Năm 1956. Theo cách gọi của lịch Nhật Bản, thì là năm Chiêu Hòa 31.
Nước Nhật đã hồi sinh.
Tokyo của thời đó là như thế.
Xuất bản 28 thg 11, 2013
「PARTNERS IN FREEDOM,1956」という題名のアメリカ空軍制作の映画(1956年(昭和31年)6月公開)より抜粋。
有楽町で建設中のよみうりホール(現:有楽町ビックカメラ)、銀座、歌舞伎座、皇居周辺、浅草仲見世などを何度も撮影しています。
有楽町で建設中のよみうりホール(現:有楽町ビックカメラ)、銀座、歌舞伎座、皇居周辺、浅草仲見世などを何度も撮影しています。
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0:36 歌舞伎座の幟が明らかに「九月大歌舞伎」と読めるので、これは昭和30年9月、「初代中村吉右衛門一周忌追善大歌舞伎」だろう。したがって、少なくともこのシーンの撮影は前年(1955年)9月と思われる。ただし、56年6月という公開年月日が正しければ、だが。
最初に潜るガードの柱は現存「明治時代の橋脚」
工事中の建物は、旧「有楽町そごう」現「ビックカメラ」ですね、
足場が「杉丸太、針金留め」。
1:10「第一生命ビル」1952年までは占領軍の(マッカーサー)司令部「GHQ」ですね。
今でもマッカーサーの執務室が保存してあると思う。
1:29「日活国際会館」戦後初の大型ビルで、上階「日活ホテル」で石原裕次郎や美空ひばりが結婚式を挙げて有名に。マリリン・モンローも宿泊。
(お祭りの神輿は芝。金杉橋辺り?)
2:51銀座4丁目、森永キャラメルの球形のネオンサイン。正面奥に見えるのは、旧「日劇」、隣の朝日新聞社ビルと合体して現「マリオン」
3:26右が「服部時計店」(SEIKO)(ゆく年、くる年の恒例画像建物)
4:38この大型の建物は何だろう??格好良くないから、逓信省か??
4:58丸の内三菱地所ビル戦前からの建物群(旧称:一丁倫敦(ロンドン))
ビル高さ制限(百尺=約30m)で、ビル上部が揃っているので綺麗ですね。
5:25「国会議事堂」
戦争中は目立たないように黒く塗っていたらしいが、洗浄したのは何時でしょうかね?
5:38繰り返される左に大型和風建築は「常盤堂・雷おこし」??浅草??
6:32「銀座松屋」(横浜の鶴屋呉服店からの発展)
面白い映像なのに、これ位しか分からなくてスマン。
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what ever travel OR newsreel Corp did these great (really clean and clear) 35ml.films...God BLESS them...(Tokyo don't look like that anymore) 😄✌peace
敗戦の昭和20年頃から昭和38年頃までに、朝鮮人など、大勢の移民が日本に押し寄せて来た。昭和40年代の電電公社(NTT)の「現在使われておりません」の女性の声が朝鮮語なまりだった。昭和44年の池袋の動画を観たら結局は中国語。この頃の日本は、人口構成の革命のようなものだったんだろう。現在に繋がる人口構成の土台を作っていった時代。
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コメント欄もこの映像がいつごろか?で論議になっていますが、結局いつごろなんでしょうか?
