |
1922 c (大正11) | 「文献史上より遡り観たる東蒙古最古の住民」『人類学雑誌』37巻12号:『鳥居龍蔵全集』第8巻:471-475 |
1923 (大正12) | 「北満洲東間島にある堡寨と竪穴」『人類学雑誌』38巻5号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:570 |
1924 (大正13) | 『人類学及び人種学上より見たる北東亜細亜』同書店;『鳥居龍蔵全集』第8巻:1-258 |
1926 a(大正15) | 『極東民族 第一巻』文化生活研究会;『鳥居龍蔵全集』第7巻:99-317 |
1926 b ( 大正15) | 「蒙古に於けるアメリカ学術探検隊の仕事に就いて」『太陽』32巻5号:『鳥居龍蔵全集』第8巻:493-495 |
1927 a (昭和2) | 「鳥居きみ子著『土俗学上より観たる蒙古』跋文」昭和6年六文館刊;『鳥居龍蔵全集』第8巻:524-525 |
1927 b (昭和2) | 「満蒙通信 其一、其二」『武蔵野』10巻2・3号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:569-571 |
1928 a (昭和3) | 『満蒙の探査』萬里閣書房;『鳥居龍蔵全集』第9巻:285-393 |
1928 b (昭和3) | 「西比利亜・満蒙通信」『武蔵野』11巻5・6号・12巻2号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:617-623 |
1928 c (昭和3) | 「ネストリアン教の十字発見」『中央公論』43年9号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:689-690 |
1928 d (昭和3) | 「満蒙に於ける人類学上の研究に就きて」『啓明会講演集』25回;『鳥居龍蔵全集』第6巻:559←576 |
1928 e (昭和3) | 「画像石のある古墓」『中央公論』43年10号;『鳥居龍蔵全集』第12巷:690-691 |
1929 (昭和4) | 『西比利亜から満蒙へ』大坂屋号書店;『鳥居龍蔵全集』第10巷:167-217 |
1931 (昭和6) | 「鳥居研究員遼陽発掘報告講演」『東方学報』東京1号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:618-620 |
1932 a (昭和7) | 『満蒙を再び探る』六文館刊;『鳥居龍蔵全集』第9巻:395-542 |
1932 b (昭和7) | 「南満洲および東蒙古の新石器時代遺物」Restes Néoithiques de la Mandchourie Méridionale et de la Mongolie Orientale.第一回極東先史学者学会研究発表:『鳥居龍蔵全集』第5巻:657-658 |
1932 c (昭和7) | 「満洲国に於ける五大遺跡に就て」『歴史教育』7巻2号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:542-546 |
1932 d (昭和7) | 「猴王孫呉空(遼代の壁画)」『武蔵野』18巻2号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:602-604 |
1932 e (昭和7) | 「満洲だより」『武蔵野』19巻2・3号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:576-578 |
1932 f (昭和7) | 「朝鮮・満洲の磨製石器に就て」『上代文化』8号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:643-646 |
1932 g (昭和7) | 「満洲国より武蔵野へ」『武蔵野』19巻4号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:578-579 |
1932 h (昭和7) | 「私共の今回旅行した地方と其の仕事」『ドルメン』1巻8号:『鳥居龍蔵全集』第6巻:654-656 |
1932 i (昭和7) | 「我が国と契丹文化の関係」『セルパン』22巻16号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:650-654 |
1933 a (昭和8) | 「遼の皇都とその陵墓」『国際写真情報』11巻1号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:682-684 |
1933 b (昭和8) | 「契丹の陵墓とその陵碑に就いて」『上代文化』9号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:609-616 |
1933 c (昭和8) | 「ホロンパイルと熱河について」『歴史公論』2巻4号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:528-532 |
1933 d (昭和8) | 「私と熱河省の研究に就て」『ドルメン』2巻4号;『鳥居龍蔵全集』第8巻:532-534 |
