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14/09/2016

Nguyên Tổng Bí thư đảng cầm quyền vừa từ trần trong tủi buồn

Điểm tin ông từ trần, bởi thời đó, ông đã gây một cơn biến loạn lớn trong chính trường Nhật Bản. Nhớ về ông như nhớ về kỉ niệm của một thời đã qua.

Loạn đó gọi là "loạn Kato". Ông là Kato 加藤紘一, gây loạn, nên gọi là "loạn Kato". Ông mất ở tuổi 77 trong sự tủi buồn của một chính khách bị mất uy tín. 

Một người được kì vọng trở thành Thủ tướng Nhật Bản (và trên thực tế thì đàn em Koizumi của ông, do ông đào tạo thì thành Thủ tướng). Rồi mất uy tín. Đến những lần bầu bán thì đều thất bại. Phải lủi thủi rút khỏi chính trường. 

Ông vốn là Tổng Bí thư của đảng cầm quyền Tự do Dân chủ của Nhật thời đầu thế kỉ 21, sử dụng ông Nonaka là người có quyền "đại lí Tổng Bí thư". Tức Kato và Nonaka là tâm phúc của nhau.

Nonaka (năm nay đã 90 tuổi) và Kato là cặp bài trùng, quyền thế một thời. Thế nhưng khi Kato phản bội đảng, thì Nakano vừa nhậm chức Tổng Bí thư (là Tổng Bí thư nhưng không ra nhậm chức Thủ tướng), và Nonaka đã khai trừ ngay Kato khỏi đảng.

Đại khái loạn Kato ngày đó đã được dẹp yên bởi quyết định khai trừ của Nonaka. 

Vì lợi ích của đảng, Nonaka đã phải dẹp bỏ người tâm phúc nhất của mình. Chính trị là như vậy.

Lớp hậu sinh chúng tôi luôn nhớ về các ông, Kato và Nonaka. Dĩ nhiên, như là nhớ về các diễn viên trên kịch trường. Vở kịch mà chúng tôi đã xem thời đó.

Sau này, Kato có trúng cử một lần, rồi trở lại là đảng viên của Tự do Dân chủ. Nhưng cứ dần dần suy thoái.

Anh L. (khi đó theo học bên Waseda, chỗ cụ Tsuboi) thì phát hiện: Kato rất điệu ! Bởi mỗi lần chuẩn bị ra khỏi nhà thì đều trang điểm, phấn son như phụ nữ. Chính trị chuộng phấn son, vốn là vậy.

Dưới là tin mới lên của báo chí Nhật.





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自民党の元衆議院議員で、官房長官や党の幹事長など、政府や党の要職を歴任した加藤紘一氏が9日、東京都内の病院で肺炎のため亡くなりました。77歳でした。
加藤氏は、山形県鶴岡市出身で、東京大学を卒業後、外務省を経て、昭和47年の衆議院選挙で旧山形2区から立候補して初当選し、13回当選しました。この間、第2次中曽根改造内閣で、防衛庁長官として入閣し、その後も、宮沢内閣の官房長官や、党の幹事長、政務調査会長など、政府や党の要職を歴任しました。
自民党内では、総理・総裁の有力候補とされ、平成10年には派閥を宮沢元総理大臣から引き継ぎ、会長に就任しました。
また、加藤氏は、小泉・元総理大臣、山崎・元自民党副総裁と近かったことでも知られ、3人の盟友関係は「YKK」とも呼ばれました。
こうした中、平成12年秋の臨時国会で、内閣支持率が低迷していた当時の森総理大臣の退陣を求めて、野党側が提出した森内閣に対する不信任決議案に賛成する意向を示しながら、採決直前に方針を変更した、いわゆる「加藤の乱」を主導し、加藤派は分裂しました。
平成14年には、みずからの事務所の元代表が所得税法違反の罪で起訴されたことを受けて、自民党を離党し、衆議院議員を辞職しましたが、翌15年の衆議院選挙に無所属で当選した後、自民党に復党しました。そして、平成24年12月の衆議院選挙で落選した後、3女の鮎子氏を後継に指名し、政界を引退していました。
その後、加藤氏は体調を崩し、9日、東京都内の病院で肺炎のため亡くなりました。