昭和31年と39年では偉い違いですからね。。今の8年間なら何もかわりゃしないけど、この頃の8年間はかなり違う。やはりアップ主さんが出典も明記している昭和31年が正しいのかな?だとしらら、わずか10年で高層ビルや自動車、鉄道高架橋とかあって、ここまで復興通り越して発展しているのは驚異的ですよね。現代なんか「失われた20年」なんていわれて、20年前とほとんど街の風景変わってないし沈滞しているし。
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戦前生まれの方々が社会の中枢におられた時代。その時代までが、歴史を学び国や郷土を大切にした日本人がいた時代だったのではないかと最近よく考えます。戦後生まれが世の大半を占めた今の日本は、日本という名の別な国。戦後民主主義など糞食らえと思う所があります。
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戦後10年でここまで復興させたGHQマジすげぇ。
日本人じゃ何百年かかっても出来なかった農地改革に女性選挙権それに人権の確立はじめ
わずか数年で抜本改革させたアメリカ人ってやっぱすごいね。
いかに日本人がダメだったかも思い知らされた。
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hihumishinjiさん、こんにちは。「昭和31年」は、間違いですね。「歌舞伎座」前の路面が舗装されています。この歌舞伎座の前に、当時、霞ヶ関が工事中で○○省ありましたから。また、歌舞伎座前の歩道もありません。狭い砂利道で車2台がようやく通行できるでしたが、拡張されてますね。たぶん、オリンピック直前か、後あたりで、時代的には(1964年昭和39年)。けれど、貴重なFilmですね。
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1950年代の貴重なカラー映像ですね。当時10代や20代だった今の高齢者の方々にこの動画を見てもらい、若き青春時代を思い出して元気に長生きして欲しいですね。ぜひ後世に残すべき貴重動画ですね。アップありがとうございます。
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むかしの官公庁は・・・なんと・・・冷房がなかったんです・・・・
ネクタイしめたままスーツ着て、だらだらと流れ出るあせをふきつつ会議にいそしんでいたんですよね~~。エライ・ほんとにエライ! そしてまだパソコンもワープロもなかった時代、会議資料はすべて手書き・・・本当に頭が下がります。
街中のバスや市電・・そしてJRの通勤電車もない車両が多かった・・・わたしが小さな子供頃旅行に行くときは、昼寝をさせるためにわざわざグリーン車のキップをとりました。当時グリーン車は唯一冷房が100パーセントだったからです。
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無知な世代が、生まれて初めて日本の高度成長を知り、凄い凄いと騒いでいるのです。こんなものはある一定以上の世代では常識なんです。戦後の日本人ほど自信と誇りに溢れた国民はいなかったんじゃないかな。
でもね、これを知られると産経系の連中には都合が悪いから敢えて隠しているよね。日本の戦後の成功を否定するところに存在理由を置いてる勢力ですからね。彼らも朝日と同様に報道しない自由をいかんなく発揮してくれてます。
まあ、戦前を否定するか戦後を否定するか、どっちの勢力の論調もくだらないでものなのです。
私は昭和31年(1956年)生まれですが、この映画が公開された6月にはまだ生まれていませんでした。私の両親はこんな時代に新婚生活を送ったんですね。何とも不思議な感じがします。しかし街並みが今とは違う何とも言えない趣があっていいですね。
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ここに記録されている東京のような街が、今の世界のどこかにあったとしても、たいへんな街でしょう。戦時中の空襲で焼け野原になってから、十年そこそこでこれほどに復興したのは世界の脅威といえるでしょう。そしてそれは"再生"であって、戦後に発展したのではありません。日本かいかにすごい国であるかがよくわかります。アメリカをやたら礼賛してそのぼったくりを許し、国内に貧困層を増やし続けている政治家に注意しましょう。
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大戦による焼け野原から人々は立ち上がり、豊かで幸せな街並を取り戻すべく尽力し復興させていった。
戦後70年が経ち、戦争を知らない愚かな世襲議員らがアメリカの為に、この国を戦争の危機にさらそうとしている。
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戦争後まもないことがわかる
歩いている成人男性のほとんどの歩幅が同じで歩き方も前足をきちんと伸ばした
歩き方、所々無意識に前列の男性の歩調に合わせている
すごいなたった十年でビルがたくさんすごいなぁ
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これは貴重な映像!
戦後10年、大空襲から10年・・・
ガンバレ日本人!(過去に叫びたくなります笑)
一つ気づきました。
祭りの風景。現在も全く変わっていない風景。
伝統と歴史、そして精神を脈々と受け継いできた証拠。
先人に感謝です♪
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1956年(昭和31年)6月公開の映画の一部ということは、ここに写っている夏の東京は、近くてもその前年の昭和30年ということになりますよね。経済白書でもはや戦後ではないと言われた頃ですが、それは戦前の日華事変勃発前の昭和12年の水準を回復したことですから、戦前を再認識して見直す良い材料でもあるでしょう。昭和30年代初頭と戦前の昭和10年代初頭とを比較して、無かった物はテレビくらいといわれます。
素直に先人たちへの感謝が心にわきあがる映像です
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未編集ラッシュに見えますが、映画本編はどういうものだったのでしょうか?題名から推測するに反共プロパガンダ映画なのでは?1956年といえば東アジアの冷戦構造が決定的なものになったといってよい年だし。東京以外にもソウル、台北、マニラといった都市もこんな感じで紹介してたんだとしたら全編を見てみたいですね。日本の都市とは別枠で那覇がでてきたりしてそう。
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