1933 e (昭和8) | 「東蒙古に存在する金剛界曼陀羅の磚塔」『中央美術』(復興)1号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:622-628 |
1934 a (昭和9) | 「満洲・蒙古を探る」『中央公論』49年2号;『鳥居龍蔵全集』第12巻:693-700 |
1934 b (昭和9) | 「近頃発見せられた契丹文字に就て」『書物展望』4巻3号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:677-681 |
1934 c (昭和9) | 「遼代陵墓内の壁画に就て」『中央美術』8号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:595-599 |
1934 d (昭和9) | 「契丹の残した遺蹟の探査に就て」『歴史科学』3巻4号:『鳥居龍蔵全集』第6巻:618-622 |
1935 (昭和10) | 「満洲北支通信」『武蔵野』22巻12号;『鳥居龍蔵全集』第9巻:579-580 |
1936 a (昭和11) | 「遠の王陵壁画に就て」『ミネルバ』4号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:600-602 |
1936 b (昭和11) | 『考古学上より見たる遼之文化図譜 第一冊~第四冊』東方文化学院東京研究所刊 |
1936 c (昭和11) | 「満洲陵墓と景教との関係に就て」『史学雑誌』47巻6号;『鳥居龍蔵全集』第6巻:604-605 |
1936 d (昭和11) | 『満蒙其他の思ひ出』岡倉書房刊;『鳥居龍蔵全集』第12巻:1-136 |
1937 a (昭和12) | 『遼の文化を探る』章華社刊;『鳥居龍蔵全集』第6巻:369-556 |
1937 b (昭和12) | 「景教に関する画像石」『考古学雑誌』27巻2号:『鳥居龍蔵全集』第6巻:605-609 |
1939 (昭和14) | 「遼の中京城内に存在する石器時代の遺蹟」『東方学報』東京9冊;『鳥居龍蔵全集』第6巻:587-595 |
1940 a (昭和15) | 「北魏時代の下花園石窟寺」A Pei Wei Buddhist Cave Temple atHsia-Hua-Ytian.Occasional Papers,Harvard-Yenching Institute,Peking Office 1940;『鳥居龍蔵全集』第5巻:671-680 |
1940 b (昭和15) | 「契丹黒山嶺考」『燕京学報』28期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:33-46 |
1941 (昭和16) | 「契丹之角砥」『燕京学報』29期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:45-56 |
1942 (昭和17) | 『遼代の画像石墓』Sculptured Stone Tombs of the Liao Dynasty.Harvard-Yenching Institute,1942;『鳥居龍蔵全集』第5巻:555-638 |
1943 (昭和18) | 「契丹と中央亜細亜との服装の類似に就て」『中央亜細亜』2巻2期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:628-641 |
1944 (昭和19) | 「再び契丹と中央亜細亜との服装と建築の類似に就て」『中央亜細亜』3巻1・2期合刊;『鳥居龍蔵全集』第6巻:642-650 |
1946 a (昭和21) | 「石面彫刻の渤海人の風俗とササン・ベルシア式胡瓶」石面彫刻之渤海人風俗与薩珊式胡瓶『燕京学報』30期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:21-31 |
1946 b (昭和21) | 「ササン・ペルシア様式の瓶と渤海人の風習」Vases of the Sas-Sanian Style and the Ways and Manners of the Pohai People.『燕京学報』30期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:31 |
1946 c (昭和21) | 「中国支石墓(石棚)の研究」中国石棚之研究『燕京学報』31期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:1-19 |
1947 (昭和22) | 「奴児干都司考」『燕京学報』33期;『鳥居龍蔵全集』第6巷:295-350 |
1948 a (昭和23) | 「金上京城仏寺考」『燕京学報』34期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:273-293 |
1948 b (昭和23) | 「金の上京城及びその文化」金上京城及其文化『燕京学報』35期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:209-272 |