森元首相 次を担う人だった

森元総理大臣は、NHKの取材に対し、「加藤氏は、自民党の苦しい時代をともにした政治家の1人であり、非常に残念な思いだ。優秀な政治家で、外交が大変な局面にある今、加藤氏がいてくれればと思うことは何度もある。海外の首脳にも、加藤氏を念頭に、『私の後継は外交に精通した人だ』と紹介したこともあり、本当に次を担う人だと思っていた。それだけに、いわゆる『加藤の乱』の時に、なぜあそこまで急いだのかという思いはある」と述べました。

古賀元幹事長 非常に無念な思い

かつて、自民党加藤派の幹部として加藤氏を支え、いわゆる「加藤の乱」でたもとを分かった古賀誠元自民党幹事長は、NHKの取材に対し、「加藤政権の実現を夢見た1人として非常に無念な思いだ。平成11年の自民党総裁選挙に、加藤氏が当時の小渕総理大臣の対立候補として立候補したが、将来の加藤政権実現のために止めようとして止められなかったのが、いちばん印象に残っている」と述べました。

野中元幹事長 「加藤の乱」思い出深い

加藤氏が自民党幹事長だった時、幹事長代理を務めた野中元自民党幹事長は、「大変、立派な人だった。惜しい人を亡くした。政治家としての能力も非常にすぐれていて、指導者としても立派な人だった。『加藤の乱』の時のことが最も思い出深く、当時のことを静かに考えながら冥福を祈っている」と述べました。

自民党の政務調査会長などを務めた亀井静香衆議院議員は、「大変、残念だ。すぐれた政治家だったが、不運な政治家でもあった。総理大臣になる実力もあったが、狙ってはいけない時に狙ってしまった。非常に真面目で純粋な人だったと思う」と述べました。

加藤氏と派閥で行動をともにしていた、自民党の川崎元厚生労働大臣は、NHKの取材に対し、「ウイングの広い政治家で、弱者に対しても、やさしい視点を持った政治家だった。自分が理想とする政治を追い求めた結果、無理をしてしまった。黙っていても総理大臣になれる政治家だっただけに、とても残念だ」と述べました。

山崎元副総裁「英知を失った」

加藤氏と盟友関係にあった、山崎元自民党副総裁は、「訃報に接し、強烈な衝撃を受けた。政界のトップリーダーの1人として活躍し、とりわけ、日中友好の進展などに全力を尽くしてきたほか、平和憲法を守って日本の防衛政策が専守防衛に徹することを強く主張してきた。かけがえのない英知を失ったことを、心より惜しむ」とするコメントを発表しました。

地元では功績をたたえる声

地元、山形県鶴岡市のJR鶴岡駅の前では、驚きや功績をたたえるの声が聞かれました。地元に住む20代の男性は「地域を代表する政治家だったので、よく頑張った方だったと思う」と話していました。
東京から訪れた40代の男性は「いわゆる『加藤の乱』が印象に残っています。偉大な政治家だと思っていたので非常に残念です。驚きました」と話していました。

加藤氏の三女の加藤鮎子衆議院議員は、報道各社の取材に応じ、「亡くなる2日前に会い、日ごろの活動の報告や孫の話をしました。政治家としてはしっかり根を張りながらまわりを見渡せる大木のような人でした。父としてはまじめで頑張り屋の人でした」と話しました。

言論の自由 訴え続けた

加藤紘一氏は生前、自身の靖国神社をめぐる発言を理由に山形県の実家が放火されましたが、講演や著書で暴力に屈することなく、言論の自由の重要性を訴え続けました。

加藤氏は小泉純一郎氏が総理大臣だった当時、近隣諸国との関係から総理大臣が靖国神社に参拝することに反対していました。小泉氏は総理大臣として最後の参拝を平成18年の8月15日に行い、加藤氏は、参拝後の記者会見でも「かつて日本と戦いを交えた国は、挑戦的な行動だと受け止めざるをえないので、できれば参拝を控えてほしかった」と述べていました。そして、その日の夕方に加藤氏の山形県鶴岡市の事務所と棟続きの実家が右翼団体の男に放火されて全焼し、この男は警察の調べに対し、「小泉総理大臣の靖国神社参拝に関して加藤氏が慎重な発言をするなど、その政治姿勢に不満があった」と犯行の動機を供述しました。