1949 (昭和24) | 「遼の上京城内遣存の石人考」遼上京城内遺存之石人考『燕京学報』36期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:57-81 |
1950 (昭和25) | 「遠の中京城内遣存の二石像考」遼中京城内遣存之二石像考『燕京学報』38期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:83-108 |
1951 (昭和26) | 「遼上京城の南、伊克山上の遼代仏剃」遼上京城以南伊克山上之遼代仏刺『燕京学報』40期;『鳥居龍蔵全集』第6巻:109-207 |
1953 (昭和28) | 『ある老学徒の手記』朝日新聞社;『鳥居龍蔵全集』第12巻:137-342 |
■千島アイヌ関係著書・論文目録
中川 裕編
以下の目録は『鳥居龍蔵全集』第5巻、第7巻、第12巻(1976年 朝日新聞社)によって作 成した。
1895 (明治28) | 「アイヌの木偶と云へる物」『東京人類学雑誌』109号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:441-443 |
1899 (明治32) | 「千島土人制作の木偶」『東京人類学雑誌』163号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:443-445 |
1902 (明治35) | 「千島土人の土俗」『東京人類学雑誌』190号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:439-441 |
1903 a (明治36) | 『千島アイヌ』吉川弘文館;『鳥居龍蔵全集』第7巻:1-98 |
1903 b (明治36) | 「北千島アイヌの入墨に就て」『東京人類学雑誌』;『鳥居龍蔵全集』第7巻:445-447 |
1904 (明治37) | 「千島アイヌに就いて」『地学雑誌』16巻191・192号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:425-435 |
1913 (大正2) | 「民族学上千島アイヌの位置」『民俗』1年2報;『鳥居龍蔵全集』第12巻:700-706 |
1919 (大正8) | 『考古学民族学研究・千島アイヌ』Etudes Archéologiques et Ethnologiques.Les Aenou des Iles Kouriles.東京帝国大学理科大学紀要第42冊第1編;『鳥居龍蔵全集』第5巻:331-553 |
1933 (昭和8) | 「北千島アイヌの仮面」『ドルメン』2巻1号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:447-449 |
1939 (昭和14) | 「ミルン氏と私の北千島探査に就て」『武蔵野』26巻4号;『鳥居龍蔵全集』第7巻:435-438 |
■沖縄関係著書・論文目録
笠原 政治編
以下の目録は『鳥居龍蔵全集』第5巻、第7巻、第12巻(1976年 朝日新聞社)によって作 成した。
1894 a (明治27) | 「琉球二於ケル石器時代ノ遺跡」『東京人類学会雑誌』94号;『鳥居龍蔵全集』第4巻:611-612 |
1894 b (明治27) | 「琉球諸島女子現用ノはけだま及ビ同地方掘出ノ曲玉」『東京人類学会雑誌』96号;『鳥居龍蔵全集』第4巻:612-615 |
1897 (明治30) | 「日本古代の神話と宮古島の神話」『東京人類学会雑誌』130号;『鳥居龍蔵全集』第4巻:609-610 |
1904 a (明治37) | 「森山氏の琉球語のことに就て」『東京人類学会雑誌』222号;『鳥居龍蔵全集』第4巻:625-628 |
1904 b (明治37) | 「沖縄人の皮膚の色に就て」『東京人類学会雑誌』223号;『鳥居龍蔵全集』第4巻:616-625 |
1905 a (明治38) | 「沖縄諸島に住居せし先住人民に就て」『東京人類学会雑誌』227号;『鳥居龍蔵全集』第1巻:24ト248 |
1905 b (明治38) | 「八重山の石器時代の住民に就て」『太陽』第11巻5号;『鳥居龍蔵全集』第1巻:248-256 |
1918 (大正7) | 『有史以前の日本』磯部甲陽堂(大正14:改訂版);『鳥居龍蔵全集』第1巻:167-453 |
1953 (昭和28) | 『ある老学徒の手記』朝日新聞社;『鳥居龍蔵全集』第12巻:137-343 |
■西南中国関係著書・論文目録
曽 士才編
以下の目録は『鳥居龍蔵全集』第5巻、第7巻、第12巻(1976年 朝日新聞社)によって作成した。
1901 (明治34) | 「東部有黥面蕃語と苗族譜の比較」『東京人類学雑誌』179:『鳥居龍蔵全集』第11巻:539-541 |
1903 a (明治36) | 「清国雲南玀猓調査」『東京人類学会雑誌』204;『鳥居龍蔵全集』第10巻:576-580 |
1903 b (明治36) | 「苗族と玀猓に就て」『東洋学芸雑誌』20-259;『鳥居龍蔵全集』第11巻:357-368 |
1903 c( 明治36) | 「支那に於ける苗族の地理学的分布並にその現状」『地学雑誌』15-173,174;『鳥居龍蔵全集』第11巻:368-383 |
1903 d (明治36) | 「支那の苗族」火曜会講演;『鳥居龍蔵全集』第12巻:713-729 |
1903 e (明治36) | 「清国西南部人類学上取調報告」『東京人類学会雑誌』208;『鳥居龍蔵全集』第10巻:553-559 |
1903 f (明治36) | 「玀猓の文字」『学燈』7-10:『鳥居龍蔵全集』第10巻:586-594 |
1903 g (明治36) | 「清国四川省の満子洞」『考古界』3-7,10,11,4-1:『鳥居龍蔵全集』第10巻:605-622 |
1904 (明治37) | 「余の携えたる一個の銅鼓に就て」『東洋学芸雑誌』21-286;『鳥居龍造全集』第10巻:626-643 |
1905 a (明治38) | 「苗族は現今如何なる状態にて存在する乎」『史学雑誌』16-3~5;『鳥居龍蔵全集』第11巻:383-396 |
1905 b (明治38) | 「玀猓の神話」『帝国文学』11-9;『鳥居龍蔵全集』第10巻:594-602 |
1907 a (明治40) | 『苗族調査報告』東京帝国大学(理科大学人類学教室)刊 |
1907 b (明治40) | 「玀猓種族の体質」『東京人類学会誌』257,261;『鳥居龍蔵全集』第10巻:580-586 |
1916 (大正5) | 「貴州雲南の苗族」『東洋時報』209,210;『鳥居龍蔵全集』第12巻:637-650 |
1918 (大正7) | 『有史以前の日本』磯部甲陽堂刊;『鳥居龍蔵全集』第1巻:167-453 |
1923( 大正12) | 「支那の南蛮に弓箭なきか」『人類学雑誌』38-6;『鳥居龍蔵全集』第10巻:574-576 |
1924 (大正13) | 『日本周囲民族の原始宗教』岡書院刊;『鳥居龍蔵全集』第7巻:319-422 |
1926 (大正15) | 『人類学上より見たる西南支那』冨山房刊;『鳥居龍蔵全集』第10巻:219-521※『中国の少数民族地帯をゆく』朝日選書1980として再刊 |
1953 (昭和28) | 『ある老学徒の手記-考古学とともに六十年』朝日新聞社:『鳥居龍蔵全集』第12巻:137-343 |
1896 (明治29年) | 「遼東半島ニ於ケル高麗ノ考古学上ノ事実」『史学雑誌』7-8(『鳥居龍蔵全集』第8巻:598-603) |
1896 (明治29年) | 「高麗種族の文様」『東京人類学会雑誌』123(『鳥居龍蔵全集』第8巻:620-625) |
1910 a (明治43年) | 「満州に於ける高句麗の遺跡と遼東に於ける漢族の遺跡」『史学雑誌』21-5(『鳥居龍蔵全集』第12巻:603-617) |
1810 b (明治43年) | 「鴨緑江畔洞溝に於ける高句麗の遺跡」『東洋時報』137・140(『鳥居龍蔵全集』第12巻:595-610) |
1912 (大正1年) | 「咸鏡南北道及び東間嶋旅行談」『東洋時報』168・169・170(『鳥居龍蔵全集』第12巻:610-620) |
1913 (大正2年) | 「満州より北朝鮮の旅行(高句麗遺跡の一班)」『東洋時報』168・179・180(『鳥居龍蔵全集』第12巻:620-637) |
1914 a (大正3年) | 「鳥居龍蔵氏よりの通信」『人類学雑誌』29-2-8(『鳥居龍蔵全集』第8巻:673-677) |
1914 b (大正3年) | 「丸都城及び国内城の位置に就きて」『史学雑誌』25-7(『鳥居龍蔵全集』第8巻:646-658) |
1917 (大正6年) | 「朝鮮総督府大正五年度古墳調査報告 平安南道、黄海道古墳調査報告書」(『鳥居龍蔵全集』第8巻:331-392) |
1920 (大正9年) | 「日本人は『同源』なり」『同源』1(『鳥居龍蔵全集』第12巻:538-539) |
1920 (大正9年) | 「有史以前の日韓関係」『同源』3(『鳥居龍蔵全集』第12巻:539-541) |
1921 (大正10年) | 「朝鮮咸鏡道と沿海州の先史時代に就いて」『東亜の光』16-3・4(『鳥居龍蔵全集』第8巻:658-667) |
1922 (大正11年) | 「朝鮮全羅南道順天立石里に於けるメンヒルに就いて」『人類学雑誌』37-10(『鳥居龍蔵全集』第8巻:669-672) |
1923 (大正12年) | 「有史以前に於ける朝鮮と其の周囲との関係」『朝鮮』101625-643 |
1924 (大正13年) | 「朝鮮咸鏡北道雄基湾内貝塚」(『鳥居龍蔵全集』第8巻:668) |
1925 (大正14年) | 「朝鮮の土器作り」『有史以前の日本』(『鳥居龍蔵全集』第1巻:315-320) |
1926 (昭和1年) | "Les Dolmen de la Coree"(朝鮮のドルメン)『東洋文庫欧文紀要』第1巻(『鳥居龍蔵全集』第5巻:645-654) |
1932 (昭和7年) | 「朝鮮・満州の磨製石器に就いて」『上代文化』8(『鳥居龍蔵全集』第8巻:643-646) |
1953 (昭和28年) | 「第一回朝鮮の調査」『ある老学徒の手記-考古学とともに六十年』152-157 |
1953 (昭和28年) | 「第二-六回朝鮮の調査」『ある老学徒の手記-考古学とともに六十年』164-174 |
1953 (昭和28年) | 「昭和七年満鮮の調査」『ある老学徒の手記-考古学とともに六十年』245-246 |
http://www.muse.or.jp/torii/
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