この事件をめぐっては、政界だけでなく、弁護士やジャーナリストなどから「言論を封じるテロを断じて許さない」という批判の声が上がりました。放火された実家に住んでいた加藤氏の高齢の母親は、事件当時、外出していて無事でしたが、加藤氏は事件当初、強いショックを受けた様子でした。それでも、加藤氏は講演などでテロに屈しないという態度を貫き通し、言論の自由の重要性を訴え続けました。

事件後に出版した著書、「テロルの真犯人」の中でも「代議士として国民の負託を受けている以上、発言を曲げることはあってはならないし、これからも、語るべきことは語っていくつもりでいる」と述べたうえで、「昭和初期の、五・一五事件、二・二六事件の例を挙げるまでもなく、テロは自由な言論の最大の敵である。ここで私の心がくじけたら、この国の将来に対して大きな禍根を残すことになる」と、テロに屈しない覚悟を強く示していました。

新華社通信 功績を称賛

加藤氏の死去について、中国国営の新華社通信は、日本時間の10日夜、記事を配信しました。この中で、加藤氏について、「長年にわたって、日本の侵略の歴史を反省するよう呼びかけ、これを美化するような言動を批判してきた。政治家を引退したあとも、安倍政権による自衛隊の集団的自衛権の行使を可能にする安全保障法制を公然と非難し、正義の声を発し続けた」と称えています。
そのうえで、加藤氏が日中友好協会の会長を務めるなど、日中間の友好交流のために力を尽くしてきたことを紹介しました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160910/k10010680051000.html




 波乱の政治家人生を送った加藤紘一元自民党幹事長が9月9日、亡くなった。77歳だった。

「惜しい人を亡くした。加藤さんが幹事長の時、私は幹事長代理としてお仕えし、本当に魂の触れ合う仲だった。総理にしたかった政治家だった。足を引っ張られる形で政界を辞めなくてはならなかったのは悲しいこと。心からご冥福をお祈りしたい」

 加藤氏の訃報を聞いた野中広務元官房長官(90)は、本誌の取材に声を詰まらせた。

 加藤氏は山形県鶴岡市出身。東大卒業後、外務省に入省し、1972年の衆院選で初当選。防衛庁長官、官房長官、党幹事長など政府や党の要職を歴任し、宏池会のプリンスとして「将来の首相候補」として注目を集めた。

 竹下登元首相が率いた経世会(現平成研究会)に対抗し、加藤氏は小泉純一郎氏、山崎拓氏と「YKK」を結成。「政官財と癒着している」として、当時の竹下・金丸支配に異議を申し立てた。

 そんな政界のプリンスは2000年秋、森喜朗首相(当時)に反旗を翻し、辞任を迫った「加藤の乱」を起こしたが、直前になって不信任案の採決に欠席。加藤氏は一人で本会議場に乗り込む構えだったが、一番の子分、谷垣禎一前幹事長が「加藤さんは大将なんだから、行っちゃダメだ」と涙ながらに説得する場面はテレビで何回も放送された。
 野中氏は当時、党幹事長で「加藤の乱」を鎮圧する側の責任者だった。

「あの時、私は止める側の幹事長でしたから、複雑でした。何とか思いとどまらせたかったが、結果的にその後の人生は狂ってしまったんだよね」(野中氏)

 02年には元事務所代表の脱税事件の責任を取って議員辞職に追い込まれた。14選を目指した12年の衆院選で敗れ、政界を引退。最近では共産党機関紙「しんぶん赤旗」のインタビューで、安倍政権の集団的自衛権の行使容認を批判していた。

 盟友の山崎氏は7月、『YKK秘録』(講談社)を出版。加藤氏が元気なうちに出版したかったようだ。

「終生の畏友であった加藤紘一氏の訃報に接し、強烈な衝撃を受けました。日本の政界がかけがえのない英智を失ったことを心より惜しむ次第です」

 山崎氏はそうコメントを発表。YKKの中でただ一人、首相になった小泉氏は「YKKは友情と打算の二重奏です」と語ったが、いま残るのは友情に違いない。

週刊朝日 2016年9月23日号

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